傷口と痛みの関係
「……これに関しては、さっき見つけた赤い汚れがあるかどうかで、説明がつくと思う」
「アカイヨゴレ?」
はてな、と首を傾げるレアと神代を前にして、僕はずい、と件のペットボトル──べたついている二本の内、汚れが付着している方──を差し出す。
先程、少し爪で剥がしてしまったが、それでも一応、何か付着していると分かる程度には目につくはずだった。
「この、何か擦れたような跡の事?赤というか、茶色っぽくなっているけど……」
「確かに、何かありますねー」
期待通り、神代とレアはそこに気がついてくれた。
それに乗じた僕は、もう一本のペットボトル──べたついている二本の内、赤い汚れが無い方──を見て、そのような痕跡が無いことも、目の前で示してみる。
「だけど、これが、どうしたの?」
「うん。まあ、これに関しては決めつけというか、妄想みたいなものだけど……それ、乾いた血なんじゃないかな、と思って」
率直に言ってみると、神代が眉を顰めたのが分かった。
血、という物の登場に、物騒な空気でも感じ取ったのだろうか。
「それは、どうしてそう言えるの?」
「まあ、単純に、状況証拠だよ。だってさ……」
言葉の途中で、僕はレアの方を見つめる。
見つめられた当人は、ふみゅ?という感じの顔をした。
ここで、何故自分にお鉢が回って来るのか、さっぱり分かっていないのではないか、と思わせる表情である。
それが、意図的な演技なのか。
或いは、本気で本人も気がついていないのか。
そこに関しての話が最後の鍵だな、と思いながら、僕は決定的な言葉を口にした。
「この部屋に来てから、レアはずっと掌を隠すようにして手を握っていたから、思ったんだけど……レア、掌を怪我しているだろう?だから、ペットボトルを持った時に、表面に血が着いたんじゃないか?」
「え、そうなんですか!?」
言った瞬間、レア本人が一番驚いた顔をした。
そして、バッ、と効果音が付きそうなほどの勢いで自分の掌を見つめる。
自然、彼女は両掌を上にして、前に突き出すような格好となった。
神代と僕は、彼女の視線に相乗りして、レアの掌を観察する。
そこにあるのは、綺麗な形をした両掌。
白い肌も、細く長い指も、形の崩れたところが一切無く、こう、変な言い方になるが、実にレアの手っぽい手だった。
ただ────色に関しては、少々不調法なところが見える。
特に、右掌の中央部分。
そこに、異常があった。
具体的には、掌全体を横断するようにして、四か所、変色している部分が存在しているのである。
いや、変色という言い方は不適当か。
横に並ぶようにして、四か所の傷口がある、といった方が正確だろう。
尤も、傷口と言っても、そう大きなものではない。
やや深そうではあるが、擦りむいたとも言えないレベルである。
このくらいなら、仮に傷口から出血したにしても、血が滲む程度で済むだろう。
しかし、なまじ彼女の手の形が整っている分、その傷口は悪目立ちしていた。
少量とはいえ、血も出ているのだから穏やかではない。
事実、横からそれを見た神代は、驚いたように小さく声を漏らした。
「レア、どうしたの、これ……ちょっとだけど、血も出ているように見えるけど」
「……分かりません、何か、変なの触ったんですかね、私。痛みも無かったので……」
不思議そうに、レアはそんなことを言う。
さながら、自分でも気が付かないうちに出血していました、とでも言いたげに。
その言い分に、神代が納得したかどうかは分からない。
何にせよ、彼女はそれ以上問いただすことは無く、その場で立ち上がった。
小声で「絆創膏、絆創膏……」と言っているところからすると、手当くらいはした方が良い、と思ったのだろう。
「ごめん、桜井君。私、ちょっと保健室で消毒薬と絆創膏くらいは貰ってくることにするわ。……ほら、レアも」
「えー、大丈夫ですよ、マコト」
「確かに、過剰かもしれないけど……でも、明日は帰国なんだから。万一化膿したり、腫れたりしたら嫌でしょう?せめて、消毒くらいはしておかないと」
そう言って、神代はレアの手を取る。
反射的にか、レアは不満を漏らしたが、それも一瞬の事。
すぐに神代に身を任せ、引きずられるようにして立ち上がる。
「じゃあ、少し中座するわ、桜井君。すぐに戻るから……それと、『第四の謎』を解いてくれて、ありがとう。ジュースやお菓子、先に食べておいていいから」
「このくらい、大丈夫ですけどー……どこで出来たかもわからない傷ですしー」
未だに微かに不満そうな顔をして、レアは唇を尖らせる。
しかし、本気で反抗する気は無いらしい。
大きく抵抗はしないまま、彼女は生徒会室の出入り口にまでズルズルと引きずられていった。
「ああ、行ってらっしゃい。待ってるから」
それだけ言って、僕は軽く手を振る。
さらに、一応、というノリで、ようやく所有者の区別がついたペットボトルたちを、今度こそごっちゃにならないように並べていった。
全くべたついていないペットボトル────神代の物は、テーブルの隅に。
べたつきがあり、血がついていないペットボトル────僕の物は、そのまま持ち続け。
