バウムクーヘンと私の関係
より、詳しく振り返ろう。
その日────お兄ちゃんと百合さんの結婚式があった日は、割と、つつがなく進行していたと思う。
結婚式自体は、予定通り行われていたし。
私も、意外なほど冷静に、二人を前にして「おめでとう」の一言を言うことが出来ていた。
変な話だけど、柄にもなく着飾っているお兄ちゃんや、綺麗なウエディングドレスに身を包んだ百合さんを見て、自分の精神の回復具合を再確認したぐらいだった。
ああ、もう私はこの人に恋をしていないんだ。
そして、この人に嫉妬してもいないんだ。
そんなことを、頭の片隅で考えていたと思う。
勿論、だからと言って昔からお世話になった知り合いという過去がなくなるわけでも無いので、寂しさを感じないわけでも無かったけど。
……それ以上に、私には考えるべきことがあったから。
──桜井君、結婚式に来るかなあ……。
主賓である二人には悪いけれど────上に挙げた疑問を、私はずっと考えていた。
だって、会場をどう見渡しても、彼の姿が無かったのだ。
最近、忙しさから彼の姿を見つけることも少なくなっていたこともあって、変に心配になっていた記憶がある。
──多分、招待自体はされているんだろうけど……来ない、というのが、彼にとって良い意味なのか、悪い意味なのか、分からないな……。桜井君、今、どっちなんだろう?
ふと、そんなことを考えた記憶もある。
「どっち」、というのは、何のことは無い。
桜井君は、もう立ち直っているか否か、という意味での「どっち」だ。
実を言うと、この結婚式場に来るまでに、私は考えていたのだ。
……もしかすると桜井君は、私の助けなしに、もう失恋を乗り越えているのではないか、と。
思い返してみれば、桜井君が失恋を自覚したのは、七月の出来事。
そして今、結婚式が開かれたのは十月だ。
私にまつわる事情を一息に語っているため、大して時間が経っていないように思われるかもしれないが、いつの間にか三ヶ月近く経過していることになる。
三ヶ月という、長いとも短いとも言える時間。
それだけの期間、私は忙しすぎて桜井君に会えていなかった、ということでもあるし。
桜井君の視点で考えれば────普通の人が精神的なショックから立ち直るには、十分すぎるようにも思える期間が与えられていた、ということでもある。
だから、この結婚式場に来るまで、私は「会場に行ったら、もしかすると桜井君は、普通に笑顔で百合さんと話しているかも」とすら思っていた。
失恋を自覚した時期が違うとはいえ、同じように失恋した私が普通に結婚式に参加しているのだから、考えられない話じゃない。
寧ろ、私のようにズルズルと引きずる方が異常で、三ヶ月も時間があれば、失恋の一つや二つは吹っ切るのが普通なのではないか、という気もする。
それ故に、私は桜井君も呼ばれているであろうこの結婚式で、その辺りの状況を確かめたかった。
今、桜井君はどういう精神状態にあるのか、その現状を。
もし、彼が既に立ち直っているのなら、私は例の謎解き計画を進める必要がない。
一方、未だに立ち直っていないのなら、それは失恋の傷がいよいよ重症であることを示す。
あれをやるかどうかを決めるためにも、この場で──学校よりもずっと桜井君の本心が見られるだろう場所で──確認しておきたかった。
──だけど、来ていないとなると、まだ分からない……立ち直ったからこそ来ていないのか、来るのも嫌なくらい立ち直っていないのか。
むー、と結婚式特有のやや豪勢な料理を食べながら、私は唸った。
周りには、新郎の友人として呼ばれた少女が、突然変な顔をし始めたと思われたかもしれないが、構わない。
私としては、どうしても気になることだった。
仮に、桜井君が既に失恋を吹っ切り、もう百合さんに関する事を全く気にしなくなっていて、そのために結婚式に来ていないというのなら。
それはまあ、喜ばしいことだ。
この場合、私はまた一人で空回りして、彼の力にはなれなかったことになるが、彼の視点では良い変化をしたことになる。
だけど、まだ結婚式を来れる程心が回復していないというのなら、話は変わる。
その場合、彼は私と同様、長期間に渡って失恋の傷を引きずっていることになる。
夏休みを経ても、全く回復していない、ということだ。
要するに、プラスとマイナス、両方の意味で、「結婚式に来ない」という選択は有り得る。
だからこそ、判断しきれない。
私が諸々の事情で忙しかった内に、桜井君はどうなったのか。
──でも、彼がここに来ない以上、確認のしようが無いな……また、学校で様子を見るしかない、か。
そこまで考えてから、私はふと。
少しだけ冷静になって、自分の行動に苦笑する。
いよいよ、ストーカー染みているなあ、と呆れたのだ。
私が中学生になった頃から、他者に告白されるだとか──付きまといとまでは言わないけど──男子に執拗に声を掛けられるだとかいった機会が、ちょこちょこ増えてはいた。
だけどまさか、自分がそれをする側になるとは。
今までの経験を含めても、お兄ちゃん以外でここまで気にした異性というのは、桜井君だけかもしれない。
──まあ、桜井君が本気で怖がっていたり、不気味がっていたりしたら、その時は私もそう言うのは止めよう、うん。
多少、自己弁護のようなことを考えながら、私はそこで一度、お手洗いに立ったと思う。
料理の並んだテーブルから一時離れ、会場の外──トイレはそこにしかなかった──に向かったのだった。
そして、そのお手洗いから戻り、また会場に入る扉を開けようとした時。
会場前に設置されていた受付で、私は念願の彼に出会うことになる。
「……これ、書くんですか?もう帰りますけど……」
「はい、申し訳ありませんが、来場された方の数の把握をしておく必要がありますので、ご了承ください」
最初に聞こえたのは、そんなやり取りだった。
会場に入るところで行われている、軽い問答。
受付をしている式場スタッフと、やってきた参加客の会話だ。
何やら、受付で行われている記帳について、参加客の方が質問しているようだった。
名前を書く、書かないで少しやり取りをしている。
冠婚葬祭の際に、よくあるであろう会話。
それだけなら、私も気に留めなかっただろう。
だけど────参加客の来ている服装が、私と同じ海進中学校の制服で、声についても聞き覚えがあったとなると、話は別だった。
「ええと、じゃあ、こっちに?」
「はい、お手数ですが、御記名ください……申し訳ありません。お越しになられた時に、気がつかなくて」
「いえ、こっちも、すぐに帰るから書かなくてもいいや、と思って、受付を見過ごしてて……」
そう言って、彼はさらさらと自分の名前を書いていく。
その隙に、私は彼の横顔を盗み見たと思う。
ずっと気にしていただけあって、すぐに確認できた。
──……間違いない、桜井君だ。遅れたけど、ちゃんと来てた……。
最近会っていなかったこともあり、何となく懐かしい、と思う。
だけど、そんな感覚に浸る暇は無く、私は彼らの会話に思考を巡らせた。
──すぐに帰る、と言っていたよね?それで、受付に名前を書くよう呼び止められたってことは……。
ええと、と多少頭を働かせる。
会話の雰囲気からしても、どうも単に遅れてやってきたとか、普通に来場したとかでは無いようだ、と察したのだ。
そのあたりの事情を盗み聞きながら考察して────幸い、すぐにそれらしい考えが頭に浮かんだ。
──まず、私がトイレに行っている間に、桜井君がこの会場に来た、のよね?
