伍之壱 無自覚
自分の体で侵入したわけではないものの、分身の体で初めて『神世界』を体験した夜、私はいつも通り訓練場にいた。
「どうでしたか?」
花子さんからの問い掛けに、私は「正直、今まで見た中で一番綺麗な光景でした」と伝える。
私の答えに目をパチパチと瞬かせた花子さんは雪子学校長に視線を向けた。
雪子学校長はその視線を受けて苦笑しつつ「卯木くんには『桃源郷』に見えていたようだよ」と告げる。
「『桃源郷』……ですか」
再び私に戻ってきた花子さんの視線に「そうです」と頷いた。
「青い空に、淡いピンクと白の花が咲き誇る桃の林は絶景でした」
私の感想に対して「なるほど」と頷いた花子さんに、今度は私が質問する。
「花子さんにはどういう風に見えているんですか?」
単純に花子さんには『神世界』がどう見えているのかが気になっただけなのだが、どういうわけか、視線をあちらこちらに泳がせて、答えてはくれなかった。
「花子さん?」
思わず名前を呼ぶと、花子さんに盛大な溜め息を吐き出されてしまう。
「……江戸時代です」
花子さんが何を言ったのか、脳が上手く理解出来ず、私は「へ?」と一音発することしか出来なかった。
対して、花子さんは耳を赤くしながら、それでも、もう一度、言葉にしてくれる。
「江戸時代の町並みです!」
そのお陰で、ようやく正しく受け止めることが出来た私は「ああ」と反射的に手を叩いた。
「なるほど、花子さんは忍者装束でしたもんね。それで江戸時代の町並みなんですね……そうかー」
納得出来たことが嬉しくて、私は純粋に花子さんの見る世界に興味が湧く。
「私も見てみたいです。江戸時代の町並み! どんな感じなんですか?」
「え!? ど、どんな感じと言われてもですね……」
唐突な私の質問に、花子さんは困ってしまった。
特に、漠然とした質問がいけなかったと考えた私は、少し言葉を補ってみる。
「やっぱり、江戸の長屋が並んでるんですか? もしくはお城のある城下町とか? 大店通りの広い大通りとかもあるなら見てみたいです!」
私は言葉を口にしながら、好奇心に押されて、自分の言葉の勢いが、どんどん増していることに気付いた時には、花子さんは表情を引きつらせてしまっていた。
「あ、あの、すみません! 凄く興味を惹かれてしまったので!」
「いえ、グイグイくる凛花さんも可愛かったので、それはいいんですが……」
花子さんの言葉がそこで途切れてしまったせいで、続くであろう言葉が異常に気になる。
文脈からして、続く言葉は否定の言葉だと察しがついた分、聞きたいような聞きたくないような、もどかしい気持ちになってしまった。
そんな気持ちのせいで、つい下から覗うような視線を花子さんに向けてしまう。
直後、数歩距離があったはずなのに、気付いた時には花子さんの腕の中に収まってしまっていた。
「えぇっ!?」
身動きがとれなくなってしまった私は、どうにか驚きの声だけは上げる。
が、それで花子さんのホールドが緩む訳もなく、むしろ腕に籠もる力が増した。
「ちょ、あの、花子さん?」
「凛花さんがいけないんです、あんな誘うような上目遣いで私を見るから!」
「上目遣い!?」
私より背の高い花子さんに下から見上げるように向けた視線が『上目遣い』に見えたことに気付く。
が、それは私の思慮不足だったとしても、花子さんの言葉には受け入れがたい部分があった。
「花子さん! 意図せず上目遣いになってしまったかも知れませんが、私誘ってませんからっ!」
そんな私の主張に花子さんから「そうなんですか?」という問いが返ってくる。
誤解が解けるかも知れないという思いで「そうなんです!」と力強く答えた。
「でも、そんなこと関係ありませーーん」
「はいっ!?」
予想外の花子さんの返しに目が点になる。
「切っ掛けは凛花さんの上目遣いですけど、抱き付いてしまった今、この抱き心地が離れがたいんです」
「抱き心地ってっ! ちょ、くすぐったいですよ、花子さっんっ!」
私を抱きしめたままで、花子さんの手が背中に脇腹に、動かせる範囲内で暴れ出した。
「なんでっ、ち、ちからが、つよっ!」
「愛の力ですね」
私は全力で引き剥がそうとしているのに、花子さんは普段と変わらない。
あまりにも太刀打ち出来ない花子さんの腕の力に、私は会心の作を思い付いた。
「えいっ!」
気合と共に、ほんの一瞬に全神経を集中させた私は、これまでの経験値をフルに活かして、私の背に分身の私を出現させる。
私が二人分になれば、流石の花子さんも抱きしめきれまいという予測通り、腕の拘束が緩んだ。
その隙を逃さず、花子さんの左側の足下に転がり混んで、勢いのまま前転をしてから、反動を利用して体を起こす。
振り返って花子さんを見れば、出現させた人間の姿の私の分身を抱き留めていた。
私は花子さんが分身を抱きしめたまま行動を起こしていないのを確認しつつ、一歩ずつ距離を取る。
その間も一応花子さんから視線を外さなかったけど、そのせいで全身を好き勝手に触られる私の分身の姿を見ることになってしまった。
わずかな悪寒を覚えながら、花子さんの手の内から分身を消すかどうか思案していると、分身の全身を這う手の動きがピタリと止まる。
「やっぱり反応が無いと、楽しさが半減しますね」
ボソリと呟かれた花子さんの一言と、ゆらりとした動きでコチラに向けられた視線に、私は声になれない悲鳴を上げた。
 




