推理小説とイメージの関係
「遠い目をしないで、桜井君。彼女、昨日からずっとこんな調子なのよ。しかも、ちょっと、日本に対して変なイメージを持っているみたいだし……」
目を輝かせるレアとは対照的に、神代は頭痛をこらえるようにして額に手を添える。
小さな仕草だったが、同時にそれ一つで今までの彼女の苦労が滲み出るような、生々しい動作だった。
恐らく、レアが彼女の家にやって来て以来、万事この調子だったのだろう。
多少神代に対して同情を覚えるが、それに反抗するように、レアはむくれた顔をした。
「……むー。変な、ではありません、マコト。私、日本について、ちゃんと推理小説を通して勉強しました」
「推理小説を通して……?」
物凄いワードが飛び出し、思わず僕は突っ込みを入れる。
すると、レアはパッと表情を明るくさせたかと思うと、ハイ、と返事をし、さらに胸を軽く張った。
「私、推理小説を通して、日本の環境について知りました。今では、バッチリです」
「……因みに、どんな国だと勉強したんだ?」
微かに、嫌な予感がする。
だからこその問いかけだったが、レアは何でもないことのように返答した。
「確か……殺人事件とか、誘拐とか、そう言うのが一杯起きてる国だけど、たくさんいる名探偵によって解決されている国、なんですよね?推理小説に出てくる日本は、そういう国でした!」
「全然違うんだけど……何度説明しても聞かないのよ」
中々凄いことを、常識のようにレアは語る。
その隣では、再び、神代が頭が痛い、と言いたげな顔をした。
それを前にして、僕はハハハ、と軽く笑うしか出来ない。
──「日本に来た外国人が、未だに忍者や侍が居ると信じていた」みたいなのは、よくあるジョークだけど……その上を行ったな、これ。
まあ確かに、和製ミステリが数多く存在する以上、日本を舞台にした推理小説はたくさんあるわけだし、海外のファンだっているのだろうが。
まさか、推理小説を通して日本について誤解をする外国人がいるとは思わなかった。
しかも話を聞く限り、日本の治安を疑われるレベルでの誤解をしているようだった。
「……ちょっと待て。この誤解をして尚、日本にやってきたということは、まさか、彼女が交換留学をしに来たのは……」
「名探偵に会うため、だそうよ。日本に来る前から、楽しみにしていたって」
ふと思いつくままに聞いてみると、かなり疲れた声で返事がもたらされる。
さらに、その言葉の後、神代はこちらに向けて軽く頭を下げた。
「それで、昨日から『マコトは誰か、名探偵の知り合いは居ませんか?』ってずっと聞くから……貴方の名前を出しちゃったの。後、音楽室の一件の話もした……ごめんなさい」
「いや、それはいいけど……」
一応、レアが求めるレベルに達しているかどうかは知らないが、神代に言われるまま、ここ最近の僕が探偵のようなことをやったのは事実である。
事実を事実として語られている以上、文句を言うことは特に無い。
ただ────探偵好きなレアにとっては、あの「第一の謎」も、ただの日常生活の一ページ、とはいかなかったようで。
彼女は僕と神代の会話が終わるのを待って、グッと身を乗り出してきた。
「だって、本当に凄いです、エイジ!私、マコトからその話を聞いても、全く真相が分かりませんでした。だけど、エイジはあの謎を、一日で解いてしまったんでしょう?」
「あ、ああ、まあ……」
「それを聞いて、やっぱり、日本って名探偵がいるんだ、と思ったんです。私の、小さいころからの夢が叶いました……会いたかったー!」
そう言うや否や、彼女が机の上に置いていた僕の両手をガッ、と掴み、そのまま上下にぶんぶんと振る。
どうやら、あらん限りの喜びを表現しているらしかった。
そして、僕の両掌を包むようにしながら、それを自分の口元に引き寄せる。
「私、もっと、探偵のエイジの事、知りたいです。留学期間はたった一ヶ月しかありませんけど……仲良く、なってくれますか?」
そう言ったまま、レアは上目遣いをするようにして、こちらの方を見つめてきた。
彼女の動きは非常に洗練されており、自分自身の可愛さを自覚した上での行動だ、とすぐに察しが付く。
そのくらい、彼女の動きは隙が無く────しかし実際、その容姿も相まって、かなりの破壊力を有していた。
となると、まあ。
健全な中学生男子として、当然ながら。
……気が付いた時には、僕は首を縦に振ってしまっていた。
どことなく、神代が呆れたような目線を僕に向け、同時にレアは嬉しそうな顔をして確認を取る。
「ええと……そのジェスチャーは、日本では了承、の意味ですね?」
「あ、うん。そうだよ」
