僕とバウムクーヘンの関係
突然だが僕は────地方に住むごく普通の中学二年生である、桜井永嗣は、バウムクーヘンが嫌いだ。
それはもうどうしようもないくらいに嫌いだ。
ここで僕が言う「嫌い」というのは、見るのが嫌とかそう言うレベルでない。
僕は本当に、心の底から、この世界に「バウムクーヘン」という概念が存在すること自体が嫌なのだ。
何せ、僕がバウムクーヘンを見るとアレルギーのような症状が出る。
呼吸がおかしくなり、目が潤む。
同時に自分でも制御できないくらい、ハラハラと涙がこぼれるのだ。
最早、病的と言ってもいい。
この話を聞いた人は、僕の正気を疑うかもしれない。
何だ、どうしたんだ。
コイツはバウムクーヘンに親でも殺されたのかと。
だがその認識は間違いだ。
そんな奇特な過去は持ってない。
両親は普通に健在だし、バウムクーヘンの事だって昨日までは嫌いじゃなかった。
僕がバウムクーヘンを嫌いになったのは、つい最近。
より具体的に言えば、今日の午後二時くらいの話である。
さらに具体的に言うならば────バウムクーヘンを嫌いになったのは、近所に住む、初恋のお姉さんの結婚式から帰ってきた、今日の午後のことだ。
その結婚式の参加者に配られる引き出物と言うか、土産品がバウムクーヘンだったのである。
「はああああ……」
十月八日、午後二時十五分。
自宅に帰ってから、僕は自室の机に頭を押し付けてぐりぐりと机上で頭を動かした。
無論、痛い。
額がそこそこにダメージを受けているし、まあまあ首もきつかった。
だが、今はそれでよかった。
このくらいの外的な痛みくらいがないと、心の痛みが止まりそうになかったからだ。
「百合姉さん……結婚しちゃったなあ……」
無意識に声を漏らす。
自分でも嫌になるくらい情けない声だった。
僕の十四年の人生の中でも、絶対に録音したくない音声である。
しかし、この声が漏れることばかりはどうしようもない。
初恋の人が明確に届かない場所に行ってしまった、という悲しみ。
それは、元から大して根性も無い僕を情けない男に変えるには十分だった。
「百合姉さん……ずっと好きだった……本当に」
また物凄い涙声が零れる。
同時に僕は顔を上げ、机に端に置いてある写真立てを見つめた。
飾ってあるのは一年半ほど前、僕が中学に入学した時に撮影した記念写真。
中央に映っているのが、ぶかぶかの制服に身を包んだ僕。
その傍に映るのは僕を取り巻く両親と、傍らで優しく微笑む二十代の女性の姿だった。
この女性こそ僕の初恋の人。
家が隣同士ということで前々から親しくしていた、片原百合と言う近所のお姉さんである。
僕と百合姉さんの付き合いは、僕の記憶が無い頃から始まっているらしい。
初対面は、僕が赤ん坊だった頃の話だ。
恐らく始まりは純粋に、ご近所づきあいだったのだろう。
互いの両親の家がたまたま隣な上に仲が結構良かったので、僕の両親が生まれたばかりの我が子を隣の家族に見せに行ったという、よくある話。
そこで当時生後一ヶ月とかだった僕と、もう十歳になっていた百合姉さんは初邂逅を果たした。
そんな具合だから、僕は百合姉さんと初めて出会った時の思い出と言う物が存在しない。
僕の主観としては、気が付いた時には傍に居る人だった。
家族と同様に、一緒に居るのが当たり前の存在というか。
遊びに行ったらいつも笑顔で遊んでくれて。
バレンタインになったらいつも義理チョコをくれて。
ある程度大きくなると玩具も買い与えてくれる。
幼稚園くらいまで、或いは小学校低学年くらいまでなら、懇願すれば抱きしめてくれるような。
そんな今思えば中々ベタベタな「近所のお姉さん」こそ、僕にとっての百合姉さんだった。
自分を甘やかしてくれる存在のことを、すぐに好きになるのが子どもという生き物だ。
僕もその例外ではなく────気が付いた時には、僕はコロッと彼女相手に恋をしていた。
幼児特有の幼い恋心だが、同時に僕の初恋でもあった。
恥や対面と言う物を知らない幼児の頃は「大きくなったら百合姉さんと結婚するー!」とか、「百合姉さん大好きー!」と何度も公言していたらしい。
冷静に考えれば、彼女の方が年齢的に十歳も上なのだから相手にされないのはまず間違いないのだが、それでも言い続けていた。
その様子が可愛らしく、両親含めて周りの大人たちはいつも面白がっていたとか何とか。
まあ確かに、子どもにはよくありそうな話だ。
ちょっと時間が経つと、あっさりとそんな感情を忘れてしまうことまで含めてよくある話なのかもしれない。
しかし僕の初恋は、そう言ったよくある感情とは少々違った面があった。
僕の場合、それなりに大きくなろうがその想いを全く忘れなかったのである。
僕は今十四歳だが、物心つくころから今に至るまで。
本当に一切の嘘無く、百合姉さんが好きなままだった。
自分でもちょっとびっくりするくらい、この初恋は長く続いたのだ。
