手紙と心臓の関係
────最近、たまに思う。
そう言えば僕、めっきり手紙という物を書かなくなったな、と。
突然どうした、と思うかもしれないが、僕にとってこのことは、結構大事なことなのである。
誰かのための手紙を書かなくなった、ということ自体が。
と言うのも、僕は小学校低学年くらいまで、かなり頻繁に手紙を書く習慣があったのだ。
話の始まりは、些細な思い付き。
僕が小学校に通い始め、国語で文字の練習をし始めた頃の話だ。
僕の母親が、教育も兼ねてか、息子に対して一つの遊びを提案したのである。
「永嗣。どうせ文字の練習をするんだったら、誰かにお手紙書いてみたら?ただ同じ文字を書いて練習するよりも、その方が楽しいでしょう?」
幼心に、なるほど、と思った記憶がある。
確かに、ひらがなドリルやらカタカナドリルやらをただ解くよりも、誰かに向けた手紙を書く方が、目的がしっかりしている分楽しい。
そして、一度手紙を書こう、と思ったなら。
誰に出すかは、当の昔に決めていた。
以前も言ったが、当時の僕は、初恋という感情をうっすらと理解し始めた頃である。
何なら、恥もてらいも無く、「僕、お姉ちゃんと結婚するー!」とか放言していた時期だ。
故に、当然というか何というか、その「お手紙」というのは、百合姉さんに向けられたものとなった。
こういう経緯で、小学一年生の僕は、当時高校二年生だった百合姉さんに、毎週のように手紙を送るという、妙な光景を作ることになったのである。
だから、当時の僕にとっては、手紙を書くというのはルーチンワーク染みた習慣で、物凄く身近にある物だった。
それこそ、中学生になって振り返ると、最近手紙書いてないな、と思う程度には、日常だったのだ。
しかし今思うと、百合姉さんに対して毎週手紙を書いていたというのは、微笑ましいというか、こっぱずかしいというか。
何にせよ、「受け取る方は迷惑だっただろうなあ……」という気分になる思い出である。
ただ、生憎とまだ幼い僕は、そういう事情には全く気が付いていなかった。
加えて、百合姉さんは基本的に人間として出来た人だったので、下手くそな字で書かれた僕の手紙を、いつも笑顔で受け取ってくれた。
だから、僕は彼女に手紙を送る行為を、何時まで経ってもやめようとはしなかった。
恐らく、最初の提案者である母としては、手紙を書くと言っても二、三通書けば文字の練習になるだろう、という心づもりだったのだと思うのだが。
その意に反するように、僕は一年近くに渡って、百合姉さんに対して手紙を書き、隣の家を訪れてそれを渡していた。
習ったばかりのひらがなとカタカナが入り混じる、不格好な手紙を。
手紙の内容は、どんな物だったのだろうか?
