のろけと引っ越しの関係
「あ、もうケーキ置いてあるね。永ちゃん、どれにする?」
「……じゃあ、そこのショートケーキで」
リビングに辿り着くと、そこでは既に母さんの手で、百合姉さんが持ち込んだケーキたちがテーブルの上に置かれていた。
それを見た瞬間、百合姉さんの纏う雰囲気が、子どものようにテンションが上がったものになり────しかし、一応自分が既に大人であることを意識したのか、僕の希望を先に聞いてくる。
その思考の流れを察した僕が、とすぐに答えを言うと、すかさず彼女はこの上なく真剣な視線をケーキに戻した。
例え自分で買ったケーキだろうが、この選択は彼女にとって、真剣になるに相応しいものらしい。
──ウズウズしているな。昔から、甘いの好きだったしな、百合姉さん……。
だから、結婚式の土産物がバウムクーヘンだったのかな、などとふと考える。
無論、ただ単に式場側が提案した物なのかもしれないが。
そんなくだらないことを考えながら、僕は要求した通りのショートケーキを受け取った。
同時に、キッチンの方から、飲み物を用意しているらしい母さんの、「先に食べておいてー」という声が飛んでくる。
それを聞いた百合姉さんは、我慢できない、という感じでこちらを見た。
「おばさんもああ言ってるから、食べちゃおうか、永ちゃん」
「あ、うん……座る」
そう言いながら席に座ると、向かい側にドルチェを選んだ百合姉さんが座る。
彼女の纏う雰囲気は、既に結婚までした人とは思えないくらい、純真な物だった。
平たく言えば、ケーキを前にして、屈託のない笑顔を浮かべているのである。
驚くくらい、その仕草は昔のままで────だからこそ、辛いな、と思う。
あまりにも変わっていない彼女の姿を見ると、まるで。
僕が、まだ彼女に片思いをすることが可能だった時期に、戻っているかのような錯覚を抱いてしまう。
「……いただきます」
その感覚に耐え切れず、僕はケーキの方に集中した。
僕の声に続いて、百合姉さんの「どうぞ、きっと美味しいよ」という声がしたのが、耳に入る。
その返事を、僕はフォークの動きで誤魔化した。
幸いというか何というか、対面に座った百合姉さんは、ケーキの感想と母さんとの世間話に忙しく、あまり僕と会話することは無かった。
だから、僕はとりあえず、ケーキの味に夢中になっている振りをする。
実際のところ、味などさっぱり分からなかったが──強いて言うなら苦々しい感触があったが、これは精神的なものだろう──、それでも積極的に話をしなくてもいいのは、実に助かった。
……しかし、当然ながら、目の前で話をされているわけではあるので、彼女たちの世間話の内容は、普通に耳の中に入ってくる。
内容自体は、いかにもありがちな物だったが。
例えば、新居での暮らし向きで困った事。
或いは、結婚式にかかった費用。
もしくは、同居して分かった、夫の癖。
そんな、言うなれば「結婚して一か月の新妻が感じる事あるある」を、百合姉さんはテンポよく語っていった。
途中にテーブルの方に合流した母さんの方も、自分の過去と照らし合わせているのか、所々で相槌を打つ。
僕としては完全に未知の世界だが、どうやら結婚経験のある人なら、共感できるネタらしい。
尤も、僕の方はと言えば、不可抗力で聞こえてしまう話の内容よりも、その話し方の方が気にかかった。
と言うのは────。
──話を聞いているだけでも、こう、百合姉さんが本当に夫の事が好きなんだって、よく分かるな……。何か、凄く新婚さんらしい幸せ感と言うか。
ショートケーキの欠片を口の中に放り込みながら、つい、僕はそんなことを考える。
僕は彼女の顔を直視してはいないが、それでも。
話し方だけで、それは良く分かった。
と言うのも、彼女が話す「あるある」は、そのどれもが愛着を持った風な話として語られるのである。
少し愚痴っぽい話や、実際にかなり困った話であっても、「こんなことがあって大変だった!」という話し方はせず、「困っちゃいますよねー」と苦笑いで話しているのだ。
全ての言葉の奥底に、夫への愛情が見え隠れしている、と言ってもいい。
きっと、その「あるある」の全てを、彼女は夫と共有し、笑い話としているのだろう。
要するに、新婚夫婦として、非常に仲良くしている訳だ。
そう感じさせるくらい、彼女は柔らかい雰囲気を纏っていた。
彼女の話すところ、全ての話はのろけ話になっている、と言ってもいい。
──しかし、何で僕、初恋の人が話すのろけ話を、真正面から聞いているんだろう……。
ふと、自分が置かれている状況を再確認し、僕は物凄く惨めになる。
いやまあ、ケーキの誘いを断らず、流れに乗った僕が悪いのだが。
それでも、今の僕にとっては、この場所での呼吸は苦行だった。
だが、どれほど話を聞くのが辛いからと言って、いくら何でもあからさまに耳を塞いだり、席を立つことは出来ない。
