お兄ちゃんと私の関係
恐らく、普通なら、両方がきちんと謝るまで、教師の説教というのは終わらない物なのだと思う。
特に、小学校のお説教なら、猶更だ。
「はい、○○ちゃんは××ちゃんに、××ちゃんは○○ちゃんに謝って、仲直りね!」
こんな流れが無いと、叱られている小学生は中々解放されない。
そのことを、私は小さいながらに分かっていた。
それでも、私は謝らなかった。
だって、私は間違っていないと思っていたから。
いつまでも不貞腐れている私を前にして、教師の方も、段々面倒くさくなってきたのだろう。
最終的には、私は一回も謝らなかったが、何とかお説教は終わった。
もう、小学生の下校時刻にしては随分遅い時間になっていて────喧嘩相手の男子も含めて、迎えの親が呼ばれる時間帯になっていたけれど。
確か、男子の方は、すぐに母親が迎えに来て、帰って行った。
一方、私の方は、しばらく学校で迎えを待っていた記憶がある。
多分、その日も両親は家におらず、学校側も保護者の代理的存在である我妻家に連絡を取るのを、戸惑っていたのだろう。
だから、相変わらず不貞腐れた顔で、私はしばらく待ちぼうけをして。
その姿勢のまま小一時間経過してから、ようやく迎えがやってきた。
恐らく、高校から戻ってすぐ、学校からの電話を受け取ったのであろう相手────お兄ちゃんが。
当時、高校三年生だったお兄ちゃんは、少し苦笑いでも浮かべているような表情で、小学校を訪れていた。
多分、お兄ちゃんはその時点で、喧嘩の原因について、電話越しに聞いていたのだろう。
だからこその、苦笑い、だ。
しかし、当然ながらそのあたりの事情については、私には見当もつかなかった。
私にとっては、それは単に、大好きな人が迎えに来てくれた、という話だ。
だから、お兄ちゃんを見つけた私は、すぐに教室から駆け出し、お兄ちゃんの腰にしがみついたはずだ。
反射的には、お兄ちゃんは、わさわさと頭を撫でてくれたんだと思う。
くすぐったいな、とだけ思った記憶がある。
「すいません、ウチでもちゃんと指導はしますので……」
まだ高校生だというのに、お兄ちゃんは立派だったと思う。
如才なくそんなことを言って置きつつ、彼は私の手を引いて、家へと歩いて行った。
────そうやって、帰り道を歩くこと、しばらく。
お兄ちゃんは、私と手を繋ぎつつも、黙って何も言わなかった。
何か、言葉を溜めているように。
怒っているのかな、と不安になったことを覚えている。
私にとって、お兄ちゃんに嫌われるというのは、とても悲しいことだったから。
そのことを、私は非常に気にしていた。
しかし、実際のところ、お兄ちゃんはそう怒ってはいなかった。
寧ろ、彼がしていたのは、心配とか、窘めの方だったのだろう。
だって彼は、しばらく悩んでから、まずこんなことを言ったのだから。
「……真琴、俺とよく遊ぶとか、そう言うのを馬鹿にされたから、喧嘩したって先生から聞いたんだけど……本当?」
本当だ、と私は返したはずだ。
隠す理由も無い。
そして、相手が最初に馬鹿にしてきたんだ、という感じのことも言った。
「そうか……うん、そうだな。そこに関しては、間違いなく相手の子が悪い。だから、そこに真琴が怒ったことは、悪いことじゃない。全く怒らないって言うのも、寧ろ悲しいし」
そこで、もう一度。
苦笑い。
「だけど……やり方は駄目だったな、真琴。喧嘩は、駄目だ。そんなやり方で、自分が正しいって言ったって、自分も相手も、辛いだけだろう?」
……それに関しては、すぐには頷けなかった。
だって、最初に悪口を言ってきたのは、向こうで。
言葉の意味は今一つ分かっておらずとも、私は傷ついたのだから。
そう言うことを、私はつっかえつっかえ、お兄ちゃんに説明した。
お兄ちゃんにだけは、この感覚を分かってほしかったから。
「うん……そうだな、真琴。その想い自体は、きっと正しいものなんだ。さっきも言ったように、俺も、そこで真琴が怒ったこと自体は、責めない。誰だって、酷いことを言われたら辛いし、傷つく」
少し、立ち止まって。
お兄ちゃんは、そう言ってくれた。
続いて、こう続けてくる。