今となっては、詳しくは覚えていない。
平均して週一回の頻度で書いていたのだから、大体五十通近く書いたはずなのに、一通も内容を覚えていないというのも寂しい話だが、これに関しては言い訳がある。
と言うのは、当時の僕としては、自分の書いた手紙の内容を思い返すよりも────百合姉さんからの返事を読むことの方が、余程重要だったからである。
そう、百合姉さんは月一回くらいの頻度で──つまり、四回の手紙に一回くらいの頻度で──僕の手紙に返信をくれた。
テストや部活など、高校生として中々忙しい時期だっただろうに、返事をしてくれたのである。
それも、小学生である僕が読みやすいよう、全てひらがなで書いた手紙を、だ。
今になって考えると、これは中々凄いことだ。
そもそもにして、僕が百合姉さんに手紙を書いていたのは、単純に文字の練習をしたいというこちら側の事情である。
彼女の方からすると、返信する義理どころか、受け取る義務もない。
しかし、百合姉さんは返事をくれた。
もう高校生になる彼女にとって、ひらがなばかりの手紙と言うのは、逆に書きづらかったと思うのだが、それでも書いてくれた。
流石に、彼女が高校三年生になってしまうと、受験勉強で忙しくなって返信は無くなってしまったが──同時に僕も、手紙を書くのをやめた──その時期に至るまでは、定期的に返事をくれた記憶がある。
そして当然ながら、僕にとってその返事は、それこそ宝物のような存在だった。
何しろ、初恋の人から贈ってもらった手紙である。
値段が付けられるものではない。
だから、その手紙を何度も見返して。
便箋の形がなくなるくらいまで読み返して。
その果てに、自分の書いた手紙の内容を忘れたのだ。
それにしても、こうやって思い返すとより身に染みるのだが、本当に百合姉さんは、優しい人だったと思う。
彼女は結構天然と言うか、ドジな面もある人だったのだが、同時にそれらを覆い隠すほどの、突き抜けた優しさを持つ人だった。
分かりやすく言うならば、子どものやることに対してすら、しっかりと反応を示してくれるという、得難い個性を持つ人だったのである。
この辺りに、僕が百合姉さんを初恋の対象とした理由がある気がする。
……ただ、まあ。
禍福は糾える縄の如しと言うか、人間万事塞翁が馬と言うか。
こうも褒めたたえておいてなんだが、この返信をくれるという行為が、良いことばかりでは無かった、というのもまた、確かだった。
と言うのも────。
「どうしようか、これ……」
レアと初遭遇した日から、少し経った土曜日の午前中。
僕は自分の机の上に「それら」を積み上げながら、呆然とした声を漏らした。
「これ、あの時にもらった手紙たちだよな……見覚えあるし……」
そう言いつつ、僕は適当に、「それら」の中から、一通の手紙を取り出す。
同時に、小さな埃がふわり、と部屋の中を舞った。
そのことに微かに顔をしかめたが、すぐに仕方がない、と諦める。
何せこの手紙たちは、五年以上もの間、僕の部屋の押し入れの中で燻っていたのである。
埃の一つや二つ、付着していて当然だろう。
──と言うか、埃自体はもう部屋全体を舞っているしなあ……。
そう思うと、今度はため息が零れた。
────話の発端は、特に予定も無い土曜日の午前中に、僕が突然、部屋掃除を思い立ったことにある。
何故思い立ったかと言えば、大した理由ではない。
ただ単に、天気も良く予定もなく、暇だしやってみようか、と思っただけだ。
しかし、実際にやってみると、この部屋掃除というのは中々大変だった。
何せここ最近の僕は、失恋のショックで色々なことに手を付けられていなかったので、部屋掃除と言う物も全くやっていない。
記憶を振り返ってみれば、百合姉さんが結婚する事実を伝えられた時から、全くやっていなかった。
掃除機をかけるくらいは、母さんが掃除のついでにしてくれるので、室内が殊更汚いわけではないのだが、それでも「物を捨てる」ということを一切していないので、気づけば部屋の中は雑多な物で溢れていたのである。
自然、僕はその整理に追われることとなった。
そう言う経緯で、要らないプリントやらひょっこり出てきた漫画やらと格闘する事、約二時間。
勢いに乗るようにして押し入れの中まで総ざらいし、ようやく不要な物は捨て終わったかな、と一息入れたところで────最後に見つかったのがこれだったのである。
すなわち、前述した時期に貰った、百合姉さんからの返信。
十二通に渡る、手紙たちだった。
