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その先に見えるもの

作者: 所滝高

四月に入社した食品会社にも慣れ始め半年が過ぎようとしていた。グラデーションの様に移り変わる日本の四季はなくなりつつあるのか、先週まで半袖のTシャツを着ていたはずなのに気が付けばコートを羽織らなければ肌寒い季節となっていた。


西新宿にある会社からは乗り換えなしの一本で行けることから、大学卒業後も中央線沿線に住む事は必然的でもあった。大学時代から慣れ親しんでいたこともあり、大学の寮からは徒歩10分、駅からは徒歩5分程の距離にあるマンションを借り4月から拳心は独り暮らしを始めていた。

最寄り駅周辺は高校や大学も多く、自炊をしない上に大食漢の拳心にとっては通常でも大盛りとなる量を提供する飲食店が多かった為、好都合でもあった。



9歳の時、近所に住む幼馴染みの清に一人では心許ないと言う理由で誘われた少年野球。中学時代には、川口にある実家から片道一時間ほどかかる東京のリトルシニアチームに入り、中学3年時には全国準優勝。高校も複数の甲子園常連校からの誘いがあり、最終的に四国にある全寮制の強豪校へ野球での進学を決めていた。

選んだ理由も、日本球界からメジャーリーグへ移籍。メジャーリーグで2年連続二桁勝利をしていた投手の出身校であったからでもあり、その投手がメディアで恩師と慕い尊敬する監督に教えを承けたかったからでもある。

高校2年の夏にはエースとなり、四国秋季大会を優勝し春の選抜に出場。春の選抜準決勝では、プロ注目の超高校級投手との投手戦と騒がれ注目を集めたがベスト4止まり。三年生最後の夏の甲子園にも出場したが、呆気ないまでに2回戦で敗退している。

小学生時代からバッテリーを組んでいた清はと言うと、超高校級スラッガーとして注目を浴びドラフトで在京球団に入団。プロからの誘いがなかった拳心は、東都大学リーグ1部に所属する東京の大学からの誘いがあり進学。MAX151キロの速球に、身長185cmから振り下ろすフォークボールを武器に、大学時代はクローザーとして活躍していた。

大学最後の試合も終わり、10月のドラフト候補にも名が上がっていた拳心は、大学のエースでプロ即戦力投手として期待されている左腕と共に、複数のカメラが置かれる大学の一室で報告を待った。

左腕のエースは北海道の球団から1位指名を承けたが、拳心の名は最後まで呼ばれる事はなかった。

複数の社会人野球チームからの誘いもあったが、拳心の心の中では答えは決まっていた。10月のドラフトで自身の名が呼ばれなければ、きっぱり野球を辞めよう。そう思っていたのだ。

しかし、いざその状況に立たされると迷いが出ていた。ドラフト後、気分転換にと国内旅行の誘いをうけていた事もあり、1週間ほど旅を楽しむと、吹っ切れた拳心は大学の先輩も就職した食品会社への就職を決めていた。



高校時代は全寮制、大学時代は大学内にある寮に入寮し全て寮で食事を済ませていた拳心は、高校、大学共にラーメン丼の器に山盛りになるほどのご飯を盛り、その丼をおかわりをする位の大食漢を見せていたが、高校時代から寮生活をしていたこともあり自炊とは無縁であった。


ある日、テレビのバラエティ番組で若い女性が米を磨ぐ場面が放送されていた。その若い女性が洗剤を入れて米を磨いでいるシーンを目の当たりにすると、それを観たテレビの中に居るひな壇に座るタレント全員が大笑い。拳心は、その若い女性が洗剤で米を磨ぐ姿の何処が可笑しいのか。それすら判らないほど炊事に対し疎かった。

朝は、早くから開く最寄り駅前の定食屋。昼は、会社が入るビルテナントの洋食屋。入社して半年が過ぎ、気がつけば何も言わなくても店の人がライスを山盛りに持ってくれていた。ゆえに、生まれてこの方、自炊と言うものをしたことがなかったのである。



寒さとともに訪れるこの忙しなさは何処から来るのだろう。そんなことを思っていたら、気がつけば師走もすぐそこに押し迫っていた。


今日の夕食はメディアに取り上げられた事で混み合っていた為、暫くほとぼりが冷めるのを待ってから食べに行こうと思っていたデカ盛りで有名な洋食店と決めていた。


『マシマシラーメン本日開店で~す』


『本日より三日間、ワンコインの500円で提供させて頂きま~す』


駅の改札を出ると、エプロン姿に赤いバンダナを髪がスッポリ隠れる様に覆い、頭巾の様にして被る30前後位の女性がチラシを配っていた。

チラシを貰い見てみると、野菜がこれでもかという位に富士山の様に盛られたラーメンが載っている。高校時代からラーメン丼で山盛りになるほどご飯を盛って食べる事が日常となっている拳心にとっては、さほど驚く量ではなかった。


『よしっ、予定変更』


エプロン姿の女性にお店の場所を確認すると、西口との事だった。拳心が住むのは東口、反対方向の出口になる。

アーケードとなった商店街を入り、婦人服店を左に入ったすぐとの事だった。

西口はラーメン店が多くプチ激戦区となっており、拳心も何度か訪れている店も多かったが店が入れ替わる代謝も早かった。西口を出て真っ直ぐ商店街を歩くと、30mほど歩いた左手に婦人服店をすぐに確認出来た。そこを曲がると、既に行列が出来ていた。飲み屋の看板などが立ち並ぶ一画に2~30人ほどだろうか。迷ったが、既に口がラーメンを欲していたので並ぶことにした。


『ハイッ、ワンツー』


『パンパンッ、パンパンッ』


思わずラーメン店の斜め向かい側に視線を向けた。


『こんな所にボクシングジムなんかあったのか』


西口はアーケードの商店街沿いにある飲食店を制覇することを目標としていたのと、横路に入ってもスナックや居酒屋などの飲み屋しかないと思っていたので、ラーメン屋もボクシングジムも予想外だった。


