結婚と変化の関係
「……え、えーと」
咄嗟に、途切れ途切れながら、苦し紛れの声を出す。
そうでもしなくては、間が持たない。
だが、続きの言葉は出てこようとしなかった。
口を動かすよりも先に、心臓の動きを元に戻す方に忙しい。
どうにも、舌が回らないのだ。
「あれ?……もしかして、久しぶりだから本当に分からない?」
不思議そうな声が、耳元から響く。
そうではない、と反射的に答えそうになった。
名前が分からないのではなく────名前が分かりすぎることが問題なのだ、と。
ただ、その理屈を彼女に言ったところで、何の意味も無いこともまた、僕は理解していた。
だから、力を振り絞って声を発する。
何とか、この時間を終わらせたくて。
「……り、姉さん」
「え、なになに?やっぱり覚えてる?」
「覚えてるよ……百合姉さん」
そう告げた瞬間、目元を包んでいた暖かい感触が、パッ、と消失した。
同時に、背後の気配も消え、寧ろ僕の前に回り込むようにして、ぴょこん、と小柄な女性の頭部が現れる。
「正解!……久しぶり、永ちゃん」
「ああ、久しぶり、百合姉さん」
今度の言葉は、努力の甲斐あってか、比較的自然に出すことが出来た。
だから、百合姉さんにも、変には思われなかったらしい。
それ故にか、彼女はごく普通に、「久しぶりに会う昔からの知り合いに向ける笑み」としては、百点満点の笑顔を僕に向ける。
……その笑顔が完璧すぎて、僕はまた、呼吸が止まりそうになった。
──結婚式が終わってから、会うのは初めてだけど……あまり変わっていないな。
何かを懐かしむように、「昔から永ちゃんは部屋が綺麗だねー」と言いつつ、きょろきょろと周囲に視線を向ける百合姉さんを見ながら、僕はそんなことを思う。
その思考は、現実逃避と言う意味合いが強いものだったが、実際に、彼女の容姿があまり変化していないのも事実だった。
例えば、結構小柄──まだ十四歳である僕よりも小さい──な背丈。
例えば、社会人だとは思えないくらいの童顔。
例えば、ややウェーブのかかった長い髪。
全て、僕が知る百合姉さんの特徴そのままである。
今も僕の机に飾ってある、僕の中学入学時の写真における彼女の容姿と比べても、殆ど差異が無い。
当然と言えば当然の話だが、結婚したからと言って、そうそう雰囲気や容姿が激変するわけでも無いらしい。
まあ、ただ。
容姿はともかく、装飾品に関して言えば、明確な変化があるわけだが。
それに気が付いた僕は、ある種の予防線として、自分からそこを口にする。
そうしておかないと、情けない話だが、彼女を直視できないような気がしたのだ。
「……その、指輪、綺麗だね」
「え?……あ、これ?」
言われた百合姉さんは、一瞬きょとんとした顔になり、次に自分の左手に視線を向ける。
正確には、彼女の左手の薬指────そこにはめられている結婚指輪を、だ。
彼女は僕の視線に合わせるように手を挙げ、指輪が見えやすいように掲げた。
「あー、ありがとう。でも、永ちゃんはまだ分からないかもだけど、あんまり高い物でもないんだよ、これ」
「へー……」
「だけど、蓮と二人で選んだ物だからね。褒めてくれて、嬉しい」
そう言ってから、百合姉さんは喜びを噛み締めるようにして軽くはにかむ。
蓮、と言うのは彼女の夫の名前だ。
朗らかに彼の名前を呼ぶ彼女の顔を見て、また僕の心臓が嫌な跳ね方をした。
どうしよう。
彼女の幸せに反比例するように、胸が苦しい。
ほんの半年前なら、百合姉さんの笑顔を見るだけで、心臓がドキドキとしたものだが。
今では、彼女の笑顔を見るだけで、心臓が不穏な音を立てる。
どうしようもなく、胸が締め付けられるのだ。
そのことに、気がついているのやらいないのやら。
百合姉さんは少しだけ心配そうな顔をして、質問をしてくる。
「……そう言えば、永ちゃん、何してたの?何か、掃除をしていたみたいだけど、それにしては机に向かっていたし……」
そう言いつつ、彼女は僕の机に視線を向ける。
反射的に、不味い、と思った。
紙が古びていて文字が上手く読めないせいか、あれらが自分の出した手紙であることに、彼女は気がついていないらしい。
だが流石に、直に見れば思い出すだろう。
そうなると必然的に、当時の思い出話をしてくる可能性もある。
──性格的に言わないだろうけど、「正直、書くの面倒くさかったんだよねー」とか言われたら、軽く死ねるな……。
