背伸びと私の関係
思えば、わたしが「それ」に気がつくことは、十分に可能なはずだった。
お兄ちゃんの新居には、それだけの証拠──こういう言い方をするのは、まるで犯罪捜査のようで気が引けるけれど──が転がっていたのだから。
例えば、目につきやすいところで言えば、炊事だろうか。
というのも、元々お兄ちゃんは、自炊とかそう言うことが、殆ど出来ない人だった。
それどころか、買い物に行っても、何を買えばどういう料理が作れるのかも分からないくらいの、物凄い料理音痴だ。
時系列的にはかなり後の話になるけど、お兄ちゃんが引っ越しのトラブルでアパートに舞い戻ってしまった時、食事にも事欠いたのはその辺りが原因だ。
そのくらい、自炊ということに向いていない人だった。
じゃあそんな彼は、大学時代から、食事をどうしていたのか?
当然発生する疑問だけど、これは話が単純で、加代さんに頼っていたらしい。
先述したように、就活が終盤になるまでの二人は、殆ど同棲状態にあった。
だから、料理が得意だった加代さんが、そのあたりは上手くやってくれていた、とのことだった。
しかし当然、加代さんと別れ、一人でこちらに戻ってきたお兄ちゃんには、もう彼女を頼るようなことは出来ない。
新卒で入社したばかりという状況では、外食に頼るのはちょっとお金がかかりすぎる。
しかし、毎日スーパーやコンビニのお弁当では、すぐに飽きてしまうだろう。
つまり、こちらに引っ越してきたお兄ちゃんが、食事関連について愚痴を漏らしてさえいなかった時点で。
そんなことをせずに、普通に来訪した私をもてなしてくれた時点で。
私は、察することも出来たはずだった。
お兄ちゃんにはもう、そのあたりをサポートしてくれる存在が居るのだ、ということを。
より直接的に言うならば────お兄ちゃんに出来た、新しい彼女の影を。
加代さんと就活の終盤に別れた以上、就活が終わった頃から入社するまでの間、お兄ちゃんには自由な時間があったのだから。
彼女を作るくらいの余裕は、あったのだから。
……しかし、私はそんな兆候に、露ほども気が付かず。
加代さんの時と同様、お兄ちゃんがその彼女を我妻家に連れてきたことで、初めて知ることになる。
お兄ちゃんが、片原百合という、二人目の彼女を作ったということ。
そして、今度の彼女とは、結婚すら考えている、という事実を。
私が、片原百合さんと初めて出会ったのは、夏休みが明けて、空気に秋の香りがし始めた頃の話だ。
その日の放課後は舞と遊ぶ約束があったから、私はまず、普通にそちらで遊んで。
夕方になり、夜が更ける前に帰ろうとして────その帰り道で、我妻家に新しい車が止まっていることに気が付いた。
反射的に、「あれ?」と思った。
だってその車は、お兄ちゃんが買い換えたばかりの車だったはずだから。
──お兄ちゃん、仕事が終わってからこっちに寄ったのかな。でも、何で……?
そんなことを考えた。
おじさんやおばさんがお兄ちゃんの様子を見に行くならともかく、お兄ちゃんの方から実家を訪ねる機会は、あまりなかったから。
何とはなしに、私はその光景を気にしたのだろう。
帰る最中に、私はひょい、と我妻家の玄関に入り込んで、扉近くの窓から中の様子を伺った。
何か、お兄ちゃんが帰らざるを得ないようなことが起きているのか、と考えて。
他の人からすると引かれるような振る舞いかもしれないが、こういう覗き見は、昔から私にはよくあることだった。
散々言ってきたように、この家を第二の実家のようにして生きてきたという背景もある。
だからその時も、大して気負わずに玄関内の様子を伺ったはずだ。
私の身長が足りなかったせいで、視界に収めたのは、玄関内のほんの一部分にすぎなかったけれど。
そして、タイミングよくというか。
或いは、悪くというか。
お目当てのお兄ちゃんは、確かにその場に居た。
如何にも会社帰り、という感じの、スーツ姿。
その姿のまま、お兄ちゃんはおじさんとおばさんの前に立っていた記憶がある。
……その光景を見ただけでも、私は「うん?」となったはずだ。
だって、明らかにおかしいから。
いくら何でも、おじさんとおばさんが揃って息子を出迎えるなど。
これが久しぶりの再会、というのならともかく、お兄ちゃんがこっちで就職して以降、二人は自分の息子に何度も会っているはずだ。
今、息子が実家を訪ねてきたところで、あまり大きな歓迎とはならないだろう。
おお、帰ってきてたのか、と多少労われるくらいだ。
それなのに、二人がわざわざ玄関先に出迎えに来ている。
服装も、見てみれば普段の部屋着では無く、もう少し整った格好だった。
お兄ちゃんの格好も合わせて────割と、正式な場特有の雰囲気を醸し出していた。
──本当に、どうしたんだろう?