ガラス張りのジム正面。手前にリングがあり、リング内に居るのはプロ選手だろうか。小気味よく動きながらシャドーボクシングをしている。

リング内には、顔の半分が髭で覆われ、髪はチリチリとした髪質で白髪交じり、アフロヘアーに近い髪型をした50代位のトレーナーらしき人間が立っていた。野球のミットの様なものを嵌めており、腕辺りの体毛にも視線がいく。髪の毛同様に腕の毛も濃く毛むくじゃらだった。


『ハイッ、ワンツー』


選手が打ち終わると、サイドからミットで選手のこめかみ部分をミットで叩く。


『こらー、避けなきゃダメだろ~』


選手は、苦笑いと言うよりもニヤニヤとした表情をしていた。


『笑ってる場合じゃないだろ~』


『お前、2試合連続でKO負けしてるんだから、これ以上パンチ貰うと馬鹿になっちゃうぞ~』


なんだか、お笑いのコントを見せられているようでもあった。どことなく緊張感がなくユルさを感じる。それと、毎回、語尾が微妙に上がる口調がそれを更に助長させていた。しかし、その毛むくじゃらのトレーナーらしき人間の表情を見ると至って真面目。その口調と表情とのギャップがなんとも可笑しくて、ラーメン店に並びながらジムの様子を拳心はずっと眺めていた。

リングの奥には鏡があり、もう一人30代位の若いトレーナーが就きっきりで小学生か中学生か判断がつかない坊主頭にした細身で色白の男の子を見ている。

ボクシングを始めたばかりなのだろうか。先ほどから、左の拳を前へ突き出す動作をしきりに繰り返していた。


『ほら圭介、また打ち終わりにガードが下がってる』


『打ち終わりは元の位置に戻せって言ってるだろう』


ジム左側にはサンドバッグが三本吊されている。もう30分ほど経つだろうか。髪の毛が真っ白で60代後半位の男性が、汗をタラタラと流しながら黙々とサンドバッグを叩き続けていた。

改めてラーメン店側からガラス張りのジム内を見ると、元はスナックか居酒屋だったのだろうか、随分と縦長で奥行きがあり、辺鄙なジムの造りである事に気付く。


ボクシングジムと言うと殺気立った雰囲気を想像していたが、それとは程遠い雰囲気のボクシングジムもあるのか。そんな事を考えながら眺めていたら、2~30人ほどあった並びもなくなり、あっという間に店内へ。

拳心は、野菜が山盛りとなったラーメンを10分と掛からず完食。そのまま、帰宅しようかと思ったが、なんとなくボクシングジムが気になり暫く外で見学することにした。


ベルが鳴るとみな手が止まる。そして、またベルが鳴ると動きだす。その繰り返しだった。暫くしてベルが鳴り休憩に入ると、鏡越しにガラス張りの外に立つ拳心の巨体に気付いた毛むくじゃらのトレーナーが、くるりと身体を反転させ近づいてきた。


『お兄さん見学なの、入ってきなよ~』


『えっ、あっ、いやっ』


拳心は、まさか声を掛けて来るとは想像もしていなかったので口籠もってしまった。


『ラーメン屋さんに負けてらんないからね~、今なら入会金無料だよ~、ガハハハ』


最後の『ガハハハ』と笑う笑い方に、ボクシングジムなのにラーメン屋への謎の対抗心。こう言う癖のある人間が苦手な拳心にとっては、雰囲気になんとも耐え切れず何も言わずそそくさと帰宅した。

しかし翌日には、またマシマシラーメンを食べたい欲望に駆られ、駅を降りると再びボクシングジム斜め向かいにあるラーメン店の行列に並んだ。すると、何処からともなく微妙に語尾が上がる口調が聞こえてくる。


『お兄さ~ん、お兄さ~ん』


最初は、拳心の事を呼んでいるとは思わず静観していた。再びその声が聞こえ、漸く自分の事を呼んでいる事に気付く。


『そこの身体の大きなお兄さ~ん』


ラーメン店の並びの前後を見ても身長185cmある拳心の頭が一つ出ている事で、並び客の視線が一気に拳心に向けられた。


『食べ終わったら、ウチに寄ってってね~』


ベルが鳴り終わり休憩に入ると、毛むくじゃらトレーナーの視線が熱く突き刺さる。このまま帰ろうかとも思ったが、胃袋を満たすマシマシラーメンの美味さの欲望にはかなわず並び続けた。結局、昨日同様に10分と掛からず平らげた拳心は、店を出る時には素知らぬ振りをしながらジムの前を小走りで去った。


ワンコインの開店サービス期間も今日で終了となるマシマシラーメン開店3日目。性懲りもなく拳心は行列に並んだ。案の定、並びも真ん中辺りに差し掛かった頃、ボクシングジムの真向かいに来た所で熱い視線を感じる。恐る恐る視線をボクシングジムの方へと向けると、ニッと、満面の笑みを浮かべた毛むくじゃらトレーナーと目が合う。


『どうしたの~昨日は~』


マシマシラーメンの欲望には勝てず、拳心は素知らぬふりをしてやり過ごした。前日、前々日同様に10分とかからずマシマシラーメンをたいらげ店を出ようとすると、満面の笑みを浮かべた毛むくじゃらトレーナーが店の前で待ち受けていた。観念するしかなかった。

仕方なくジム内を暫く見学すると、事務所に通された拳心は事務所内の椅子に座らされ注意事項が書かれた紙を渡され読むように言われた。読んでいる間、毛むくじゃらのトレーナーがこのジムの会長であることを知る。


