探偵と幼馴染の関係
「レア、どう見える?」
眼を細めながら僕の書いた文字────特に「ガス代」の部分を見ながら、レアはうーん、と唸る。
それを知ったうえで問いかけると、レアは考え込みながら、解答してくれた。
「加害者の『加』と、殺人代行の『代』に見えます。えーと、『加代』ですかね?」
「……あー、うん」
読み方は良いのだが、例示の物騒さに一瞬引いてしまった。
恐らく、好きな推理漫画やら推理小説やらから覚えた単語なのだろうが。
相変わらず、正確な読み書きが出来ないと言いながら、変な日本語を知っている子である。
「とりあえず、読みはそれでいい。『ガ』の濁点と『ス』が融合して『ロ』になって、それが濁点を抜いた『カ』に並ぶから、結果として漢字の『加』に見えたんだ。『代』に関しては、そのままだけど」
一応、こちらも人偏を「イ」と誤読する可能性はあるのだが、「停」と違って、「代」から人偏を抜いてしまうと、流石に文字として成立しにくくなる。
いや、「弋」も漢字の一つではあるのだが、日常会話で使う機会は「亭」と比べるとかなり少ない。
だから、これに関しては普通に「代」と読めたのだろう。
結果として、「ガス代」は「加代」に化けた。
さらにそのメモ帳は、ガス会社に電話する予定を記した物ではなく、誰かに対して結婚について説明する予定を記した物になってしまったのである。
「だから、これを見た彼女は、彼氏が浮気をしている……もしくは、二股をしていると誤解したんだと思う。文章だけ見れば、『加代』という女性に対して、わざわざ自分との結婚について説明をしに行こうとしているともとれるんだし」
「その時期に、わざわざ結婚について説明をしに行く女性というのは、特別な関係の女性に違いない、と思ったのね。実は彼は、二人の女性を天秤にかけて、片方と結婚したんじゃないか、そして選ばれなかった方に説明をしに行っているんじゃないか、と邪推してしまった」
納得したような顔で、神代が相槌を打つ。
その推察は的確で、恐らく正解だろう、と思った。
百合姉さんは言っていた。
彼女の旦那さんは、以前「カヨ」という女性と交際していた、と。
あの時は話だけなので漢字は聞いていないが、多分、その人の名前こそ「加代」なのだろう。
百合姉さんからすれば、自分の彼氏の元カノの名前、ということだ。
そして、ここからは完全な妄想なのだが────もしかすると。
百合姉さんは、その「加代」という女性と、彼を巡って争った過去でもあったのかもしれない。
或いは、自分の彼氏の元カノに対して、対抗心とか、嫉妬心を覚えていた、とか。
突飛な妄想だが、少なくとも、名前は知っていたのだ。
男と女の話なのだし、全くあり得ない訳ではないのだろう。
少なからず、百合姉さんは「加代」という女性に対して、「もしかすると彼とまだ会っているかもしれない」とか、「彼が浮気をするとしたら、相手は彼女だろう」と思っていた、という事だ。
故に、そのメモ帳を見た百合姉さんは、頭に血が上ってしまった。
ただでさえ、マリッジブルーでイライラしていた時期であり、さらにアパートに辿り着く前から些細なことで怒ってしまっている。
彼女自身の言う通り、正気では無かったのだ。
普通なら、浮気相手との連絡をほのめかすメモ帳など、自分の彼女に差し入れを頼んだアパートに置いていきはしない。
というかそもそも、仮にそれが本当に「加代」との連絡を促すものだったとしても、本当に浮気かどうかは分からない。
単純に、「加代」の方から元カレの結婚を祝いに来ただけ、という可能性もあるのだから。
しかし、感情的になった百合姉さんはそんなことに思い至らず、彼に喧嘩を吹っかけてしまった。
言われた彼の方としても、何を言われているのか分からなかったことだろう。
先述したが、実際には後々結婚しているのだから、百合姉さんの疑惑が取り越し苦労だったことはまず間違いない。
つまり、彼は浮気などしていなかったのだ。
その状態で、差し入れを頼んだ彼女に、突然「貴方、加代さんと会っているでしょう」と決めつけられるのだから、彼の心情は察するに余りある。
結果、頭に血が上った百合姉さんと、どうしてそんなことを疑われているか分からない彼氏側──まさか彼も、自分の文字を変な読まれ方をしたとはすぐには気づけないだろう──は見事にすれ違い、喧嘩が勃発。
その内、メモ帳の誤解には気づいたかもしれないが、一度感情的になってしまった以上、中々納得は出来ないだろう。
それで、互いに言い合い続けてしまった、という流れでは無いだろうか。
こうしてみると、些細な切っ掛けの割に、結構悲劇的な話でもある。
少なくとも、結婚一ヶ月前にやることでは無い。
元々が杞憂とはいえ、こういうつまらない言い争いで駄目になるカップルも多いと聞いたことがある。
最悪、早期に誤解が解けなければ、結婚自体白紙になる可能性もあった。
誤解が解けて、本当に良かった、と素直に思う。
僕がそんなことを考えているうちに、似たような思考に至ったのか、レアがホッとしたような顔になる。
そして、こんな感想をこぼした。
「でも、よくこの誤解、解けましたね。こういうのって、感情的になっちゃうと、中々静まらないって、漫画で読みましたけど」
感心したような顔をしながら、レアがまた偏った知識を披露する。
そのことに苦笑いを浮かべながら、僕はさらにその後の流れを考察した。
「まあ、そこは最後に場を収めたって言う、彼氏側の幼馴染が上手くやったんだろう。昔からの付き合いってことは、誤字や字の汚さについて、よく知っていただろうし……」
恐らくだが、その場に駆け付けたという彼氏側の幼馴染は、二人の言い分をそれぞれ詳しく聞いたのではないだろうか。
その上で、件のメモ帳を見つけ出し、百合姉さんがどういう誤解をしたのか、看破したのだ。
要するに、今僕がしたのと同じような推理を、その場で同じようにやった訳である。
もしかすると、百合姉さんが見せたあの地図──正確には、「ハロイ亭」の文字──は、その幼馴染が説明に用いたものかもしれない。
どこかのタイミングで百合姉さんがあの写真を撮っていたことを思い出し、それを見返すように促したのだ。
だからこそ、あの説明の中で百合姉さんはあの地図を持ち出してきたのである。
「何にせよ、この話で一番頑張ったのは、その幼馴染じゃないかと思うよ。喧嘩の仲裁ってただでさえ大変なのに、一種の暗号解読みたいなことまでやったんだし」
「そうですねー……ちょっと、会ってみたいです。もしかするとその人も、探偵かもしれません!」
何やら変な方向に興味が湧いてきたのか、レアがやる気に燃えたような顔をする。
それを見て、僕はまた始まったな、と思い、軽く苦笑を浮かべた。
こうなってしまうと、もう彼女の興味はそっちに向かっていることだろう。
そこで、何となく。
僕は神代の反応が見たくて、そちらの方を見つめてみる。
しかしそこでも、彼女は相変わらず静かな表情で、押し黙ったままだった。
普段のように、レアを宥めるような素振りすら見せず。
ただただ顔を伏せて、表情を見せなかった。




