目印とバスの関係
……かなり後になってから思ったことだが。
別に、この提案に関しては、僕は断っても良かったと思う。
そもそも、何度も言っているように、百合姉さんが見せてきたあの地図が、本当にすずもり文具店周辺を描いているとは限らない。
そして仮に、本当にあの地域を描いていたとしても、今の時代、スマートフォンを弄れば地図ぐらいは出てくる。
実際のところ、直に行くほどの必要性というのは、大して無かった。
いくら彼女たちの用事が午前中で既に終わっており、午後からの予定が決まっていなかったにしても。
午後の時間を使ってまで、実際にその地域に歩いて行くというのは、時間の使い方としてはかなり贅沢なものだった。
ただでさえ、レアは一ヶ月しか日本に滞在しないのだから。
それでも実際には────僕たちはそこで、ハンバーガー屋を出た後、すずもり文具店にまで歩いて行ってしまった。
その理由を考えてみると、まあ。
レアというよりも、神代の方にあるのかな、という気がする。
というのも、何故かこの辺りから、神代は口数が結構減ってきていたのである。
全く喋らないわけでも無いのだが、ポツポツとしか話さない、というか。
平たく言えば、突然寡黙になったのだ。
無論、元々、神代は滅茶苦茶多弁な性格という訳ではない。
寧ろ、必要のない会話や、意味の無い雑談を常にするような性格ではなく、静かに黙っている時も多いタイプだ。
しかし、それにしても、この日は特異だった。
簡潔に言えば、殆ど、レアのことを宥めなくなっていたのである。
僕の話を聞くまでは、頻繁に隣の彼女を窘めていた、神代が。
今までの態度が嘘のように、沈黙を守っていた。
しかも、奇妙なことに、その沈黙の理由は「第二の謎を思い出してしまったから」とか、そういうすぐに思いつく理由では無いようだった。
もっと、別のことを考えていそうな雰囲気だったのである。
何か、もっと考えなくてはならないことがあるために、僕たちとの会話に対する反応が遅れている。
彼女から受けるのは、そんな印象だった。
そして、だからこそ。
レアが「現場検証をしましょう!」と言い出した時、その提案は、意外とあっさりと可決された。
神代が止めず、僕も強くは否定しなかったので、なし崩し的に決まったのである。
まあ、他にも時間の使い方があったのではないか、と思うだけで、別段無駄な時間の使い方という訳でも無いので、構わないと言えば構わないのだが────それでも。
神代は、どんな気分だったのかな、と。
十二月になってから、僕は何度か思い返した。
「久しぶりに来たなー……」
そういう流れの元、レアに引きずられるようにして、ハンバーガー屋から歩くことしばし。
「すずもり文具店」の看板を見ながら、僕はそんなことを呟いた。
通学路の都合上、普段は来ることが無いので、「第二の謎」の一件以来の来訪である。
土曜日ではあったが、営業日だったのか、文具店は普通に開いていた。
尤も、昼過ぎという時間帯も相まってか、あまり客は居ないようだったが。
「むー……。ここがその地図で言うところの『すずもり』ですね。そうなると、道路は……」
隣では、レアが紙を見つめながらふむふむ、と言っていた。
彼女が見つめる紙に描かれているのは、僕がハンバーガー屋を立ち去る前に、記憶を元に再現した、件の地図である。
レアが見たいというので、一応作ってみたのだ。
勿論、僕もあの画像をじっくりと見たわけでは無いので精度はお察しだが、それでも大雑把な位置関係くらいは再現出来ている、と思う。
事実、その地図を一回描いたからこそ、確認できることがあった。
「ここが大きな道路で、ここが『すずもり』ですから……道路との位置関係からすると、この地図とフゴウ?しますね」
「まあ、確かにな。少なくとも、あからさまな差は無い」
背後で沈黙を守る神代を尻目に、僕とレアはそんなことを言い合う。
ここで最初に確認できたのは、大雑把な道路の位置関係だった。
それが明らかに地図と現実で違っていたならば、あの地図はこの辺りを描いた物ではなく、「すずもり」も名前が同じの別の存在、ということになる。
しかし、確認したところ、道路の並びなどは、僕の再現図と現実の道路の間で差が無かった。
無論、僕の記憶が正しいとも限らないし、そもそも百合姉さんの旦那さんが正確に描いたかもわからないのだが、まあ推理の材料くらいにはなるだろう。
「じゃあ、この地図が間違いなくこの辺りを描いたものと仮定すると……『ハロイ亭』は、あっちか」
「……そうね。行きましょうか」
ポツリ、と囁くような音量で神代が言葉を放つ。
どうも、黙っていただけで僕たちの会話は普通に聞いていたらしい。
そして彼女は、さながら率先するようにして自ら歩き出した。
慌てて、その後ろから僕とレアは彼女を追いかける。
──しかしどうにも、今日の神代は、活動的なのか、非活動的なのか分からないな。どうしたんだ?