『私は、南風原竜二(はえばらりゅうじ)ね。このジムの会長』


『鏡の前で教えているのが、友利』


マシマシラーメンに並んでいる間、“南風原ボクシングジム”の文字は視野に入っていたが、全く見当違いの読み方であった事に気付く。


『みなみかぜはら?いやっ、なんぷうはら?かなっ』


ずっと気にはなってはいたが、まさか入会するとは思っていなかったので知る必要もないと思い敢えて気にせずにいた。だが、正解を知らされ何故かスッキリした。


『お兄さんスポーツ経験は?』


拳心が答えようとした瞬間


『あっ、待って当てるから』


10秒ほど、髭を触りながら考えた会長は


『ん~、相撲っ』


『それって、俺の見た目で答えましたよね』


拳心の言葉を無視するように再び髭を触りながらひと言。


『ん~、柔道か』


『違います』


『ん~、分からんな~』


『じゃあ、答え言ってもいいですか。野球です』


髭を触りながら一瞬悔しいそうな表情を見せた会長だったが、それも一瞬だけだった。注意事項や入会用の用紙を手渡す時には何もなかったような表情を見せた。


『それに、住所と名前とハンコ押して明日持ってきてね~』


そう言うと、事務所の椅子に座りながら満面の笑みを浮かべ、右手を左右に振りながら拳心を送り出してくれた。

翌日には、鏡の前で坊主頭の男の子と共に構えながら頻りに左拳を前へ突き出す動作から教わり始めた。



ボクシングジム入門から半年が過ぎようとしていた。ジャブ、ストレート、フック、アッパー。一通りのパンチも教わり、ひたすら鏡の前でシャドーボクシング。それが終わると、サンドバッグを叩き続ける。

特に、サンドバッグを思い切り叩く作業は飛び切り気持ちが良かった。最初は、5ラウンド叩くだけで息が続かなくなっていたが、半年が過ぎた頃には10ラウンド叩く事も苦ではなくなっていった。

ある日、毎日ひたすらサンドバッグを叩いている白髪の60代後半位の男性が、何時になく疲労困憊の表情を見せ、ベルが鳴りやみ休憩に入ると拳心に近づいてきた。


『ふぅ~、にっ兄ちゃんやるなっ!』


声にならない疲労感いっぱいの声で拳心に言うと、その白髪の男性はシャワーも浴びず帰ってしまっていた。すると、友利トレーナーがニヤニヤとしながら近づいてきた。


『あのお爺ちゃん、オヤジボクシングの60代部門チャンピオンなんだよ』


『プロ選手じゃないお前には負けられないと思って張り合ってたんだよ。お前が何時までもサンドバッグを叩くのを辞めないから、限界で自分から折れてギブアップしたんだろうなあ』


一昨年のドラフト以降、運動らしい運動をせず1年で20kg以上も増加。大学まで身長185cmで75kg前後がベスト体重であったが、1年で20kg以上増加し三桁の大台も間近だった。そんな時に半強制、そして、半ばダイエット目的も兼ねたボクシングジムに通い始め、それ以前の増加スピードも速かったが減量スピードも速かった。幼い頃から十数年野球を続け、元々身体を動かすのが得意だった拳心。半年が過ぎ、既に体重も10kg以上の減量に成功し80kg前半の体重となっていた。

どうりで身体が軽く動きやすかったはずである。拳心自身、プロ野球も視野に入れていたほどの元アスリート。体力が回復し始めると、ダイエット目的とは言え気がつけばプロ選手顔負けの凄まじい練習量を毎日こなしていた。



『けんし~ん』


会長はいつの間にか俺の名前を下の名前で呼ぶようになっていた。何時ものようにサンドバッグを叩いていると、ミットを嵌めた会長がリング内で待っている。


『は~い、そのままリングの中に入ってこ~い』


会長に言われるがまま、ジャブ、ストレート、フック、アッパー。ミット目掛けて数ラウンドひたすら打ち続けた。


『拳心、い~ね~』


『そしたら、リングの中でシャドーな』


今まで、鏡の前でひたすらやっていた作業をリング内でやれと言われ戸惑った。


『今までプロ選手のシャドー観てただろ。リラックスしてリズムよく動きながらパンチ出してみろ~』


最初は戸惑ったが、数ラウンド後には次第にプロ選手のようにリズムよく動きながらパンチが出せるようになっていた。すると、会長が友利トレーナーの耳元で何かゴソゴソと耳打ちをしていたが、拳心は気にするでもなくシャドーを続けた。


翌日、何時ものようにサンドバッグを叩いていると、ヘッドギアにグローブを嵌めた会長が拳心の名を呼んでいる。


『けんし~ん。ヘッドギアとグローブ嵌めてリングの中にこ~い』


『えっ?』


『えっ?じゃないよ。スパーリングやるぞ~』


『すっスパーリング?だっ誰とですか』


ニヤニヤとした表情で会長がひと言。


『お前みたいに身体がデカい奴、相手に出来るの俺しかいないだろう~』


渋々ヘッドギアとグローブを嵌めた拳心はリング内へ。

最初は喧嘩のように、ただパンチを振り回しているだけの拳心を見かねた友利トレーナー。


『拳心、シャドーを思い出してジャブから』


『はっ』と、友利トレーナーの声で我に返りシャドーを思い出してジャブを出すと、ヒョイヒョイとパンチを交わしていく会長。


『ジャブの後にストレート』


友利トレーナーの指示通り、ジャブを出した後にストレートを出した瞬間。会長のヘッドギアを掠め、会長のヘッドギアが90度ほど回転し、会長の顔半分が隠れる様にずれていた。会長はヘッドギアをゆっくり直し、顔を上げた瞬間。声は何時のも調子だが、今まで見たことがない眼光鋭い会長が目の前に立っていた。


『い~ね~、拳心』


『もう一回、ジャブ出した後にストレートな~』


口調は何時もの通りだが目が笑っていない。会長に言われた通りジャブを出し、ストレートを出した瞬間だった。視界が真っ暗となり、気がつけばリングで仰向けの状態となっていた。