何というか、桜井永嗣という人間はかなり純情な性質らしい。
或いは執念深いのか。
無論そうは言っても、十歳を超える頃には流石にそんな思いは公言しないようになっていた。
寧ろ恥ずかしがって、百合姉さんとの会話自体はそこそこに減っていた。
だがこの初恋は、一切消えることが無かった。
小学生の頃も、中学生になってからも。
他のことに目移りすることもなく、僕は百合姉さんが好きな状態を維持し続けたのである。
「本当に……ここで想いを折られなかったら、高校生になっても好きなままだったかもなあ」
机に顔を突っ伏したまま、僕はそんなことを呟く。
我ながら一途と言うか、ストーカー染みていて怖いと思うのだが、中々正確な予測だと思った。
そのくらい彼女への初恋と言う物は、僕の人生の根幹をなすような想いだったのである。
ただし、最初に述べたように。
その想いは今日を持って終わりを告げた。
それも失恋したとか、振られたとかいう次元ではなく────相手が普通に結婚したために。
この上なくはっきりと、きれいさっぱり終わったのだ。
百合姉さんが勤めている会社の同僚と結婚する予定だという話を聞いたのは、確か三か月前のことだった。
学校から帰った時、僕の母親から世間話の一環として聞いたのである。
その言葉を聞いた時、冗談でもなんでもなく視界が真っ暗になったことを覚えている。
本気で、僕はこの一瞬で失明したのかとすら思った。
母親が何かしら言っていたが、それも全て耳に入らない。
そのくらい大きなショックだった。
考えてみれば当たり前のことではあった。
いくら仲が良くても、それは単純に家が隣だから。
それ以上の理由は無く、向こうからすると年下の知り合いに普通に遊んであげていただけ。
僕にとって百合姉さんが初恋の人であったとしても、彼女からすれば僕のことは知り合いその一くらいの立ち位置だろう。
何なら知り合いその五十三くらいの、人間関係図で言えば端っこに位置する存在だったかもしれない。
薄々気がついてはいた。
だから百合姉さんが就職先で普通に恋人を見つけるというのは、ごく当然の話で。
その恋人と上手い具合に結婚することになったこともまた当然の話────非常にめでたい話だった。
誰が悪いわけでも無い。
ごく普通の自然の摂理である。
十歳年上の「近所のお姉さん」に抱いた男の子の初恋が叶わない、というのは。
強いて悪い人間を挙げるなら、それは僕だろう。
変なところで意地を張って「流石に中学生だと相手にされないだろうから、高校生になってから告白しよう」とか、「あまり会いに行っても迷惑だろうから、顔を合わすタイミングは絞ろう」とか、今考えれば羞恥心でどうにかなってしまいそうな皮算用をしていた僕が、どう考えても一番悪く一番痛々しい。
今振り返っても、悲しいまでの独り相撲だ。
乾いた笑いすら出てこない。
それでもこんな冷静な分析ができるのは、あくまでその事実を知ってから三か月経ったからであって。
話を聞いた直後は冷静ではいられなかった。
端的に言えば、ショックのあまり呆然自失していた記憶がある。
話を聞いた直後どころか、そこから実際に結婚式に行くまでの三か月間、僕は呆然としていた。
ずーっと、呆けていたような気がする。
そんな僕がようやく現実を認め、「ああ、百合姉さんは結婚したんだ、僕の初恋は終わったんだ」と理解したのが今日の昼。
予定通りに開催された結婚式に参加し、土産のバウムクーヘンを受け取った冒頭の場面だった。
用事があるとか何とか嘘を言って、披露宴の類に参加せずに一人で帰ってきたのは、初恋に敗れた少年の最後の意地である。
「何かもう、結婚式に関する全てのことが嫌というか……土産のバウムクーヘンまで憎らしく見えてくる……重症だな」
机から顔を上げ、土産のバウムクーヘンをそこに置く。
食欲など一切なかったが、そのバウムクーヘンはよほど良い物なのか、包装されても甘い匂いを零しているのが分かった。
その香りすら今の僕にはキツイ。
バウムクーヘンにすら馬鹿にされているような気分になるのだ。
その香りを通じて、「やーい、初恋の相手に告白もせずに振られたヘタレ中学生―!」と罵倒されているような気がした。
「いや、流石に被害妄想が強すぎるな……休むか」
立ち上がった意味もなく、僕はベッドにボスンと転がる。
そうするともう、二度と立ち上がる気力は湧かなかった。
何も考えたくない。
僕のことを笑いたければ、是非笑ってほしい。
失恋した中学生のリアルなどこんなものだ。
痛々しく、痒く、恥ずかしく、うっかり見てしまった人が共感性羞恥でヤバくなる。
初恋に敗れる瞬間なんて、誰しもがそんなものだろう。
「あー……僕、明日からどうやって生きていけばいいんだろう……」
大げさにも、最後に僕はそんな言葉を漏らす。
バウムクーヘンが傷む前に食べたらいいんじゃないか、と脳の冷静な部分が忠告した気がしたが、無視した。