濁点と融合の関係
──ということは、「ロ」の部分は……。
頭の中で、今まで見たものが次々と現れては消えていく。
その中の一つ────「ハロイ亭」と書かれた文字の中の、「ロ」をもう一度確認したくて、僕は思わず再現地図を見つめた。
しかし、すぐに僕はそれが無意味な行為であることに気がつく。
この地図はあくまで再現したもので、百合姉さんが見せてくれたオリジナルではない。
つまり、ここに書かれた「ハロイ亭」は、あくまで僕がそう書いたというだけで、百合姉さんの旦那さんの筆跡ではないのだ。
それでは、駄目だ。
僕が書いたものでは、意味が無いのである。
しかし、今更オリジナルの方を見る方法も無いので────。
「……ごめん、レア、神代。何か、書くものない?シャーペンでも、ボールペンでもいいから」
「はい?……エイジ?」
「最悪、そこら辺の砂でも良いんだけど……何か、書くもの」
突然の僕の要求に、レアが驚いた反応をしたのが分かった。
推理に集中しすぎるあまり、僕はその反応を無視してしまう。
だから、という訳でも無いのだろうが、即座に神代によるフォローが入った。
「レア、桜井君が何か思いついたみたい。だから、筆記用具が必要、という事でしょう?」
……この辺りは、レアよりも多少付き合いが長いのが影響したのだろうか。
既に神代は、僕が真相の近くにまで来ていることに気がついているようだった。
事実、すぐに神代は自分の手に持っていた小さなカバンをゴソゴソと漁り、そこから小さなシャープペンシルを取り出してくる。
「……これでいい?」
「ああ、ありがとう。……多分、百合姉さんの旦那さんもこういうので書いただろうから、これで良いんだ」
軽く頭を下げてから僕はそれを受け取り、間髪入れずに手に持った再現地図の余白に、文字を書いていく。
書いている単語は、ただ一つ。
バス停、という単語だけである。
ただし、普通に書くのではない。
出来得る限り、一つ一つの文字を不均等に、かつ汚い感じで書く。
要は、百合姉さんの旦那さんの筆跡を再現する気持ちで、書いていくのだ。
十個ほど、僕はそれを意識して「バス停」と書き続け────それから、一度、少し頭を地図から遠ざける。
その状態のまま、僕は遠目にその文字たちを見た。
──行けるな、多分。状況に寄れば、という感じだけど。
そう確認してから、僕はもう一度シャープペンシルを握り、まだ残っている余白にペンの先を当てた。
そして今度は、今思いついた言葉を、軽く書いてみる。
結婚直前にトラブルがあり、元のアパートと慌てて再契約した人が、メモ帳に書きそうな事。
それを、彼の筆跡で再現する。
その結果を見て────ようやく、僕は頷いた。
「そうか、だから……」
──そうですよー。彼の昔付き合っていた人が、丁度カヨさんって名前で……。
家を出る直前、何となくで聞き流していた百合姉さんの言葉が、脳裏に蘇った。
今思えば、あれはかなりのヒントだった。
ということは、あの時の百合姉さんは、母さんに答えを教えていたのかな、と。
そんなことを考えながら、僕は不意に顔を上げ、神代とレアの方を見る。
「あ、エイジ、顔上げました!」
「そうね、解けたみたい」
顔を上げてみると、何かの観客のような顔をした神代とレアが、そんなことを口にした。
それこそ、ポップコーンでもつまんでいそうな顔である。
どうやら、僕が色々と考えていたのを、隣で見ていたらしい。
レアはうずうずと、待ちきれないような動作で体を揺らし、神代の方は落ち着いて、腕を組んでその場で待っていた。
レアはともかく、神代の方は最早、手慣れた感じすら思わせる動作である。
──落ち着いてるな、おい。……神代の方も、聞き手として手慣れてきたのか?