友利トレーナーの呼びかけで目を覚ました拳心。


『えっ、ここ何処ですか?』


友利トレーナーは、気がついた拳心ではなく会長の方を向きながら何かを喋っていた。


『会長、まだスパーリングも初めての練習生ですよ』


『俺の顔にパンチが当たりそうだったんだから、しょうがないだろ~』


『そんな、子供みたいな事を言わないで下さいよ』


友利トレーナーがヘッドギアとグローブを外していると、数十年まともにスパーリングをしていないとは言え、拳心が一瞬でも会長を本気にさせた事に偉く驚いていた。それと、練習終わりの帰り際、会長が現役時代はカウンターの名手で元世界ミドル級王者であった事も知る事となる。


その夜、拳心は家のパソコンで『南風原竜二』と検索してみた。それと、現役時代の会長の動画も同時に観てみた。顔半分を髭で覆い、チリチリとしたアフロヘアのような髪型は今と変わらなかった。ただ、一つ違うのが、何時も見る物腰柔らかい表情とは違い、今日のスパーリングで一瞬見せた眼光鋭い表情である事。

友利トレーナーが言っていた通り、世界王座を獲得した試合も一撃だった。第1ラウンド終盤、全く手を出していなかった会長だったが、初めて出したパンチで勝負は決まっていた。相手選手はピクリともせず、レフェリーが両手を左右に振って試合は終わっている。拳心は驚きのあまり、何度も何度も動画を見返していた。たった一発で、プロボクシングの世界チャンピオンに成れるものなのかと。


初防衛戦では、オリンピック金メダリストからプロ転向をしてきた黒人選手だった。会長は前半、全くと言っていいほどパンチを出していなかった。後半、手数を出し始めた会長は、また一撃だった。ダウン後、苦笑いをしたままの黒人選手。ややふらつきながらも立ち上がりラウンド終了のゴングに救われていた。その後、タフな黒人選手がスピードある動きを取り戻し全くパンチを貰わずラウンドが進み試合終了。判定結果も、会長が奪ったダウン以外は黒人選手がポイントを全てとっていたようである。

その黒人選手もネットで調べてみた。すると、会長から奪った王座をブラックジャックに因んだ21度防衛して無敗のまま引退。アマプロ通じて負けがなく、唯一ダウンを経験したのが世界王座初挑戦の会長との試合だった。


会長の事が書かれているネットをもう少しスクロールすると、現役引退後は飲食店経営を経てボクシングジム開設。日本フェザー級王者で元世界1位の友利人志らを輩出と書かれている。ジム内での二人を見る限りでは、全くと言って良いくらいボクシング界を賑わせたほどの選手だった面影は残っておらず、拳心は驚くばかりだった。



何時ものように挨拶をしながらロッカールームに向かおうとすると、会長の呼ぶ声が聞こえた。


『けんし~ん』


会長が『けんし~ん』と呼ぶ時には何かある。恐る恐る事務所へ。そこには、坊主頭の圭介君も頭をポリポリと掻きながら立っていた。


『二人とも、来月プロテストな~』


『ぷっ、プロテスト?』



会長は何時も唐突である。ダイエット目的で半ば半強制での入門。寝耳に水であった。圭介君も困惑の表情を見せていた。それとプロテストは16歳から受験可能となっており、今まで小学生か中学生かと思っていた圭介君が実は高校生であった事を知り、プロテスト受験以上に拳心は驚いていた。


入門からちょうど1年。1ヶ月後、プロテストを受けた拳心は、シャドー、スパーリングと全く問題なく終了した。圭介君は、勉強が得意ではないようで、筆記試験が難しかった。と、頭をポリポリと掻きながらなんとも言えない表情を見せていた。


翌日、挨拶をしてロッカールームへ向かう途中で会長に呼ばれた。事務所には圭介君も居た。プロテストの合否発表であることはすぐに分かった。


『ジャジャジャジャジャジャ、ジャン。発表しま~す。二人とも合格』


最初の『ジャジャジャジャジャジャ』は、もしかしてドラムの音を真似たものだったのだろうか。会長に対するそんなイライラよりも、合格した事の喜びの方が優っていた。ジムに入門して初めて見たが、表情があまり変わらない圭介君も笑顔を見せていた。


『それと、もう一つ。二人とも、大晦日にデビュー戦な。世界戦の前座だぞ、良かったな~。ガハハハ』


最後の『ガハハハ』も鼻につくが、本当にこの人は唐突だ。プロテストもそうだが、相談なしにプロデビュー戦まで決めてしまっている。

しかし、野球では叶わなかったプロ選手。会長の振る舞いには腹が立っていたものの、何故か心の中ではガッツポーズをしている拳心も居た。


『それと、けんしん。お前の名前「藤原拳心」て書くのか。見た目といい、何処かで観たことある様な気がするんだよな......まあ、気のせいか。ガハハハ』



大晦日のデビュー戦。拳心は、スーパーミドル級(76.20kg)を少し下回る76kg契約での試合を僅か1ラウンドでKO勝利した。年が明けた6月、何時もの通り会長が勝手にエントリーした東日本新人王に出場する事となった。


ボクシングは、C級(4回戦)、B級(6回戦)、A級(8回戦以上)とあり、東日本新人王はC級のルーキーが争う伝統あるトーナメントとなっている。

ミドル級(72.57kg)でエントリーされた拳心。東日本新人王ミドル級エントリーは5人。一人、昨年の東日本新人王決勝に進出した選手がシードとなっていた。拳心は、1回戦を勝ち抜くとその選手との準決勝となる。