そう考えて、僕はすぐに話題を逸らした。
すなわち、彼女が手紙に言及する前に、大前提のところを聞いておくことにする。
「それよりも、さ」
「はい、何?」
「百合姉さん、どうしてここにいるんだ?土曜日とはいえ……」
彼女が突然現れたことに動転して、未だに彼女がここにいる理由について聞いていなかったことが、この時には幸いした。
問われた百合姉さんはすぐに、「そう言えば」という感じの顔をして、視線を僕の机から僕に戻す。
「ああ、大した理由じゃないの。単純に、実家から持ち出していなかった荷物が残っていたから、休みを利用して取りに来ただけ。それで、どうせお隣なんだから、永ちゃんのお家にも顔を出しておこうと思って」
「それで、僕の部屋に?」
「そう。玄関に行ったら、おばさんが永ちゃんは部屋にいるって言うから、久しぶりに入ってみたくなったの」
その後、机の前に居る僕を見つけ、ついつい悪戯をした、という流れらしい。
何というか、彼女らしい話である。
振り返ってみれば、まあまあ昔から、こういう些細な悪戯を仕掛けられた記憶があった。
「……あ、それとね、一番大事なこと忘れてた」
そこで突然、百合姉さんはハッとした顔をする。
さらに、コホン、とわざとらしく咳ばらいをしてから、ピン、と指を立てた。
「実は、ここに来る前に、手土産としてケーキを買ってきてるの。そろそろおばさんが箱から出している頃だろうから、一緒に食べよう?」
「……ああ、良いね。食べよう」
そう反応すると、百合姉さんは嬉しそうに頷いた。
それから、まるで種明かしをするように、軽く舌を出す。
「実は、実家の方で食べようと思って買ってきたやつなんだよね。だけど、実家で渡すのを忘れちゃったから、もうここで食べちゃおうと思って」
「あー、持って帰るのもアレだから?」
「そうそう。また、ポカをやっちゃったの」
軽く言ってから、彼女は自省するように、顔の笑みを苦笑に変化させた。
この顔もまた、いつか見たことのある物だった。
やや天然ボケが入っている彼女は、しょうもないミスをするたびに、こんな顔をしていたのだ。
──こういうところも、変わっていないな……本当に、指輪以外は何も変わっていない。
相変わらずの百合姉さんの様子を確認しながら、僕はそんな思いに囚われる。
しかし、当然ながら僕のそんな心境は無視され、百合姉さんはくるりと僕に背を向けた。
「じゃあ、リビング行こっか。駅前の有名なところで買ったから、きっと美味しいと思う。永ちゃん、甘い物結構好きだったよね?」
「え、あ、うん……」
今ではバウムクーヘンを代表として、嫌いな甘いものも増えてしまったのだが────まさか、そんな事を百合姉さんの前で言うことも出来ない。
僕は流れで頷き、そのままリビングに向かう彼女についていった。
そして、廊下を歩きながら。
ボーッと、僕はこんなことを考える。
──ケーキ食べるってことは、母さんと世間話がてら、昼になるくらいまではここに居るのか……。
嫌だな、と率直に思った。
今までの会話だけでも、はっきりわかる。
どうにもこのままでは、新婚の彼女が放つ明るい雰囲気に、耐えられそうな感じがしない。
出来れば、彼女と接触する時間は減らしたかった。
それは、僕自身の精神衛生の都合でもあるし。
これ以上、僕が妙な嫉妬やら惨めさやらを感じないで済むようにするための、防衛でもある。
……そこまで考えて、僕は軽く自分で自分を笑う。
自分の思考が、あんまりと言えばあんまりな方向に向かっている事に気が付いたのだ。
──しかし、僕、本当に心が狭くなったな……。
自分で言うのもなんだが、今の僕は相当気持ちが悪い。
未練がましいというか、嫉妬深いというか。
バウムクーヘンを嫌い始めた時から思っていたことだが、ここまで来ると何かの病気レベルである。
最早自分でも、百合姉さん絡みのことでは、思考をコントロール出来ない感じがあった。
どうやら僕の中では、彼女の事は完全にトラウマになってしまっているらしい。
まあ、要するに────。
──平たく言えば、百合姉さんは結婚前から殆ど変わっていないけど、僕は変わっちゃった、ということなんだろうな……。
最後に、そんな事を思って。
いい加減自分が嫌になりながら、僕は廊下を歩いていった。