「……やった!ありがとうございます、エイジ!」
そう言った瞬間、一瞬、レアの輪郭がブレた。
いや、正確に言おうか。
彼女は、僕の返事を聞いた瞬間、突然飛び掛かるようにして抱き着いて来たのだった────。
「何というか、竜巻みたいな子だな……」
「ええ、本当に」
何とか、抱き枕にしがみつくようにして僕にハグをするレアを引っぺがしてから、十分後。
流石に疲れたのか、「ちょっと喉が渇いたので、飲み物を買ってきますね、場所はさっき教えてもらったので」と言って教室を出たレアを見送り、僕と神代は教室に残っていた。
自然、レアに関する話題を二人ですることになる。
「……さっきも言ってたけど、昨日から、あんな感じだったのか?」
「ええ。どうも、日本発祥の推理漫画が凄く好きらしくて──フランスでは漫画が結構広まっているらしいの──、そこから推理小説を読みだした、という流れらしいわ。それで、日本に興味を持った、とも言っていたわね」
そう説明した後、神代はとある人気推理漫画の名前を挙げた。
僕も読んだことがある、超人気タイトルである。
もう連載は終わってしまったが、映画化もしており、未だに根強いファンがついている作品だった。
──まあただ、あの作品を基準に考えると、確かに殺人事件ばっかり起きている、というイメージにもなるのか……?それにしても、極端な勘違いだけど。
件の作品のことを思い返しながら、僕はそんなことを思う。
あの作品は、長期連載だっただけのことはあり、物凄い数の殺人事件を主人公が解決していた。
設定上は、一話から最終話までで一年くらいしか経過していないのに、千件以上は事件が起こっていたのではないだろうか。
さらに映画版に至っては、タイアップの都合もあってか、話の規模が大きいものになっており、基本的に日本中のありとあらゆる観光名所が一度は爆破されているような感じだった記憶がある。
そんな、「現実で発生したら、向こう一週間は全国紙の一面確実」な事件がガンガン起こっている作品世界を見た結果、レアは妙な誤解をしたらしい。
「だけど、桜井君、本当に良かったの?もし、何か我慢して彼女の要請を受け入れたのなら、ちゃんと断った方が良いと思うけど……。どうしても彼女がいる一ヶ月、自由な時間は減ってしまうと思うし」
不意に、神代が僕のことを心配するようにして視線を向けてくる。
その表情からは、「レアのエネルギーに負けて、無理をしているのではないか」という思いが透けて見えた。
──レアの興味を逸らすために、名前を出したことをまだ気にしているのか?
神代の心情を察して、僕は軽く驚く。
以前も思ったことが、相変わらず妙なところで律儀な人だ。
だから、その心配を否定するべく、僕は掌をヒラヒラと振った。
「いや、大丈夫だよ。元々帰宅部で暇な時間は多いし……それに、あれだけ真剣にこっちの言葉について色々と勉強している子の願いを、放っておくのも何かアレだしさ」
「そうね……凄く、綺麗な日本語だったわね、彼女」
僕が言わんとすることを察したのか、神代が思い返すような面持ちをする。
恐らく、レアの話す日本語を思い出したのだろう。
実際、レアの話す日本語の滑らかさは、瞠目に値する。
勿論、細かいところまで言えば、発音や助詞の有無などで間違いはあるし、単語が出てこない瞬間もあるようだったが、それでもあれだけ話せる語学力は十分に敬意を払うべきものだった。
しかも、彼女はまだ、僕たちと同じ十四歳──交換留学では同年代の学生が来る──だというのだから、恐れ入る。
例えば、僕が今この瞬間、フランスについて強い興味を持ち、フランス語を必死に勉強したとしても────フランス人と流暢に会話できるレベルに達するのは、何年も先だろう。
そのくらい、言語と言うのは難しい。
だからこそ、僕たち相手に普通に話していた、という時点で、レアの努力の凄さが分かるのだ。
まあ、その結果日本について変なイメージは持ったようだが、逆に言えば、そのくらい日本の推理作品についても好きになってくれている訳である。
その感情を、そうそう無下にしたくない、という思いはあった。
尤も、僕が彼女の求める「探偵」のレベルに達しているかどうかは知らないが。
……このようにして、ここからの一ヶ月間、僕と神代の日常に、レアが参加することになった。
これにより、僕も神代も、大きく振り回されることになるのだが────それが分かるのは、ここからもう少し経過してからの話。
近いところで言えば、「第三の謎」に、三人で関わってからだった。
生憎と、この時の僕たちは──謎を提示する神代すらも──そのことを知らなかったが。