大晦日の試合。ボクサーの減量を過剰に捉えていた拳心は、計量前日は何も食べずサウナスーツを着て軽く練習。すると、デビュー戦の計量を74kg後半のリミットでクリアしていた。会長も、ミドル級まで体重を落とせるだろうとの判断で勝手にエントリーしたミドル級での東日本新人王。

年を越え、コートを着ていては汗ばむ日も多くなり、どことなく春の香りを感じ始めた頃には、拳心の体重は通常時でも70kg代後半となりボクサーらしい体つきに変貌していた。


6月の東日本新人王1回戦。後楽園ホールで戦った拳心は、在京球団に入団した幼なじみ清の試合を観戦する為に東京ドームには何度も足を運んでいたが、後楽園ホールのある建物に入るのは初めてだった。格闘技の聖地と言われているとおり、雰囲気のある場内だったが、試合が始まると意に介せずデビュー戦同様の1ラウンドKO勝利で1回戦を勝利した。



『お正月も去年のお盆も帰って来なかったんだから。今年のお盆くらいは家に帰って来なさいよ。大事な話があるから』


妹二葉からの電話だった。二葉は、さいたま市にある公立高校を卒業後、駅前の居酒屋で1年ほどアルバイトをしていた。それを見かねた両親の説得で、現在は川口の実家である鋳物工場の事務で働いていた。


両親も、大学でドラフトにかからず社会人野球に進むと思っていた拳心が野球を引退。川口に戻って鋳物工場の後を継ぐと思っていたに違いない。しかし、東京の食品会社へ入社して独り暮らし。拳心自身も、これまで自由に野球をやらせてくれた両親への申し訳なさが実家へ帰る事を躊躇させていた。


実家へ帰ると、両親と二葉。そして見知らぬ20歳前後くらいの高校生にも見える若い男の子が両親と二葉と共に馴染んだ雰囲気でリビングで談笑していた。


『お兄ちゃん、今度この人と結婚するの』


会長も唐突だが、それ以上に二葉のその言い回しも唐突だった。

拳心よりも年が三つ下の二葉。それよりも1歳年下の彼は20歳か。二葉が事務で働き始めた年、高校を卒業した彼が入社。その後、彼からの誘いで付き合い始め、専務を務める父拳二にも気に入られている様子であった。


『今の仕事はどうなんだ』


父拳二の拳心に対する第一声だった。拳二は、社長を務める兄拳一と共に拳心からはお爺さんにあたる父の後を継ぎ、若い頃から鋳物工場を支え、お爺さん亡き後も兄弟で頑張っている。

川口は1960年代には映画の題材にもなった鋳物の街。お爺さんの時代には鋳物生産量日本一となっており、それを今も絶やすことなく兄弟で必死に鋳物工場を支えている。


『どうって、頑張ってるよ』


久しぶりの父との会話で素っ気ない返事をしてしまい、心の中では後悔の念が右往左往していた。

妹の婚約で祝福ムードだが、拳心だけは蚊帳の外の様な疎外感だけが漂っていた。それもこれも、拳心自身が悪いことも全て分かっていた。


母親の手料理を久々に堪能し、頃合いを見計らって拳心は帰る理由を考えていたが耐えきれず切り出した。


『俺、いまボクシングやってて試合が近いからもう帰るわ』


その場の気まずさに耐えられず、実家に帰り数時間と経っていないのに、拳心は帰ると言い出してしまった。そして、その言葉にも拳心は後悔していた。


『あんた、いまボクシングやってるの。変な所でお父さんの血を受け継いじゃってるのね』


母桂子の言葉でその場の空気が変わった。それと同時に、父の顔が明らかに気まずい表情となっていた。


『あんたが野球始める前、駐車場にサンドバッグ吊されてたの覚えてない』


9歳で野球を始め、それ以前はうろ覚えだが確かに実家の駐車場にサンドバッグが吊されていた記憶はあった。


『なんたら新人王の決勝で負けちゃったのよね。勝ったらお母さんに結婚申し込むからって言ってたのにKO負けされて、それっきりボクシング辞めちゃって』


母の話しを聞くと、第1ラウンドに父がダウンを奪ったが、第2ラウンドに気がついたら父があっさりと倒されてKO負けだった様である。

そんな事よりも、父がボクシングをやっていたなんて初耳だった。


『本当は、拳心にボクシングやって欲しかったのよね』


ベラベラと話しが止まらない母の話しを食い止める様に父が話しを切り出した。


『お前、プロでやってるのか』


『去年の大晦日にデビュー戦やって、今年6月に東日本新人王1回戦やって2戦2勝。来月、東日本新人王準決勝だよ』


『じゃあ、次に勝って、決勝で勝てばお父さん追い抜くわね』


『馬鹿野郎、俺は東日本新人王になって全日本新人王で負けたんだ』


父がボクシングをやっていた事も衝撃的だったが、東日本新人王にもなったボクサーであった事も衝撃的だった。

おかげで、気まずさも吹き飛び、帰る頃には妹二葉の婚約話しも忘れるほどだった。



お盆で会社も休み。東日本新人王準決勝も一ヶ月を切っていた事もあり、暑さもこたえるが午後になってからジムの練習に向かった。


すると、プロ選手並みに動く見慣れない若い男の子達が練習をしていてジム内が賑やかだった。


『この子達、何者ですか』


友利トレーナーに聞くと、友利トレーナーと会長の母校である沖縄の高校のボクシング部との事だった。沖縄の名門高校として知られ、野球部も強く拳心も学校名だけは聞いた事があった。

会長も友利トレーナーも、高校時代にはこの高校で全国優勝を経験。

毎年、恒例となっており、引率する監督も会長の一つ下の後輩であることから練習の場も提供されていた。国体を控え、夏休み期間に主力選手を引率して関東の強豪校との練習試合や合同練習も行っている様だった。