「懐かしいな。どこに行ってたんだろう、と探したことがあったけど……てっきり失くしたと思っていた」
そんなことを呟きながら、僕はしげしげとその手紙を見つめる。
型の崩れた便箋の表面には、「だいすきなえいちゃんへ」と丸まっちい感じの字で書いてあった。
間違いなく、百合姉さんの字である。
「貰ったことが嬉しくて、何度も読み返した記憶があるからな……。その途中で、当時の僕が押し入れに隠したのか」
何度も読み返したせいで、手紙は全てボロボロになってしまっており、放っておくと自然に破れてしまいそうに見えるほどにまで劣化している。
恐らく、この劣化具合を見た当時の僕が、「しばらくは触らずに、どこかで保存しておいた方が良いな」と判断したのだろう。
それで、押し入れの奥の方に安置したのだ。
しかしその事を、少し時間の経過した僕は忘れてしまったのだろう。
それで、後になって「無い、どこだ」と探し回った訳である。
結果として、当時の僕には見つけられず、約六年越しに今の僕が見つけたのだ。
しかし────。
「嫌なタイミングで見つけちゃったなあ、これ……」
思わず、そんなぼやきが口から漏れた。
そうだ、本当に。
僕はこれを、嫌な時期に見つけてしまった。
本音を言えば、この手紙たちは、百合姉さんの結婚を知る前に見つけたかった。
その頃ならば、純粋に思い出の産物として、発見を喜べただろう。
或いは、ずっと見つからなくても良かった。
それはそれで、諦めもついたことだろうから。
しかし現実には、僕はこの時期に────初恋に破れ、結婚式にまで参加し終わった時期に、これを見つけてしまった。
そのせいか、どうにも、今の僕はこの発見を喜べない。
いや、はっきり言ってしまえば、こうやって手紙を見ているだけで、失恋の痛みとか当時の振る舞いとかを思い出してしまい、変な動悸がしてくるくらいである。
──この手紙、今の僕にはバウムクーヘン並みの劇薬になってるな……。
微かに息を呑みながら、僕はそう考える。
同時に、未だに僕自身が、失恋から全く立ち直っていないことを自覚した。
何せ、百合姉さん直筆の手紙を見るだけで、これである。
最近は神代やらレアやら、今まで関わることの無かった人との交流が多かったため、百合姉さんに対して意識を向ける機会も、順調に減っていたつもりだったのだが。
一度思い出してしまうと、これだ。
揺り戻しが大きすぎる。
──しかし、僕の心の痛みはまあいいとして……慣れてるし。それはそれとして、どうしようか、この手紙。
気を紛らわせるようにして、僕はそちらに意識を向ける。
このままだと、また結婚式直後のような精神状態に舞い戻りかねない。
何か、他に考える対象が必要だったのだ。
だから、僕はとりあえず、この手紙たちの今後について思考する。
実際問題、結構これは結構悩ましいところだった。
──もうこの手紙たちを、改めて見ることはあり得ないから、捨てても良いんだろうけど……何か、捨てにくいな。こういう手紙って。
うーん、と僕は腕を組んで一人、部屋の真ん中で唸ってみる。
肉筆の手紙、という物を受け取ったことのある人にとっては良く分かる話だと思うのだが、こういう物は、結構捨てにくい。
何というか、捨ててしまうと送り主に不義理なような気がして、どうにも雑に扱えないのである。
しかし、置いておく理由が無いのも確かだった。
と言うか、あまりにこう言う物を部屋の中に置いておくと、いよいよ心臓の調子が悪くなる気もする。
初恋相手の手紙を目撃して心臓発作を起こすなど、笑うに笑えない。
「……まあ、ちょっと掃除を休んで考えるか」
考えすぎて頭がオーバーヒートしかけた僕は、そう言ってはあ、と息を吐いた。
何か、この数分で一気に疲れた。
ちょっとくらい休んだ方が、身体に良いだろう。
そんな事を、真剣に考えていたからだろうか。
僕はこの時、背後から近づいてくる影に対して、気がついていなかった。
故に、僕の主観としては、本当に、とても唐突に。
全ての視界が、一瞬にして真っ暗になった。
──え?
何が起こったか分からず、僕の脳内が瞬時に疑問符で満たされる。
強いてわかることと言えば、僕の顔を包むようにして、何者かの両掌が覆いかぶさっている、ということだけだった。
そして、そんな僕の耳元で。
聞き慣れた声が、すっと囁く。
「永ちゃん……だーれだ?」
……一秒もかからず、僕はその正体を看破した。
同時に、僕の心臓が、嫌な跳ね方をした。