私の疑問は、そこで頂点に達した。
だから、精一杯の背伸びをして、私はさらに詳しく様子を見ていく。
おじさんやおばさんの方じゃない、お兄ちゃんが立っている方を────。
そうしてようやく、出会った。
お兄ちゃんの隣に佇む、同じくスーツ姿の女性を。
当時からお兄ちゃんと婚約していた、片原百合さんと。
ガタン、と大きな音が発生した。
それは、私の足元から聞こえたと思う。
他人事のように、私はその音を、何の音だろう、と思ってすらいた。
だけど、それは違う。
それは、私の周囲で奏でられた音じゃない。
背伸びをしていた私が、唐突にその場で転んでしまったせいで、発生した音だった。
簡単に言えば。
私はその場で、尻もちをついてしまったのだ。
勢いよく、私の腰は地面と衝突する。
運悪く、丁度泥が露になっている箇所だったせいで、泥が跳ねた。
私の頬にまで、数滴の泥が付着する。
それを、拭うことは出来なかった。
比喩でもなんでもなく、百合さんのことを見た瞬間、膝から一切の力が抜けた。
いや、膝ところか、腕も首も動こうとはしなかった。
「……あれ、外?何か音が……」
私が尻もちをつくと同時に、家の中でも声が響く。
窓は閉められていて、声は殆ど外に届かない──だからこそ、中の様子を見ることは出来ても会話は聞こえていなかった──はずなのに。
彼女が放ったその心配そうな声は、不思議なほど正確に私の耳朶を打った。
さらに響くのは、ゴウ、という扉が開かれる音。
加えて、パタパタと人が走ってくる音も聞こえた。
誰かが今発生した音について心配して、わざわざ屋内から出てきてくれたらしい。
そのことは、混乱し、膝から力が抜けてしまった状況でも推測できた。
そして、その足音の主は、しばらく周囲をキョロキョロと見渡す。
続いて感じ取れたのは、いくらかの沈黙と、屋内からの「百合、別にわざわざ見なくても……」というお兄ちゃんの窘めの声。
それらが全て流れ過ぎてから────彼女は私の元に辿り着いた。
「あれ……もしかして、転んじゃったの?」
未だに地面にへばりつくようにして座り込む私の姿を見て。
百合さんはまず、凄く心配そうな顔をした。
何故、玄関横の窓の傍に中学生が立っているのかとか、そもそも何故我妻家の敷地内に入ってきているのかとか、そういうことは一切聞かずに。
純粋に、尻もちをついている私のことを心配していたのだろう。
その証拠に、彼女はまず、目の前に座り込む人物の様子を伺うようにして、私の姿を観察した。
観察というか、正確には、私にどこか怪我が無いか、純粋に探してくれていたのだと思う。
そして、特に出血していそうなところは無い、と判断したのか。
少なくない量の泥が付着した私の姿を、彼女は嫌な顔もせずに見つめた。
「大怪我、みたいな感じじゃないみたいだけど……大丈夫?立てる?痛いところとか、無い?」
そう言って。
当然のことをしているかのように、百合さんは私に手を差し伸べた。
名前も知らない、何故ここに居るのかも女子中学生相手に、本気で心配して。
……その、私に差し出された彼女の左手の、細く綺麗な薬指には、確かに指輪が嵌っていた。
あまり高くはないであろう、しかし、確かに彼女の大切な人が選んだのであろうリング。
それを見て、心の中に湧いてきたのは、確信。
いや、指輪が無くても、確信したことだろう。
ああ、この人か、と。
この人を、お兄ちゃんは生涯の伴侶に選んだのか、と。
一目見ただけで、そう確信出来た理由は、自分でもよく分からない。
所謂、女の勘というものだったのだろうか。
何にせよ、その感覚は、稲妻のようにして私の中を貫いた。
だからこそ、一言。
百合さんの手を握りながら、私はこう言ったと思う。
「ありがとうございます。その、ちょっと……背伸びしちゃって。だから、こけたんです」
そうなの?と百合さんは首を傾げた。
よく、意味が分からなかったらしい。
それでいい、と思った。