『拳心、夜にこの子達と会長のお店で食事会だけど来るか』


『会長のお店?食事会?あっ、はいっ、行きます』


夜になり、ジム近くの西口アーケード街にある沖縄料理『南風』に向かった。

このお店が会長のお店だったとは。拳心は意外に思いつつ、店名も気になった。席につき開口一番に気になっていた店名を聞いてみた。


『あの、友利さん。このお店の店名ってなんて読むんですか。もしかして、ハエ、、、、』


『店名っ?ナンプウだよ。そんな事より何食べる』


てっきり、会長の苗字から取ったのかと思っていたので『ハエ』と読むのかと思っていたのに、そのままの読み方で『ナンプウ』って。期待通りにならない会長の思考回路に、また苛立ちを感じていた。


食事会は、高校生達の夕食。そして、母校が生んだ世界王者である会長の長い話の様だった。特にこの日の会長は沖縄方言がきつく、半分以上は何を言っているのか拳心には理解出来なかった。


翌日、拳心と体重の近いウェルター級やミドル級の高校生達とのスパーリングが行われた。

ウェルター級の選手は全国大会優勝こそないが、毎回、上位に勝ち上がる三年生。ミドル級の選手は、南風原二世の呼び声高い選手で、高校生ながら2020年の東京オリンピック出場も確実視されており、一年生から全ての高校タイトルを獲得している怪物君の異名を持つ三年生だ。


会長も高校時代にはオリンピック候補とも言われながら、アマチュアの世界王者よりもプロの世界王者と息巻いて、高校卒業後には沖縄のジムからプロ転向している。会長の実力ならば、B級(6回戦)でプロデビューも出来たが、C級(4回戦)から着実に経験を積んだ後、世界1位となり世界挑戦まで漕ぎ着けている。

関東の大手ジムならば資金力で早々に世界挑戦へ辿り着けたはずだが、沖縄への拘りからか、日本タイトル、東洋タイトルと獲得して着実に世界ランキングを上げ、世界1位となってからの世界挑戦だった。メディアの前で息巻いたのも若気の至りではなく、自身へのプレッシャーを掛ける為だった。後に、ボクシング雑誌のインタビューで会長が答えていたのだ。

普段のふざけた雰囲気の会長は苦手だが、以前、パソコンで会長の事を検索した際、そう言った拘りの部分や有言実行な部分に関しては拳心も尊敬していた。


いざスパーリングとなったものの、プロ2戦2勝。全てが1ラウンドKO勝利の拳心も歯が立たなかった。

スピードがある上に、拳心が追い詰めてパンチを出そうとするとカウンター。高校生だからなめていた訳ではないが、プロで負けなしの拳心が手も足も出ない程に二人の高校生は強かった。


高校生と拳心とのスパーリングは連日行われた。日が経つにつれ、高校生達のスピードある動きにも癖があり読めてきた拳心は、高校生達との練習も最終日となった日だった。


『拳心、ナイスカウンター』


『コラッ』


友利トレーナーと高校生を引率する監督の声が同時に発せられた。

ミドル級のオリンピック候補とも目される高校生の打ち出すモーションを拳心は見逃さなかった。高校生が打ち出した所への拳心のカウンターだった。

連日のスパーリングで高校生のスピードにも目が慣れ、パンチを出すモーションになった所で拳心はパンチを叩き込んだ。すると、ずっしりと拳に手応えを感じた時には、高校生がしゃがみ込む様に倒れていた。

拳心自身も無意識でのカウンターだった。喜びよりも、全身に電流が流れる様なビリビリとした爽快感が覆っていた。

今までプロで2戦2勝。全てKOで勝利していたものの、勝因も185cmの体格や野球時代から培われた下半身のパワーに、一つ一つのパンチの重さと手数でもぎ取った勝利だった。

拳心は、野球にはないボクシングの奥深さを感じ始めていた。


◇◆


東日本新人王準決勝。後楽園ホール控え室でパイプ椅子に座りながら、拳心は友利トレーナーにバンテージを巻いて貰っていた。傍らでは、会長が他ジムの会長さんやトレーナーなどと談笑をしていた。


『拳心っ』


ポン、と肩を叩く聞き覚えのある声。見上げると、父拳二だった。

お盆での帰省で試合があることを教えていたが、試合日までは教えていなかったのに。

父なりにを調べて応援に来てくれたのだろうか。そう思っていた。


『頑張れよ』


そう言うと、父がすぐに会長の方へ近づき話し始めている。


『ああ、やっぱり』


会長がそう言うと、何やら二人の話しが弾んでいる。気にするでもなく二人の方向を見ながら、拳心はバンテージを巻いて貰っていた。

父がもう一度拳心の肩を叩いて控え室を出て行くと、会長が拳心に近づいきた。


『どおりで、お前の事を見たことがあると思ったはずだよ』


拳心には、会長が何を言っているのか理解出来なかった。


『お前の父ちゃんと昔、全日本新人王で試合してたとはな』


拳心がプロになる辺りから会長が『お前、何処かで見たことがある』と頻りに言っていたが、甲子園の特集番組かドラフト会議でテレビにチラッと映った事を言っているのかと思っていた。しかし、違ったようである。

会長と父が話し込んでいたのは、昔、二人が対戦していたからだった。


お盆で帰省した時、全日本新人王で1ラウンド目にダウンを奪ったが、2ラウンド目にはあっさりダウンを奪われ負けてしまったと言っていた。あっさりダウンしたのは会長の強烈なカウンターだったようである。

それと、会長が唯一プロ生活でダウンしたのが父拳二のカウンターだったから、プロで何十戦と戦った会長の記録の奥底にあったのも当然かも知れない。


父が今日応援に来たのも、父なりにボクシング雑誌を調べ拳心の名前を探していたら今日が試合である事を知った為でもあり、拳心が所属するジム名を見てピンと来たからでもある。

