初めての彼女と私の関係
全て、後から聞いた話だ。
その加代さんという女性は、お兄ちゃんにとって初めて出来た彼女だったのだという。
二人の知り合う切っ掛けは、どんなことだったか。
確か、大学のサークル活動とか、言っていた。
何でも、シンカンのノミカイ──当時の私は単語の意味も知らなかったが、多分「新歓の飲み会」だろう──で偶然席が隣になり。
それ以降親しくなって、ゴールデンウィークあたりでさらに仲良くなり。
……気が付いた時には、もう付き合い始めていた。
そんな経緯を、お兄ちゃんは両親に説明していた。
何でも、おじさんやおばさんの方も、息子に彼女が居るなら、一度会ってみたい、という感じのことを前々から言っていたらしい。
お兄ちゃんは、その約束を果たした形になっていたようだ。
そして、家に入ったお兄ちゃんがそんな説明をする中。
私は、一体────どんな顔をしていたのだったか。
悪態をついた記憶はない。
泣き喚くようなこともしなかった。
ただただ、呆然としていたと思う。
ある程度は、仕方が無いだろう。
私としては、初恋の人と、ようやくの再会、という気分だったのだから。
その場で突然、彼女出来たから、と言われても、反応が思いつかない。
結果、何の反応も返せず、その場でフリーズしてしまっていた。
少し前なら────クラスの男子に馬鹿にされただけで、喧嘩を吹っかけていたくらい、直情的だったあの頃なら。
もしかすると、地団駄踏んで抗議したのかもしれないけど。
流石にもう、そんなことは出来なかった。
やったところで、お兄ちゃんを困らせるだけだと、分かってしまっている。
「好き」という気持ちを、人を傷つける理由にしてはいけない。
他ならぬお兄ちゃん自身に、教えてもらったことだ。
それを破って、私が加代さんに何かした場合、私がどう見られるかなんて、想像する必要すらなかった。
だから。
私はせいぜい、愛想笑いを浮かべて。
その夏休みの間、場を流すことだけに、終始していたと思う。
……唯一、この時の私にとって幸いだったことは、その時の加代さんが、あくまで顔見せに来ただけだった、という点だ。
彼女は、その日一日我妻家に滞在していたが、その後は普通に自分の実家に帰って行った。
というより、これは話が逆で、加代さんの実家がこの県内にあることから、実家への帰省前に我妻家に寄ってもらった、という流れだったらしい。
あくまで、我妻家に帰省したのはお兄ちゃんだけであり────事実、それ以降私は加代さんと、直に顔を合わせる機会は無かった。
これは、当時の私の精神状態を考慮すれば、かなりの幸運だったと言えるだろう。
仮に、その後も加代さんが近くに居て、私が外に出るたびにバッタリ出会うくらいだったなら、ただでさえショックを受けていた私は、より一層情緒不安定になっていたことだろうから。
何なら、お兄ちゃんの教えすら忘れて、何か変なことでも口走ったかもしれない。
だからこそ、私が加代さんに会わなかったのは、お互いにとって幸福だったのだが────悲しいかな、帰省してきた張本人たるお兄ちゃんに関しては、そうはいかない。
だって、自分の実家に戻った加代さんはともかく、お兄ちゃんの方は、夏休み中我妻家に居るのだから。
そして当然ながら、私の初恋に気づいていないお兄ちゃんは、それから夏休みの間、普通に話しかけてくる。
以前のように。
何かとマメで、優しい、近所のお兄さんとして。
本当は、ずっと望んでいたことだ。
望んでいたはずのことだ。
お兄ちゃんが、またこうやって近くにいるようになることは。
だけど────その時は、無理だった。
自分の受けたショックすら、まだ十分には処理できていないくらいだったのだから。
彼女が居て、大学生特有の長い夏休みも手に入れて、随分と幸せそうな顔をするお兄ちゃんとは、とても話せる状態じゃなかった。
まだかな、まだかな、と言っていた夏休みは。
いつの間にか、早く終わらないかな、と思ってしまうような時間になった。
まだかな、まだかな、と最後の日の到来を待ち望む、そんな時間に。
……それでも、家の位置関係的に仕方が無いのだが、お兄ちゃんは夏休みの間、普通に話しかけてくる。
そうでなくとも、狭い地域の話なので、何かとバッタリ会ってしまう。
だからだろうか。
この頃から私は、随分と演技が上手くなっていったように思う。
お兄ちゃんに、本心やかつて考えていたことを悟られないための、演技が。
およそ、小学生に求められるようなスキルでは無いのだろう。
だけど、その演技は、私が私でいるために、どうしても必要なものだった。
ただでさえ、初恋の人に彼女が出来た、というだけで十分すぎる程ダメージを負っている。
それに加えて、「え、真琴、もしかして俺の事、本気で好きだったの?ごめん、気が付かなかった」などとお兄ちゃん本人に言われるのは、どうしても耐え難い。
というより、それは何の地獄だ。
普通に告白して振られるよりも、ずっとキツイ展開になってしまう。
どんな努力をしてでも────お兄ちゃんに、私が失恋してショックを受けている、ということを悟られたくは無かった。
……そう決めていたからこそ、私は夏休みの間、お兄ちゃんと完全に関係を断ち切ったり、無視したりすることはしなかった。
それだと、私がお兄ちゃんを好きだったことが悟られてしまう。