怪しまれるだろうし、それ以前に百合姉さんに対して失礼である。
これ以上、彼女の前で変なところを見せたくは無かった。
「……あ、あと、ちょっと面白い話があるんですよ、おばさん、聞きます?」
「え、何々?」
「ちょっと、結婚前にあった小さい騒動の話なんですけど……」
僕が俯いている間に、百合姉さんと母さんの話は次の章に移っていた。
当然、この話も僕の耳の中に入ってくる。
年上である僕の母親相手であるため、一応敬語になっているが、「面白い話」という口ぶりからするとあまり堅苦しい内容では無いみたいだ、と何となく考える。
どうやら今度の話は、婚約中の百合姉さんと夫の間で起こった、喧嘩の話のようだった────。
<我妻(旧姓:片原)百合の世間話>
もしかしたらおばさんにはもう話したかもしれませんけど、私たち、今住んでいる新居────結婚を機に新しく借りたマンションに移るまでが、結構ドタバタしたんですよね。
そう、それです。
不動産会社の方のミスで、新居に入る日取りが間違っていた、アレ。
今だから笑い話で済みますけど、当時は本気で驚きましたよ。
だって、不動産会社の言う予定日──結婚式に先駆けて予約したので、丁度結婚式の一ヶ月前くらいでした──に合わせて荷物を送ったら、まだ入れません、って言われたんですから。
何でも、データの記載のミスか何かで、あのマンションに入る予定日が、一ヶ月ずれていたそうです。
それで、新居となる部屋には、前の人がまだ住んでいるから、予定日には入れないって……。
絶句って、ああいうのを言うんでしょうね。
いやあ、まあ、補償とかそう言うのはもう、別に。
向こうの会社から十分に受け取ったから、もう良いんですけど。
いろんな人に、びっくりするぐらい丁寧に謝られましたから。
だから、そっちのゴタゴタに関しては、整理はついたんです。
極端な話、お金の補償はしてもらったから、新居に住むのが一ヶ月遅れるだけですしね。
どうせ結婚式の準備とかで忙しい時期だから、そのくらいの差はそう大きな物ではないでしょうし。
ただ、問題は、その新居に今度こそ移るまでの、一ヶ月間の方で。
要するに、その一か月間どうやって過ごそうか、という点で困っちゃったんですよ。
私の方は、まあ元々実家住まいなので、何とかなったんですけど。
彼が……蓮の方が、もう前の家──彼が借りていたアパート──の方の契約を、既に解約しちゃってたから。
電気もガスも、ちょっと余裕を持って止めていたのに、向こう一ヶ月も引っ越せない、となったんですからね。
契約を解除した以上、元の家には戻れず、だけど新居の方も、前の入居者が立ち去るまでは入れず。
さて、本当に引っ越せるまでの一ヶ月、どうやって暮らそうか、となったんですよ。
どこにも、帰ることのできる場所が無い状況ですから。
本当に最初の二日くらいは、漫画喫茶で過ごしていたらしいんですけど……やっぱり、そう長く滞在するのは難しいでしょう?
かといって、一ヶ月ずっとホテル暮らしをするのも、結構お金がかかるし、そもそも会社に近いホテル自体が少ないし。
しかも運悪く、当時彼の実家は改築中で、彼が戻るのは難しかったんです。
私の実家で一緒に住めばいい、とも提案したんですけど、それは流石に、と言ってましたね。
まあ彼としても、私の両親と一ヶ月一緒に住むというのは、気まずかったんでしょう。
……結局、そうやって二転三転した後、最後は元々住んでいたアパートの大家さんに泣きついて。
何とか、既に解約していた契約を一か月延長してもらって、引っ越し日まで過ごすことになったんです。
本当にあの件では、向こうの大家さんにはお世話になりました。
ただまあ、家の契約はともかく、さっきも言ったように、電気やガス、あとインターネット料金とかも、一緒に解約してましたから。
アパートを借り直せたとしても、それらがすぐに繋がるわけじゃないでしょう?
だから、しばらくは電機会社やガス会社に電話を掛けて、「こういう事情だから、また一ヶ月だけ使用させて欲しい」という話をしてましたね。
ぶっちゃけた話、結婚式の準備より、そっちの再契約の方が疲れた、とか言ってました。
いや、実際酷い状況だったんですよ。
何せ、大家さんに泣きついた直後は、電気もガスも切れたままだったので、カップラーメン一つ作れなかったんですから。
本当に、ただ部屋があるだけ、というか。
お弁当をコンビニで買ってきても、電子レンジが動かないから、温められない。
新しく携帯燃料とか、電源とかを買えば、料理くらいは出来たかもしれませんけど、あと一ヶ月で引っ越しするのに、荷物を増やしたくも無いし……。
結局、私が実家で料理を作って、何度か差し入れに向かうことで、対処したんですけどね。
今から話すのは、そんな風に差し入れに向かった時の、ある日の話です。