南風原ボクシングジム。ボクシングをやっている南風原なんて名前、中々いる訳がない。そう踏んで来たらビンゴだったようである。


無敗で挑んだ全日本新人王。父自身は、初めて負けはしたが、後にその相手が世界チャンピオンになったのだからと、全日本新人王が終わった後にボクシングを辞めた事に後悔をしていたが、その後悔も会長が世界チャンピオンになった事で悔いは薄れていったようである。


試合前に、何で二人のそんな場面に遭遇させられているのだろうか。そんな事を思いながらも、自然と緊張が解れていた拳心は準決勝のリングに上がった。

相手は昨年、東日本新人王決勝まで勝ち上がっただけあり巧かった。拳心は、初めて1ラウンド目にKO勝利を逃した。

2ラウンド目も同じ様な展開だった。


『拳心、高校生とのスパーリングを思いだせ』


友利トレーナーのインターバル中の声で、また『はっ』と思い出した。あの高校生のスピードに比べたら、もっと相手のボクシングを打破出来るはず。

3ラウンド目。今までとは違い動きを多くした拳心は、追って来る相手がパンチを出す瞬間だった。

高校生からダウンを奪った様な綺麗なカウンターだった。相手は立ち上がれず、カウントを数えずレフェリーが相手選手を抱きかかえて片手で左右に手を振っている。東日本新人王決勝進出が決定した瞬間だった。

その日、圭介君もミニマム級準決勝のリングに上がっていた。圭介君のすばしっこい動きに、相手選手がついて行けず圧倒の判定勝ち。決勝進出を決めたが、試合後は笑顔も見せず何時もの圭介君だった。


控え室前では、二人が東日本新人王決勝を決めた事で会長に記者が群がっていた。圭介君がシャワーを浴びて戻って来る間、微妙に語尾が上がる沖縄訛りのあの喋りで、会長は何故か記者連中相手に笑いを誘っていた。



東日本新人王決勝も当日となった。拳心は、さほど緊張感はなかった。会長も友利トレーナーも、東日本新人王の最難関は前回対戦した選手であった為、今回の決勝は拳心に部がある。そう踏んでいた。


前回の試合翌日。今回、勝ち上がってきた選手の準決勝があり、友利トレーナーと共に拳心も偵察がてら観戦していた。

一人はデビュー戦をKO負けした後、2連勝中で2勝1敗の選手。もう一人は、1勝2敗の選手だった。

1ラウンド目から二人共に打ち合いを展開。どちらとも言えない打ち合いが続き、最終4ラウンド目。見た目では、どちらが勝っているのか判断がつかない位にフラフラになりながらもパンチを出し続ける両者。最後の最後に一発入った所で1勝2敗の選手がダウン。効いているパンチで倒れたと言うよりも、打ち疲れで心が折れてしまった。そんな印象だった。


デビュー戦より3連続KO勝ちで3勝無敗の拳心。相手選手は、デビュー戦を負けた後、3連勝で3勝1敗。

いざ試合が始まると、相手が前へ前へと攻めてくる展開は想定内だったが、拳心に負けず劣らずのパワーで前へ来る為、拳心もカウンターや手数も出せずにラウンドがズルズルと進んでいった。

3ラウンド目。相手選手にスタミナがない事は分かっていた拳心は、打ち疲れ始めた相手選手に打ち合わずスペースを空ける為に動いた。

すると、ゾンビのようにフラフラになりながらも攻めてくる相手選手に一撃だった。前回と同じ様にカウンターで相手選手が倒れた。しかし、フラフラになりながらも立ち上がった相手選手はラウンド終了のゴングに救われた。

最終4ラウンド目。驚異的な粘りで相手選手も攻めてきたが、ダメージもスタミナも底をついていた。拳心がパンチを貰わないように動きながらパンチを当てていくと試合終了。

拳心が3ラウンド目に奪ったダウンと、4ラウンド目の優勢な試合運びで拳心の手が上がった。


父と同じ東日本新人王となった拳心。リング上でレフェリーに手を上げられながら、気がつくと汗とともに涙の入り混じったものが顔から流れていた。




東日本新人王決勝から1週間後。西日本新人王決勝が行われる為、友利トレーナーと共に拳心は新幹線で大阪へと向かった。


圭介君も来るはずだったが、東日本新人王決勝を引き分けながらも相手選手が勝者扱いとなり、全日本新人王決勝へ駒を進める事が出来なかった。

相手選手は大手ジムの選手で、高校時代には全国優勝もしていた選手。友利トレーナーも、敗戦が付かず強い相手に引き分けた事でいい経験になったのではないかと、圭介君に対しポジティブに宥めていた。


拳心も友利トレーナーも、西日本新人王ミドル級決勝で戦う両者のデータと言えるものは殆どなかった。だからこその観戦だったが、試合会場に入りパンフレットのプロフィールを見た途端、全日本新人王で対戦するのはコッチだ。友利トレーナーとも即座に意見が一致した。

2戦2勝無敗。全てKO勝ちで、全て1ラウンド目に勝負を決めていた。

しかも、高校時代に全国優勝を経験。大阪の大学では主将を務めていた人物でもあった。

大学卒業後、世界チャンピオンを輩出している大阪の現在のジムでデビューとなっている。


試合が始まるや、スピードもあり相手選手との力量差は一目瞭然だった。1ラウンド目には全くパンチを触れさせず、闘牛士が闘牛をあしらうようにヒラリヒラリと交わしパンチを的確に相手選手に当てていた。