彼女たちの様子があまりにも堂に入っていたので、僕はつい、そんなことを思った。
いやまあ、まだ「日常の謎」と遭遇するのが二回目のレアと、これで四度目になる神代では、反応も違うのかもしれないが。
どことなく釈然としない物を感じながら、僕は口を開いた。
「大体、解けたと思う……話していいか?」
「はい、是非!」
「ええ……ただ、場所は移動しましょうか」
ほら、道の端でずっといるというのも、邪魔でしょうし。
そんなことを言って、神代はそれとなく、僕に移動を促す。
それを聞いてようやく、僕は自分が、歩道の端っこで蹲るようにして謎を解いていたことに気が付いた。
────そう言う訳で、特にどこかに座るわけでも無く、何となく家に戻るような経路で歩きながら。
僕は二人の前で、いつも通りのセリフを口にした。
「さて────」
「最初に言って置くけど、今回の件は日本語特有の……というか、日本語を書き慣れた感じの人じゃないと、分かりにくい話だと思う。もしかすると、レアは少し理解しにくいかもしれない」
だからごめん、と僕は先に謝っておく。
今回の読み間違いは、ひらがな、カタカナ、漢字という三種の文字を使い分ける日本語だからこそ、起きた話である。
レアにとっては、説明されても分からないかもしれない、と思ったのだ。
「……むー?そんな、日本語特有な現象なんですか?あの、『ハロイ亭』は?」
「いや、日本語特有というか、字が汚い人あるあるというか……まあ、まずはあの『ハロイ亭』の正体から言うよ」
大して重要なことでもないので、僕はまず、そこから触れてみる。
誤読という行為が介入したために分かりにくくなっているが、「ハロイ亭」の正体に関しては、そう難しい話でも無いのだ。
何せ、その正体に関しては、僕たちは直に見ている。
「……地図を元に、『ハロイ亭』と書かれていた場所に行ったら、さっき、バス停があっただろう?……だから普通に、『ハロイ亭』の正体は、あの『バス停』だと見て良いと思う。位置的に同じなんだから」
「あれが、ですか?」
「ああ。それにバス停は、そうそう移動する物じゃないから目印になるし、標識のお陰で遠くから見ても分かりやすい。そこらの民家よりは、道案内用の地図に明記しそうな物だろう?」
あの辺りは、大きな看板も、遠くから見て分かりやすい豪邸も無かった。
立ち並ぶのは民家と、その周囲の道路くらいしかなく────だったら、目印になりそうなのはあのバス停しかない。
必然的に、「ハロイ亭=バス停」になるのだ。
「なるほど……でも、どうして『バス停』を、『ハロイ亭』と書いたんですか、その人?最後の『テイ』という音は同じですけど……」
納得したような、納得しがたそうな顔で、レアが唸る。
その隣で、神代はふんふんと軽く頷いていた。
神代の方は、幸いすぐに理解したらしい。
──多分レアは、音で日本語を理解しているな……だから、漢字とカタカナの並びが想像しにくいのか。
そう思った僕は、その場で再現地図を取り出し、さらさらと「バス停」と書いた。
こちらは、先程までと違い、出来るだけ綺麗に書いている。
それを見せながら、僕はもう少し詳しい説明に入った。
「レア、日本語で『バス停』というのは、こういう字で書く。これはいいか?」
「えーと、見たことはあります、はい」
「……だけど、これを汚く書くと、こうなるんだ」
そう言いながら、僕はもう一度、バス停の「バ」を書く。
ただし今度は、恣意的に文字を捻じ曲げて、だ。
まず、「バ」の内、濁点を除いた「ハ」は普通に書く。
その後、濁点を書く際、その濁点の位置を正常のそれからずらすのだ。
より正確に言うと、二つの濁点が重なり、殆ど一本線に見えるようにした上で、隣に並ぶ「ハ」の部分と同じくらいの大きさで書くのである。
それを────「バ」というより、「ハと一本線」みたいな文字を書いて、僕は解説を添えた。
「……濁点って、適当に書いたり、急いで書いたりすると、重なってしまうことがあるんだ。だから、中にはこう書いてしまう人もいると思う」
「むー?でもこれだと、『バ』じゃなくて、『ハと斜め線』みたいですよ?日本の人でも、読みにくいのでは?」