心中で、僕はそんなことをぼやいた。
ハンバーガー屋を出たあたりから、ずっとこうだ。
流石に心配になり、僕は彼女の背後から声をかける。
「なあ、神代」
「何?」
「何か、体調悪いとか、そう言うのは無いか?……もしそうなら」
中断しないと、と言おうと思った。
しかし、それを言う前に、神代はすっと指を伸ばし、僕の唇を閉ざした。
これは比喩ではなく、唐突に彼女は人差し指を僕の上唇に当て、物理的に発声を封じたのである。
「……しぇんだい?」
「大丈夫よ、桜井君。別に、体調が悪いわけでも、何か辛いことがあったわけでも無いから。ただ単に……ドキドキハラハラしているだけで」
口を閉じたまま変な声を出す僕に対して、神代はそれ以上に変なことを言う。
──ドキドキハラハラ……?
率直に言って、なんじゃそりゃ、と思った。
今までも何度か奇妙な発言をしてきた彼女だが、その中でも随一の謎発言である。
何故、この辺りをうろつくことで、彼女がそんなことを思うのか────。
「まあ、私のことは心配しなくてもいい、ということ。……行きましょう?」
僕の思考を置き去りに、それだけを言った彼女は、そのままスタスタと歩き出す。
再現した地図も碌に見ていないだろうに、その足取りには迷いが無かった。
そのことを不思議に思いつつも、僕は訳が分からなそうな顔でやり取りを見つめていたレアと共に、その背を追っていった。
そうして、今度は神代についていくようにしてテクテクと歩いて。
ようやく、僕たちは「地図の位置関係的には『ハロイ亭』に相当する場所」という地点にまで辿り着く。
「……この辺り、よね?」
「ああ。ただ、『ハロイ亭』が人名なのか、建物の名前なのかも分からないけど……」
神代の確認に応じながら、僕は周囲をきょろきょろと見渡す。
自宅でも考えたことだが、この地図の目的からすると、「ハロイ亭」というのは、書き手の実家に辿り着くための目印になるような場所のはずである。
そうでなければ、わざわざ手描きの地図の中で、名称を省略せずに書き入れることは無いだろう。
だから、実際に来てみれば何か、すぐに目につくような看板があるのではないか、とも思っていたのだが────生憎と、当ては外れた。
周囲を見渡した僕の視界に映るのは、やや大きめの道路と、その周囲に立ち並ぶ民家のみ。
元々住宅街なのか、或いは店が少ないのか、大きな看板と言う物自体が無かった。
「家しかないですねー。『ハロイ亭』は、どこかのオウチ、でしょうか?ハロイというのは、誰かの名字で」
「いや、流石にそれは、目印として使いにくいと思うけど……」
レアの思い付きを、僕はそう否定する。
流石に、それは可能性が低いと思った。
普通、地図の中で明記する目印として、そこらの民家というのはあまり描かれないだろう。
地図を使う側としては、そんな目印を渡されても、表札を見ないと名称が分からないし、あまりじろじろ見ていると不審がられる可能性もある。
余程の豪邸で、一発で分かるくらいの特徴が無ければ、地図に明記はしないのではないだろうか。
そして勿論、そんな豪邸は周囲を見る限り無かった。
──というか、「ハロイ亭」の正体以前に、彼は何を目印にしたんだ?見る限り、目印になるような物自体がこの辺りには無さそうだけど……。
ついには、僕はそんなことを思う。
そして、再現した地図を見つめながら、じっとその場で佇んでしまう。
すると、丁度その時。
僕の後ろの方から、ブルル、と大型車の音が聞こえた。
「桜井君、バス、来てるから……」
突然、神代がそう言って、僕の服の袖を不意に掴む。
同時に、彼女は僕の体を強く引っ張り、自らの方に引き寄せた。
自然、僕は彼女の傍──道路から離れた、歩道の端──に移動する。
「……あ。バス?」
「ええ。乗客と間違われちゃうでしょう?乗る気も無いのに停めてしまうのも、なんだから」
思考に集中していて、バスの存在自体に気がついていなかった僕は、驚いて背後に視線をやる。
すると確かに、そこでは丁度、バスが道路を通過していくところだった。
同時に、僕の目が道の端にある小さなバス停──屋根も無く、標識だけがあるタイプだ──を認めた。
推理に集中しすぎて、いつの間にかバス停に気づかずに、その近くに歩いて行っていたらしい。
だから、乗客と思われないよう、神代が引っ張ってくれたのだ。
──というか、ここバス停あったんだな。あの地図にも描いていなかったと思うけど。
目の前では、レアが興味深そうにバス停を見つめている。
そして、神代に何やら質問をしていた。
彼女としては、珍しい形態をしたものだったのか。
ただ、僕にとっても、このバス停が初見なのは同じである。
元々、移動と言えば自転車を使うことが多く、バスに乗る機会自体が少ない。
だから、ここにバス停があること自体、知らなかった。
だから、何となく新鮮な気持ちで僕はそれを見つめ────そこで、ふと。
僕は唐突に、「ん?」となった。
──しょうも無いと言えば、しょうもない読み間違いなんですけどね……。
同時に、百合姉さんの言葉が、突然、脳裏に蘇った。




