音色と第一の謎の関係
「日常の……謎?」
オウムのようにして、神代の言葉を繰り返す。
言葉の意味が分からなかった、というわけではない。
少し前だが、推理小説の類をよく読む機会があったので──百合姉さんが「本をよく読む男の子って格好いいと思うよ」と言っていたからだ。我ながら涙ぐましい──その単語の意味自体は知っていた。
日常の謎。
殺人事件とか、誘拐事件などではない、一般人の生活で十分に起こりうる、小さな謎たち。
より正確に言えば、そう言った小さな謎を探偵が解く様子を楽しむ、推理小説のジャンルの一つだ。
しかし、何故。
このタイミングで、その単語が出てくるのか。
混乱しながらも、必死にその理由を考え、思いつくままに発言してみる。
「ええと……つまり、神代さんは……」
「『さん』は要らない。同級生なんだから」
「あ、じゃあ、神代は……何か、四つ程、悩みがあるのか?そしてそれを、僕が解決すればいい、と?」
日常の謎、という単語を省略し、もう少し普遍的な言葉で説明してみる。
それだけでも、随分と理解しやすい話になった気がした。
いやまあ、告白しに来て、悩み相談を条件として突きつけられるのも、十分に理解不能ではあったが。
「そう、その通り。それを全て解いてくれたら、貴方と付き合う」
「……何でそんな条件を」
「変に思う?……どうせ付き合うなら、賢い人と付き合いたい、と思うのは、そんなにおかしい?」
そう言って、神代はまた首を軽く傾げる。
何というか、「そんなに拘ることか」とでも言いたげな感じだった。
──賢い人と付き合いたい……それで、これを?
説明されてもさっぱりな現実に、僕は軽い頭痛がし始める。
この人が話している言葉は、本当に同じ言語だろうか。
いやまあ、百歩譲って、理屈だけなら理解できないでもない。
恋人を選ぶ基準なんて、人それぞれだ。
何なら僕自身、十歳年上の女性に恋をしていたくらいである。
だから、神代が「賢い人と付き合いたい」ということにも、そのためにテストのようなことを課してくることにも、非難は出来ない。
単純に、神代はそういう感じの人だった、というだけなのだから。
ただ、本当に賢い人と付き合いたいのなら、もっと効率的な方法があるんじゃないか、と思うだけで。
「……僕、別に勉強なんて出来ないけど」
「私、そのあたりは実のところどうでもいいの。勉強が出来る出来ないじゃなくて、別の面で頭がいい人が、私のタイプだから。それで、こうやって謎かけをしているの」
そう言って、神代はさらりと髪をかき上げる。
その仕草はやはり絵になる物だったが、言っている内容は非常に変わっている。
何というか、浮かんでくる感想は────。
──……神代って、こういう感じの人なのか……。まあまあ変人……?
正直なところ。
そんな事をこの場で言われても、そうですか、それはそれは、としか言えない。
元々混乱しているし、思考もついてきていないというのもあるが。
もし、僕が本当に神代のことが好きで、理想化していたなら──こういう風に、別の目的で告白をしに来たのでなかったら──ショックだったのかもしれない。
しかし生憎と、僕は神代のことをほぼ知らないままここに来てしまったので、衝撃を受けるとかそういうこともなく、ただただ呆けることしか出来なかった。
神代って、変わっているな、とは思ったが────この辺り、多分僕の方が色々と酷いので、言い返すこともない。
そんなことを思って、僕は何も言えずにポツン、と教室内に佇む。
すると、神代が突然、くるりとこちらに背を向けた。
そして、こう言ってくる。
「……じゃあ、行きましょうか」
「へ?……行くって、どこへ」
「分からない?一問目の謎が発生している場所……要は現場よ。早速、解いてもらおうと思って」
何を今更、と言う顔で、神代がこちらを見る。
そして、タタタ、と軽く早足で扉の方まで歩いていった。
……しかし、そう言われても流石に僕の足も動かない。
と言うか、いつの間に場の雰囲気を彼女が主導するようになったのか把握できず、その場で立ち尽くしてしまう。
浅く、空気を掴むように右手を彼女に向かって伸ばすのが精一杯だった。
扉をがらりと開けた時点で、彼女はそのことに────僕がついてきていないことに気づいたらしい。
小さくため息をついて、彼女はすぐさま、今自分が歩いてきた道を逆走する。
そして、中途半端に伸ばされたままの僕の右手首を、意外にも力強く、ガッと掴んだ。
「ほら、行きましょう?」
「え、あ……うん」
さも、自分の行動が常識的な物であるかのように振舞う神代の圧に負けて、僕は反射的に頷く。
それに満足したのか、神代はすぐに顔を前に向けた。
彼女の言うところの、「現場」の方角に。
……そうして、彼女に引きずられるようにしたまま、僕は最初の謎に関わることになった。
本当に、ズルズルと腕を引っ張られて、現場まで連行されたのである。
学年屈指の美少女が、僕のような生徒を連れまわす様が、周囲からどう見えていたかは、定かではない。
ただ、昨日の出来事に負けず劣らず、情けない態度だったのは、まず間違いないだろう。
何にせよ、断言できることと言えば一つだけだ。
今この瞬間の、呆けた僕の声。
これこそが、僕と彼女と、四つの謎を巡る始まりだった。
────そして、彼女に引きずられること五分ほど。
「着いた、ここよ。第一の現場……音楽室」
そう呟くと同時に、決して放さない、と言わんばかりの強さで握りしめられていた右手首が、パッと解放される。