お兄ちゃんが少しでも私の様子を不審に思って、「何か最近真琴が冷たいな……もしかして、俺に彼女が出来たからか?」とか言い出したら、それだけでアウトだ。
万一謝られたり、正式に振られたりしたら、それはもうキツイを超えて、惨めですらある。
ただ、より親しくなる────要するに、加代さんからお兄ちゃんを奪うとか、そう言うことも、私には出来なかった。
そもそもにして、そんな度胸は無いし。
そうでなくとも、お兄ちゃんが私のことをそう言う対象として見たことが無いのは、加代さんのことで証明されているし。
それ故に、お兄ちゃんと会話せざるをえない時には、出来る限り普通に。
以前の、「親しい幼馴染」くらいのスタンスで、会話するように努力する。
仲良くはあるが、それ以上ではない、という立ち位置を、持続させる。
そんな演技を、夏休みの間中続けていた。
ただただ、自分の心を守るために。
「……去年あたりは何かそっぽ向いていたけど、やっぱりあんたたち、仲良いわねえ」
詳しい事情を知らないおばさんや、私の母親は、そんなことをよく言っていた。
如何にも、微笑ましいものを見つめるようにして。
私がその奥で、どうにも見苦しいあがきを続けているとは、露ほども想像していない様子で。
この演技は、私にある程度負担のかかる振る舞いだったが────これまた幸いというか何というか、夏休みと言う物はどうしたって終わりが来る。
四十日近くそんなことをしているうちに、何とか小学三年生の夏休みは終わった。
お兄ちゃんも大学近くのアパートに戻り、とりあえず、私の精神を揺らす危機は去ったのだった。
お兄ちゃんがアパートに戻ったことを確認して、心底、ホッとしたことを覚えている。
良かった、お兄ちゃんの前で無様を晒さずに済んだ、と。
しかし同時に────そう考えていること自体が、哀れでもあった。
だって要するに、私はお兄ちゃんに気持ちを伝えることも無いまま。
ひたすら、その想いを隠すことだけに努力をしてきたという事を、その安堵によって証明しているのだから。
安堵と言えば、普通は安心を引き連れてくるものだが、その時の私にとっては、哀惜を伴うものだった、ということだ。
尤も、この感覚を境にして、演技で頭が一杯になっていた状態から冷静になり、自分を見つめ直す機会となったので、悪いことばかりでも無かったけれど。
演技をする必要すらなくなって、ようやく────私は、「失恋」という物を自覚し始めたのだから。
……多分、神代真琴という少女は、恋をするにしても、それを失うにしても、自覚までに時間がかかるタイプだったのだろう。
初恋を自覚するまでに、それなりに時間がかかったのと同様に。
失恋を自覚するまでにも、夏休み一杯が終わるまでの時間が必要とした。
一か月以上の時間をかけて、ようやく。
私は、初めての「失恋」を自覚した。
……十歳も年齢差があるのだから、成就しないことの方がある種当然なのだ、という常識と共に。
これが、私の一回目の失恋だった。
それから私がやったことは、まあ、普通の反応だったと思う。
夜中にこっそり泣くだとか。
お風呂に入っている時に、不意に悲しくなるだとか。
そう言う、失恋した女の子がしそうな大体のことは、ここでコンプリートした。
それをしたところで、気分が晴れる訳でも無かったけど、やらざるを得なかったというか。
自然と、身体がそんな方向に動いてしまった、という感じだった。
最初は、ただただ泣くことを続けて。
その次に、ひたすら落ち込む段階を続けて。
その果てに、やっぱり未だに好きだなあ、という感情を確認する。
そんなサイクルを、一週間くらい、飽きることなく続けた。
それほどまでに、私の初恋は重たく、しつこく────同時に、私にとって大切なものだった。
この反応は、もしかすると、あまり一般的な物では無いのかもしれない。
人によっては、「初恋」なんてものは、気が付かないうちに忘れていたり、失恋しても数日で忘れてしまったりする場合もあるらしい、と聞いたことも有る。
私のように、しばらく泣き暮らすような女子は、珍しいタイプなのかもしれなかった。
ただ、この泣き暮らすサイクルもまた──他人に見られたらドン引きだっただろうけど──悪いことばかりでは無かった。
というのも、それ程までに重い通過儀礼をこなしたおかげか、次の年からのお兄ちゃんの帰省に関しては、私は最初の時より、遥かに上手く対応できたのだ。
極端に動揺することも無く、極端に悲しむことも無く。
ちゃんと、「久しぶりに会う年上の知り合いを迎える女の子」の演技をすることが出来るようになっていた。
終いには、「こんなに私と遊んでいると、彼女さんに怒られるよ?」なんて、からかいの種にしていたくらいだったのだから、かなりの回復と言えるだろう。
もしかしたら────もし、このまま時間が経過していたなら。
お兄ちゃんが、加代さんと上手く行き続けていたのなら。
私にとっての一回目の失恋は、そのまま静かに終わっていたのかもしれない。
その内、昔はお兄ちゃんが好きだった時期もあったなあ、と偶に思い出す程度の、想い出に変わって。
また、別の人を好きになることだって、出来たのかもしれなかった。
……しかし、その失恋から三年近く経過して。
私が小学六年生になろうか、という頃になって、また事態は動き出す。
というか、ややこしくなってしまう。
だって────お兄ちゃんが、加代さんと別れた、というのだから。