「だけどな、真琴。だからと言って、いくらでも相手に反撃して良いっていうわけじゃないんだ。そんなことを繰り返したら、真琴は、自分の気が済むまで、いつまでも他の子を傷つけるような子になってしまうかもしれない。俺は、真琴にそんな子になってほしくないんだ……何となく、分かるか?」
……まあ、分かるけど。
そんな頷きを、返しただろうか。
だけど、それでも納得できない部分も、結構あって。
私は、「だって、お兄ちゃんと遊ぶのが好きだってこと、馬鹿にされたから。痛くさせないとって、思ったから」と呟いた。
「その気持ちは嬉しいよ、真琴。……だけど、それでも、真琴。『好き』って言う気持ちを、人を傷つける理由にしちゃいけない」
ピシャリ、と。
珍しく、叱るような口調で、お兄ちゃんは告げた。
……ここまで言われても。
当時の私はまだ、納得できなかった。
いや、理屈は理解していたのだ。
要するに、暴力はいけない、と教えてくれているだけで。
お兄ちゃんは、実に当たり前のことを言っていた。
正しい態度だった、とも思う。
だけど、それでも。
私はまだ、謝れなかった。
ごめんなさい、という一言が出なかった。
自分でも、不思議に思った記憶がある。
何で、私はこうも謝れないんだろう?
あのことを、自分も悪かったと、反省できないんだろう?
当時の私が、子どもの中でも感情的なタイプだったから────まあ、それはあるだろう。
まだ叱られたばかりで、頭が冷えていないから────無論、それも間違っていない。
だけど、それ以前に。
私の心を、謝罪へと向かわせない大元凶。
一番の原因たる感情の流れが、自分の中に存在しているモヤモヤとした感覚。
それが、何なのか。
お兄ちゃんに手を引かれながら、私はずっと考えていた。
それの正体を理解できない限り、口もきけないような気すらして。
これで、最後までその正体を理解できなかったなら。
その日の私は、随分とブルーな気持ちで帰宅したに違いない。
その後に控えていたであろう外食か何かの用事も、最悪の気分で過ごしたはずだ。
しかし、幸いというか何というか。
数十分の精神的格闘の末、不意に。
私は、その正体に気が付くことが出来た。
何のことは無い。
その感情の正体こそ、「初恋」だった、というだけの話。
────そうだ。
私は、お兄ちゃんのことが、本気で好きなんだ。
それを認めていなかったから、モヤモヤしていたんだ。
……私は。
お兄ちゃんと遊んでいることをからかわれたから、怒ったんじゃない。
あの男子が、お兄ちゃんとはケッコン出来ないとか何とかいって。
このは初恋を所詮は無駄なのだ、と言ったから。
お兄ちゃんを好きになること自体を否定された気がしたからこそ、怒ったのだ。
これを自覚した瞬間、私の口からは、驚くほど素直に「ごめんなさい」の言葉が出た。
ごめんなさい。
あんなことしちゃって、ごめんなさい。
あの男子を傷つけてしまって、ごめんなさい。
多分、心の整理がついたことで────私の中に渦巻く感情の正体に気が付いたことで、ようやく謝罪をする余裕が出来たのだろう。
喧嘩相手の男子には申し訳ないが、直にお兄ちゃんと会って話してみることが、あの時の私にはどうしても必要だったのだ。
……唐突な謝罪を受けたお兄ちゃんは、しばらく面食らっていた記憶がある。
突然私が反省し始めたことに、驚いたのか。
しかしお兄ちゃんは、当然のことながら、私のそんな初恋の自覚なんて、知るはずもない。
彼は、普通に私が叱られて反省した物と思ったらしく、苦笑いをして頭を撫でてくれた。
わさわさと、喧嘩のせいでぼさぼさになってしまった髪を。
その最中、私は。
心の半分で、心配かけてしまった、明日はあの男子に謝らないと、と考えつつ。
心のもう半分で──虫の良いことに──このままずっと撫でていて欲しい、ずっと手を放さないで欲しい、と感じていた。
……ああ、間違いない。
この瞬間こそ────私が、自分の「初恋」に気が付いた瞬間だった。
ただの親愛に過ぎなかった「好き」が、本当の意味での「好き」に化けた、決定的な瞬間。
尤も────。
私がこの想いを、その自覚から五年近くの間持続させるとは、流石に予想していなかったのだけれど。