ただし、それはこの後も式場の椅子に座る参加者としてではない。
多分、一時的に顔見せをしにきただけの、飛び入りの客として、だ。
だから彼は、ここに来た時に受付をスルーしてしまい、名前の記帳を無視した。
正式に参加するわけでも無いから、まあ良いかと思ったんだろう。
そして受付のスタッフも、偶々席を外していたか何かで、それを見過ごしてしまった、と言ったところか。
故に、彼はそのまま会場に入り、恐らくは百合さんたちに少しだけ挨拶をした。
そして、すぐに帰るために会場から出ようとしたはずだ。
しかし、受付の前まで来たところで、一時参加とはいえ足を踏み入れた以上は名前を書くように、受付に呼び止められ。
私の見ている今に至る、という流れだろう。
──でも、桜井君がすぐに帰るってことは、やっぱり……。
ぼんやりとしていた思考が、一点に集まっていく。
もしかすると、という推測。
それを、目の前で桜井君は証明して見せた。
「……書きました。これで、良いですか?」
「はい、ありがとうございました。……では、これを」
そう言って、受付のスタッフは紙袋を一つ、桜井君に渡した。
途端に、桜井君が怪訝な顔をしたのが分かる。
少し遠くからそれを見ている私も、何だろう、と思った。
「新郎新婦様がご用意された、お土産です。途中退出であろうと、お渡しするとのことですので……」
そう言って、受付スタッフはそれを手渡そうとする。
紙袋に書かれたメーカー名を遠くから見るに、中身は洋菓子だろう。
それを、事務的にスタッフは桜井君に渡そうとした。
しかし、そこで。
桜井君は、少しだけ、抵抗するような動きを見せた。
「……受け取らないと、駄目、ですか」
微かに、呟くように。
彼がそんなことを言ったのを、私の耳は聞き取った。
その言葉に、哀愁というか、痛まし気な感情が含まれているのも。
「……ええと、何か、アレルギーなどがありますか?中身はバウムクーヘンなのですが……もし駄目なら、他の物にお取替えを」
何か事情があるとでも思ったのか、スタッフが心配そうな表情をして、動き出そうとする。
別の土産物も、この場には用意されているのか。
「あ、いや、良いです。大丈夫ですから……すいません」
しかし、それに先んじて、桜井君が慌てたように手を振った。
いくら何でもそこまでしてもらうことは無い、という意思が滲み出る、必死な動きで。
だけど、動きはともかく、表情までは、隠しようがない。
彼は、頭を下げながらバウムクーヘンを受け取っていたけど────その表情は、苦々し気に歪んでいた。
それこそ、親の仇でも見るようにして、バウムクーヘンを見ていたのだ。
「じゃあ、すいません。手間をかけて」
軽く、礼儀としてそれだけ言って。
桜井君は、逃げるようにしてそこを立ち去った。
声を掛けようとしたけど、間に合わなかった。
殆ど、全力疾走をしているのではないか、と思ってしまう程のスピードで、彼は立ち去っていく。
それこそ、初恋相手の結婚式場になんて一秒たりとも長居したくない、という雰囲気を滲ませて。
そんな彼の姿に、私は所在なく手を伸ばして。
────同時に、確信していた。
間違いない。
彼はまだ、苦しんでいる。
結婚式の土産物である、ただのバウムクーヘンを貰うことすら反射的に拒否してしまうくらい、過敏な状態の真っただ中に居る。
──私と、同じように……。
心の中で、軽くそう呟いて。
それが響き渡る前に、私は例の思い付きの実行を決めた。
見当違いな努力に終わってしまうかもしれないけど────もう、そのくらいのことをしないと、彼は立ち直れないんじゃないか、と思って。
私が失恋した時でも、彼が失恋した時でも無い。
私と彼の「四つの謎」は、この結婚式場で始まったのだ。
──ああ、でも、今の一件でバウムクーヘンは嫌いになってそうだから、それに関する謎は省こうかな。解かれる前に拒否されそうだし。
ついでに、そんな注意事項も心に留めた。