「そうだな。ただ、これ単体であれば、文脈で『バ』だと分かったかもしれないけど……」
生憎、「バス停」と書きたいのだから、ここに続く文字が存在するのだ。
だから僕は、残る「ス停」を書いていった。
手始めに、既に書かれてある「ハと斜め線」の内、一本の斜め線と化した濁点に殆どくっつけるようにして、「ス」を書いてみる。
特に、「ス」の二画目はかなり適当に、短く書いた。
正直、あるかないか分からないレベルである。
さらに、「ス」の一画目も、心なしか丸っこく。
というか、ほとんど「コ」とか「つ」に見えるレベルで記述する。
最後の「停」は、人偏の部分をやや大きく書いてみた。
その上で、全体を眺めてみると────。
「確かに、『ハロイ亭』に見えるわね。濁点と『ス』が融合して、『ロ』に見えるから。人偏は元々、カタカナの『イ』と同じ形だし」
後ろから覗き込んでいた神代が、ポツリとこぼした。
それを聞きながら、僕は我が意を得たり、と頷く。
「そうだ。そう言う経緯で、本人は地図中の目印として、バス停と書いたつもりなのに……」
「『ハロイ亭』としか読めなかった、ということですね?」
へー、と興味深そうな顔で、レアが頷く。
その表情は、解かれた謎に感心しているというより、「日本語って難しいなあ」という感じの表情に見えた。
しかし、すぐに彼女の表情は疑問に満ちた物に変わり、新たな疑問が飛んでくる。
「『ハロイ亭』の書き間違いは何となくわかりました。要するに、字が汚いから『バス停』が『ハロイ亭』としか読めず、困った、という話ですよね?」
「ああ、そうだな。まあこうして僕に教えてくれたということは、すぐに誤解は解けたんだろうけど」
「それはいいんですけど……この話、結局浮気の話とは、どうつながるんです?これ、本当にヒントなんですか?」
当然と言えば当然の疑問が彼女から飛び出たのを察し、僕は思わず苦笑した。
そして、軽く彼女を宥めにかかる。
「まあ、焦るな。ここで覚えておいて欲しいのは、百合姉さんの旦那さんは、濁点のある文字と『ス』を連続させると、それを『ロ』にしてしまうような書き方をする、という事なんだ。それを理解すると、百合姉さんの誤解が分かる」
「……んー?」
「分かりづらいなら、先に書いてみるよ」
そう言って、僕は再び、地図の余白に文字を書き始めた。
これこそ、今回の謎の本題。
百合姉さんの旦那さんがメモ帳に書いていた、喧嘩の原因そのものである。
……百合姉さんは言っていた。
不動産屋のミスで、一ヶ月もの間住む場所がなく、彼は相当苦労していた、と。
何とか元のアパートに戻れても、電気やらガスやらをもう一度繋げるのは面倒くさかった、と。
あの話しぶりからすると、電気会社やガス会社との再契約──というか、一か月間だけの短期契約か──は、彼自身が電話やら申し込みやらをして、行ったわけだ。
大家さんも、そこまではしてくれなかったのだろう。
しかし、ただでさえ仕事が忙しい時期である。
百合姉さん自身、婚約しているとは思えない程会えていなかった、と言っていた。
それほどの忙しさであれば、再契約に関する電話をする暇も、中々無かったのではないだろうか。
それこそ、一度電話をしても、時間の無さから十分な説明が出来ず、また掛け直すような事態だって起きたかもしれない。
何故今のような事態になったのかの説明やら、どれくらいの料金を払うのかの選択やらを、向こうから求められる可能性もある。
だから、きっと。
電話を掛け直す時の予定を書くために、彼はメモを使い────。
「……多分彼は、こんな感じのことを書いたんだろう。『ガス代、電話、結婚の件について説明』みたいな感じで」
実際にそう書いてから、僕はその文字列をレアに見せる。
彼の筆跡を、意識的に再現したものだ。
やはりと言うべきか、神代はともかく、レアは読みにくそうな顔をした。
予想できた反応だ。
この書き方をすると、「ガス代」は「ガス代」とは読めないのである。
濁点と、その隣にカタカナの「ス」があると、「ロ」の形にしてしまう人が書いた場合は。
この文字列は、人名に化けるのだから。