自然、彼女に寄りかかるようにして歩いていた僕は支えを失い、おっとっと、となる。
慌ててバランスを取り戻したところで、ようやく僕の目が第一音楽室の看板を認識した。
彼女に連れてこられた場所は、何のことは無い。
僕たちが居た校舎の、一階。
音楽室のような特殊教室が並ぶ一角だった。
それを認識したところで、耳が管楽器の音色を運んでくる。
恐らく、吹奏楽部が音楽室で練習しているのだろう。
音楽室前の廊下には、部員たちの練習音がBGMのように響いていた。
「……ここが、どうかしたのか?」
「今は、特に何もないわ。……でも、そろそろ」
そう言って、彼女は軽く腕を組み、その態勢のままさらに廊下を進んでいった。
流れで、僕もその後をついていく。
そして、通り過ぎるついでに何となく、僕は音楽室の様子を観察した。
彼女が言うところの「謎」が何なのか、少しでも掴みたかったのだ。
──と言っても、変なところは無いな。まあ、吹奏楽が練習する時間にここに来たのは初めてだけど……。
何せ僕は帰宅部なので、誰かが部活に励む様子を見る機会自体が、極端に少ない。
それでも、深宮のように友人が所属している部活なら、興味本位に様子を見に行くこともあるのだが、吹奏楽部のように知り合いが居ない部活の場合は、本気で一度も練習風景を見たことがなかった。
つまり、放課後の音楽室の様子など、入学以来初めて見る。
必然的に、普段との違いとか、おかしなところなど分からない。
まず、普段の様子と言う物を知らないのだから。
────ただ、それを差し引いても、音楽室には「謎」と呼ぶほどの異常が無いように思えた。
目に映るのは、締め切られた扉と、窓の無い──防音のためらしい──壁。
その設計上、中の様子を伺えないため、はっきりとは言えないが、変なところは特に無い。
実際、壁越しに微かに聞こえる音声も、平凡そのものだった。
聞こえる音と言えば、先述した管楽器の音色と、その合間に差し込まれる教師の言葉。
恐らく、部員たちが練習をしつつ、時折教師が指導をしているのだろう。
ごく標準的な、吹奏楽部の練習風景だと判断できた。
そこまで考えたところで、僕は視線を前に戻す。
すると、僕より先を行っていた神代が、音楽室の隣の部屋の前で佇んでいるのが分かった。
隣の部屋────第二音楽室、と書かれた教室前で。
とりあえず、あそこまで来いということだろう、と判断して、僕は駆け足でそちらに向かう。
同時に、こんなことを思った。
──そう言えば、この第二音楽室って部屋、入ったことが無いな。
少なくとも、僕が授業で移動する分には、この部屋を使った記憶がない。
基本的に、授業科目としての音楽では、今通り過ぎた第一音楽室しか使わないのだ。
尤も、一度も行ったことが無いにしても、その名前からこの第二音楽室の用途は推察できる。
授業で使わないということは、部活の練習で使う部屋なのだろう。
楽器を収めておく倉庫である、という可能性もあるが、その場合ははっきり倉庫と書くだろうから、まず間違いない。
実際、第二音楽室の前──こちらも隣と同様、窓が無かった──にまで向かうと、微かに管楽器の音が聞こえた。
第一音楽室に収められなかった部員たちが、室内で練習している、ということだろうか。
そこまで考えつつ、僕はようやく神代に問いを発する。
「……こっちの部屋が、どうしたんだ?」
そう言うと、神代は唇の前で人差し指を立て、「シー……」と言った。
同時に、まるで聞き耳を立てるようなジェスチャーを見せる。
──……何か、音を聞けと?
不審に思いつつも、とりあえず僕はその指示に従う。
流されるままだったが、どうしようもなかった。
ここに至るまで、未だに神代の意図が見えない。
ならば、ここは言うことを聞いておいて、その意図を口にしてもらうまで待った方が良いだろう、という気がしたのだ。
だから、僕は彼女と同じく口を閉じて、耳に神経を集中させる。
────すると、程なく。
突然、吹奏楽部の練習音に異物が混じった。
より、正確に言うならば。
上手いか下手かは知らないが、それなりに流麗に流れていた音色の中で、突然、「ピヒャー!」という感じの奇音が混入したのである。
聞いた瞬間、「あ、誰かが演奏をミスったな」と分かる、そんな雑音。
その音が聞こえた瞬間、第二音楽室から聞こえていた演奏音が、少し静かになる。
想像だが、他の部員たちがそのミスした相手の方を、演奏を止めてまで見ているのではないか、と思うような間だった。
ミスした部員は、多分謝っているんだろうな、という感じの沈黙。
尤も、それも数秒の事。
すぐに練習は再開され、廊下に音が戻ってくる。
そうして、また第二音楽室前は元の状態に戻った。
「……聞こえた?」
神代が、こちらの顔を覗き込むように問いかける。
自然、その問いには頷いていた。
「うん。誰か、演奏を凄いミスってたな」
聞こえたままの事実を告げると、神代はコクン、と首肯する。
同時に、彼女は指をピン、と立てた。
「……これが、私が桜井君に解いてもらいたい問題」
「問題?……今のが?」
「ええ、その通り。実は私、あの変な音を、今日をいれて三日連続で聞いているの」
だから、と言葉が繋がれる。
「何故、吹奏楽部の部員が、連続してあのミスを犯してしまっているのか……これが、第一の謎。桜井君、解いてもらっても、いい?」
そう言って、彼女は薄く微笑んだ。