ハロイ亭とすずもり文具店の関係
マリッジブルーを加味しても、ちょっとあの時は、正気じゃなかったかもですねー。
今思えば、という話ですけど。
でも、本当に、たったのメモ一枚で浮気を疑って、そのまま彼のアパートに居座って。
そして彼が帰宅してすぐ、「これってどういうこと!」って聞いて、喧嘩したんですしね。
ちょっと、怖い女でしたね、私。
しかも、実際は浮気でもなんでもなかったんだから、どうしようもないというか。
……ただ、言い訳になっちゃいますけど、本当にあの時は、これからへの不安とかが結構あって。
彼も仕事で忙しかったり、さっき言った配置変更で、顔を合わす機会が減っていたりしてましたから。
これから一緒に住もうって言うのに、以前よりも話す機会が少なくなっていたくらい。
だから、変な言い方になりますけど、愛情を確かめたかったんでしょうね。
本当に、偶々夕方に訪ねに来た、その幼馴染の子──追加で食べ物とかを持ってきてくれていたんです──の仲裁が無かったら、夜中まで喧嘩してたかも。
……え?
その、喧嘩の原因となったメモ帳には、何が書いてあったか?
あ、私、当時の情景を思い出しすぎて、そこ飛ばしてました?
ええと、じゃあ、ですね。
ちょっと待ってください。
多分、そのメモ帳の内容を言う前に、この画像を見た方が良いと思います。
その方が絶対、私がどういう誤解をしたか、分かりやすいですから。
だいぶ前に、彼が自分の実家の位置を教えるために、書いてくれた地図なんですけど……。
そこまで話をしたところで、百合姉さんはゴソゴソと椅子に置いてあった鞄を漁り、スマートフォンを取り出した。
そして、これだったっけ、などと言いつつ、画像フォルダをちょこちょこと弄っていく。
既にケーキを食べ終わっていながら、何となくタイミングを逃してその場に留まっていた僕は、特に感情も無くその動きを見つめた。
「ちょっと面白かったんで、写真に残したんですよ……そう、これ」
スッスッ、と画像を選んでいた彼女が、不意に目を開き、何か見つけた、という感じの顔をする。
そして、写真に付随する面白エピソードでも思い出したのか、少しおかしそうな顔で、その画像を僕たちに見せてきた。
「これ、その地図の写真なんですよ。これもあの日見たメモと同じで、メモ帳にササッと書いたやつですけど」
「へえ……でも、これは」
「汚いでしょう?字が。蓮は、そう言うのあまり得意じゃないんで」
母さんが言葉を選ぶようにして少しだけ沈黙し、それを埋めるようにして百合姉さんが自分からそう言う。
そこだけ、軽く百合姉さんは眉を八の字にした。
「まあ、あんまり手書きで何かを書く時代じゃないですしね、最近は」
「そうねえ、今は何でもデータだから……」
母さんと百合姉さんがそんな会話をする中、何となく、流れで僕もその画像に視線をやる。
そして、母さんと似たような感想を抱くことになった。
──確かに、あんまり上手い字じゃないな。まあ、読めない程じゃないけど……。
メモ帳だから、とか、そもそもにして殴り書きに近い、という事情もあるのだろうが、それを加味しても、その地図にちょこちょこと添えられてある字は読みにくかった。
しかも、シンプルに字が下手というより、一文字一文字の大きさが結構異なるので、全体的に汚く見える、というタイプの下手さである。
そのせいか、一単語でもバラバラに文字が並んでしまい、単語として非常に読みにくかった。
字によっては、濁音や半濁音が大きすぎて、隣の字を囲いそうになっている物もある。
「じゃあもしかして、百合ちゃんがメモ帳を見て怒っちゃったのって……」
「多分、今おばさんが想像した通りですよ。しょうも無いと言えば、しょうも無い読み間違いなんですけどね……あ、ここを見ると、分かりやすいかも」
何やら話の流れを察したような母さんに受け答えをしつつ、百合姉さんは不意に、画像の中の一点を指さす。
そこには、よく分からない文字列が書かれていた。
「ハロイ亭……?」
どう見てもそう書いてあるようにしか見えず、思わず僕は声に出した。
何だこの単語、と思いつつ。
「あ、永ちゃんにもそう読める?」
「え、うん」
「だよね、そうとしか読めないよね、これは」
うんうん、と百合姉さんが我が意を得たり、という様子で頷く。
良く分からないが、今の僕はまさに彼女の思い通りの反応をしたらしい。
「あー、私にも、ハロイ亭としか読めないわ、これは」
「おばさんも、そうですか?」
そう言って、また百合姉さんは顔を明るくした。
そして、突然彼女は僕たちを前にして、こんな提案をする。
「……因みにおばさん、これ、本当はなんて書いてあると思います?まだ見せてないですけど、私たちの喧嘩の原因となった読み間違いも、これと同レベルの話なんで、これが読めたら話のオチも分かると思いますけど」
「えー?」
急に謎かけを喰らった母さんが、困ったように首を捻った。
それと同時に、百合姉さんは僕の方にも同様の提案をする。
「永ちゃんも、考えてみる?確か、推理小説とか凄い好きだったよね?」
「……いや、それは」
昔、百合姉さんが勧めるものだから、少しでも話題が欲しくて読んでいただけである。
しかし、言った本人はそんなことをすっかり忘れているのか、屈託のない笑みでその提案を続けた。
「永ちゃん、昔から賢かったし、解けるんじゃない?」
「えー……」
ここまで言われると、どうにも断りにくい。
仕方なしに、僕は隣の母さん同様に、スマートフォンの画面を見つめる。
尤も、どう頑張ったところで、その文字は「ハロイ亭」としか読めなかったのだが。
──いや本当に、何度見ても、「ハロイ亭」だな……。今の雰囲気からすると、それじゃあ誤読らしいけど……というかそもそも、どこの地図なんだ、これ?