べたつきがあり、レアが触ったために血がついているペットボトル────レアの物は、主賓という事で、真ん中に置いた。
それを見届けるようにして、神代とレアは、並べ終わったタイミングで生徒会室を出て行く。
恐らく、お別れ会の残り時間のことを気にしているのだろう。
保健室に一直線に向かう彼女たちの、パタパタとした足音が、生徒会室の中でもよく聞こえた────。
「しかし、どこで出来たかもわからない傷、ね……」
一人、生徒会室に取り残される形となった僕は、無意識にぼやきを漏らした。
手の中にあるのは、自分の分のペットボトル。
そして、僕の視線の先にあるのは、レアのペットボトルだ。
こうやってまじまじと見ると、改めて分かる。
この血は、少量ではあるが、それでもしっかりと付着している。
それなりに傷口が開いた状態で触らないと、こうはならないのではないか、と思える程度には、しっかりとした血痕だった。
そして、その事実を確認できたのなら。
……レアの先程の発言が嘘であることなど、すぐに分かる。
「どこで怪我したのか分からないとか、自分でも今まで怪我したことには気が付かなかった、という彼女の感想は変だよな……多分、あの傷口なら、そこそこ痛かったと思うし」
ぼやきが、また口から出た。
誰に聞かせるわけでも無い、集中力に欠けた呟き。
しかしその呟きは、真実の一つを射抜いている。
傷みというのは主観なので、傍から想像することなど出来ないが、それでもある程度は類推できたのだ。
あの傷口は、ジンジンする程度には痛い奴だろう、と。
少なくとも、自分でも傷口が出来たことに気が付かないとか、そう言うレベルではない。
────では、その傷を。
今の今まで、レアが口にしなかったのか、何故か?
何故彼女は、あの傷口に気が付かなかった、どこで怪我したかも分からない、などと言っているのか。
「単純に考えれば、お別れ会の流れを中断させるのもアレだから、盛り下がるのを恐れて言い出さなかった、という可能性があるが……」
しかし、そういう理由だったなら。
僕が生徒会室に来るまでの余暇時間に、保健室に寄っていてもよさそうなものである。
神代と違い、彼女は早めに終わっていたのだから。
留学生故に保健室の場所が分からなかった、という線も無いではないが、その場合は誰かに聞くだろう。
彼女は性格上、そう言うところで躊躇う子ではない。
「そうなると、あの傷はお別れ会が始まってから出来た傷で、保健室に行く暇も無かった、という可能性が考えられるが……」
個人的な所感としては、それは無いな、と思っていた。
お別れ会が始まる少し前から、僕は彼女と行動を共にしている。
少なくとも僕の見る限り、彼女が何か、怪我しそうなものを触っていた形跡は無かった。
そもそもにして、彼女はここに来てから、お菓子運びくらいしかしていない。
あれであんな特徴的な傷口を作るというのも、まずあり得ないだろう。
要するに、レアの言い分を全て信じるのは、無理がある、ということだ。
だから、多分、あの傷のことを言い出さなかったのは────。
「あの傷が出来た理由に覚えがあって、かつ、それが僕たちに言いたくない物だったから、としか考えられないよなあ……つまるところ、嘘をついている」
そう考えると、彼女の大体の態度が腑に落ちるのである。
言いたくない理由があったから、言い出さなかった。
微量とは言え出血していても、手をグーにして隠した。
シンプルかつ、合理的な説明だ。
少なくとも、この部屋には実は、あんな傷を無痛で作ることのできる物があった、と考えるより余程妥当である。
ただし、そうなるとここで、新たな疑問が生まれることになる、というのも事実だった。
すなわち────じゃあ、その言いたくない理由とは何なのか?
──まあそれは、あの傷口の並びを見れば、何となく推理出来るけどな……。
フッと、そんな思考が頭を占めた。
厳密には、実際に見る前から何となく推理出来ていたのだが、あの光景を見たことで確信できたのである。
そしてこれこそ、僕が、あの場で全ての推理を神代に語らなかった理由でもあった。
……振り返れば、簡単な帰結なのだ。
傷口が出来ていたのは、掌の中央────丁度、拳を握り締めたら、爪が当たる部分。
そして、出来ていた傷口は四つ────これは、親指を除いた、握りこまれる指の数と一致する。
ここまでくれば、傷を作った物の正体は見える。
要するに、あの傷は、彼女自身の爪によって出来たのだ。
レアは、掌を強く握りすぎて、爪が皮膚を食い破ってしまったのである。
そこまで、推理してしまえば。
後は、連鎖的に解けることだった。
この日、この瞬間に。
そこまでの強さで掌を強く握る理由など、一つしかない。
「……そこまで、して」
ぼんやりと、口から言葉を溢した。
そうしなければ、不覚にも泣きそうになってしまう。
僕が泣いても、仕方ないのだが。
「そこまで、明日帰国してしまう、というのが寂しかったんだな、レア……ずっと、掌を握り締めていないと、こらえられない程に」
目の前にある、レアのペットボトルが。
僕の言葉に合わせて、軽く揺れた気がした。