2ラウンド目だった。右のストレートを出したかに思った瞬間。相手選手の顔が浮き上がり一撃だった。レフェリーも途中でカウントをするのを辞めてしまっていた。


『ひぇ~、凄いなコイツ』


思わず、日本チャンピオンにもなった友利トレーナーも嘆くほどだった。

右ストレートを出すモーションと見せ掛けての右アッパーだった。相手選手もパンチを避けようにも反応出来ないほどの鮮やかさで、ドクターの検査後には担架で運ばれていた。


『え~、東日本の選手も強いようですが、必ず倒して応援してくれている人達の為にも全日本新人王を獲ります。全日本新人王の応援宜しくお願いします』


試合後のインタビューの受け答えも確りしていて、人間的にも尊敬出来そうな選手だった。


『拳心、どうだった』


友利トレーナーに聞かれたが、答える言葉に困ってしまい暫く黙っていた。友利トレーナーも、拳心の心を察してか二人ともに暫く沈黙が続いた。

実際の所は、友利トレーナーに聞かれる前から頭が真っ白になり、全くと言っていいほど勝てるイメージが浮かばないでいた。




南風原ボクシングジムとしては友利トレーナー以来の全日本新人王決勝進出だった。

これまでは、会長や友利トレーナーとのスパーリングで試合前の実戦練習を養ってきたが、今回の相手はそうもいかなかった。拳心は、初めて出稽古と言うものを行う事を決めた。と言うのも、拳心の相手を出来るミドル級辺りの選手がジムに居なかったからでもある。幸い、都内を探せばアマチュア出身でデビュー数戦の選手から、日本チャンピオンや日本ランカーまで幾らでも居た。


東日本新人王決勝から中一ヶ月の試合間隔となるが、ドラフト候補にも挙がった拳心の野球経歴からプロボクサー転向と言う異色さは、ボクシングサイトやスポーツ新聞にも取り上げられ、試合までの数週間は色々なジムへ出稽古へ行ったが、メディアでの影響で顔と名前が一致して貰えているせいか、練習後には好意的にボクシングの技術を教えてくれる選手や野球の話しを聞いてくる選手も多かった。

特に、現役日本チャンピオンとの手合わせでは、全く何もさせて貰えなかったが、スパーリング後にはボクシングの戦術などを熱心にレクチャーされた。


連日の出稽古で技術的にも精神的にも万全となり、あっという間に計量当日となった。前日の夜は、ジムでの計量で500gオーバー。何も飲み食いせず計量に望むとリミットを200gを割ってクリアした。プロ5戦目ともなると、拳心も体重の調整はお手の物となっていた。


計量も終わり減量から解放され、友利トレーナーと後楽園ホール1階にあるレストランで食事となった。

席に座り、ふと、ガラスの外の聳え立つ東京ドームに目がいき拳心は無意識に思わずもらした。


『もしかしたら、あそこで投げていたかもしれないんですけどね、俺』


拳心が向く方向を友利トレーナーも見ると、こう言い返してきた。


『お前も、あそこで戦えるボクサーになればいいんだよ』


『えっ?』


『知らないか?昔、フロイド・ピーターソンと言う有名な世界ヘビー級チャンピオンがあそこで試合してるんだよ』


フロイド・ピーターソンと言う名は聞いた事があったが、東京ドームでボクシングの試合が行われていたなんて意外だった。

想いにふけながら拳心は食事を食べ終えると、激しいスパーリングも重なっていたので身体を休ませる為に酸素カプセルへ寄った後、すぐに帰路へとついた。


夜になり無性に食欲が出てきた拳心はマシマシラーメンで胃袋を満たすと、挨拶がてらジムに寄った。気を遣ったのか、会長も友利トレーナーも何を言うでもなく何時もの様子だった。すると、圭介君が近づいてきた。


『拳心さん、絶対勝って下さい。明日、僕も応援に行きます』


あまり、感情を表に出さず口数少ない圭介君の言葉は心に響くものがあった。


家に着いても落ち着かず、その夜、拳心は寝つけずにいた。


中学時代はリトルシニアで全国準優勝。高校時代は甲子園春の選抜ベスト4。大学時代は、四年生の時に出場した全日本大学選手権も、左腕のエースが活躍したもののベスト8で敗退していた。野球では常にトップレベルでプレーしてきたが、思い返せば日本一と言うものを経験していなかった。

目を瞑ると、小学生時代に野球を始めた頃から全日本大学選手権まで、事細かに回想シーンのように脳裏に蘇ってきた。気がつくと拳心は何時の間にか眠りについていた。



『友利さん、友利さんて元日本チャンピオンなんですよね。日本チャンピオンになった時って、どんな気持ちでした』


控え室で友利トレーナーにバンテージを巻いて貰っている間、拳心は聞いてみた。


『日本チャンピオン?俺は世界を狙ってたから、日本チャンピオンはあくまで通過点。あんまり覚えてないなあ』


野球に例えるなら、会長も友利トレーナーもメジャーリーグで活躍するメジャーリーガーだった。

俺は、日本のプロ野球の舞台にも立てていなかったアマチュア選手。愚問だった。


バンテージも巻き終わりコミッショナーの検査も終わりグローブを嵌めると、何時になく緊張感が増してきた。

新人王ではミドル級が最重量級となり、必然的に最後の最後。メインイベントと言う事で拳心は緊張していたのだ。

控え室からリングのある後楽園ホールへと繋がる階段を登る頃には、拳心の緊張も最高潮に達していた。

リングに近づき、コーナー下の松ヤニをシューズの裏に擦りつけながらスーッと息を吸い込んでリングの上にあるライトを暫く見つめた。階段を上がりコーナーに立つと自然と武者震いのようなものもピタッと止まった。


『赤コーナー南風原ジム所属、東日本新人王藤原拳心』


リングアナウンサーの紹介され右手を上げると、その右拳をそのまま相手選手に向けながら一点を見つめた。

これに勝てば、全日本新人王。日本一になれる。相手と向きあった途端、拳心の心の中で眠っていた日本一へのコンプレックスが大きくフィーチャーされ始め、呪文のように唱えていた。


『これに勝てば日本一だ、これに勝てば日本一だ、これに勝てば日本一だ』


その先に見えるものって、一体どんな世界なのだろうか。






















































































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