ぼんやりとした思考のまま、僕はそんな事を考える。
どの場所を描いているのかが分かれば、まだ推理の足しになると思ったのだ。
だから、僕は手がかりを探して、百合姉さんが示した場所以外の部分も丹念に見渡し────ある発見をした。
──「ハロイ亭」の文字からちょっと離れたところに、建物の絵が……それと、「すずもり」?
スマートフォンに映る地図の中央には、道路を意味するのであろう太い二本線が書かれているのだが、それに隣接するようにして、雑な絵が描かれてあることに気が付いたのである。
よくよく見ると、その絵は手描きの地図における建物を示すように、不格好な四角形をしていた。
そして、その四角形の隣には──他の字と同じく読みにくいので、苦労して読むと──「すずもり」の文字がある。
どうやら、その建物の名称らしかった。
恐らくこの建物は、その地図の中でも重要な建物というか、彼の実家に辿り着くための目印となる存在なのだろう。
商店なのか誰かの家なのかは分からないが、判別しやすくするため、わざわざ名称を添えてあるのだ。
──つまり、これがその「ハロイ亭」と百合姉さんの旦那さんの実家の近くにある、目印……そこそこ大きな建物なんだな。ということは……。
頭の中に記憶している「すずもり」を、僕は流れるように振り返る。
すると、パッ、と。
頭の中に「すずもり文具店」の文字が浮かんだ。
そうだ、「すずもり文具店」。
かつて、「第二の謎」の中で間接的に関わった、涼森舞の家。
あそこに関しては、よく知っていた。
何なら、諸々の事情によって、実際に買い物までしたことがある。
この辺りにある、そこそこ大きくて目印になりそうな、「すずもり」と書かれてある建物と言うと、僕にはそれしか思い浮かばない。
無論、百合姉さんの旦那さんの実家がこの辺りとは限らないので、勝手な妄想に過ぎないが。
──というか、仮にこの「すずもり」が本当に「すずもり文具店」なら、「ハロイ亭」も当然、その近くにあるんだよな……何だ、「ハロイ亭」って?そっちは聞いたことないけど。しかもそれが、浮気疑いの喧嘩に絡むって言うのは、どういう……。
うーん、と僕は軽く唸った。
話の流れ的には、こういう乱雑な文字のせいで、百合姉さんが浮気を誤解するような事態が引き起こされたらしいが。
今のところ、何故そういう話になるのかも、良く分からなかった。
……気がつけば、真剣に考えすぎたのか、リビングは静かな沈黙に満ちて、僕の目の前では、百合姉さんがニコニコと僕たちの様子を見守っていた。
昔からの知り合いが、考え事をしている様子を見るのが、余程楽しいのか。
朗らかな表情のまま、彼女は僕をみやる。
──ああ、また、子ども扱いされている……。
仕方の無いことなのだが、百合姉さんの表情からそんな意図を感じ取り、僕は微かに傷つく。
しかし、その傷の痛みは、そう長く続かなかった。
というのも、そう感じた瞬間。
突然、ポケットに入れていたスマートフォンが、軽快な着信音を奏でたのである。
「え?……あ、ごめん、百合姉さん、電話出る」
「あ、どうぞ?」
反射的に、僕は思考を中断してスマートフォンを手に取った。
そして、百合姉さんに促されるようにして、画面に視線をやる。
途端に、画面上に光る────「神代」の二文字が、瞳の中に飛び込んできた。




