常識のない男
「あなたって、常識のない人ね。」
おでこを地面に付け、伏せている男を見て、女は優しく笑う。
「プロポーズの時に土下座する人なんて居ないわ。」
それでも男はそのままだった。
「OKをもらうまでは、このままと決めたんだ。
僕には君しかいない。お願いします。」
「わかった。いいわ、頭を上げて。」
女は腰を落とし、男の肩を叩く。男は満面の笑顔になる。
「ありがとう…」
「一生かけて、あなたに常識を教えてあげるわ。」
***
「あなたって、常識のない人ね。」
夕立でびしょ濡れになって帰ってきた夫を、妻が笑う。
「傘を買ったら、もったいないかと思って。
お金貯めないといけない時期だし。」
夫は言い訳をする。
「スーツのクリーニング代の方が高くつくわ。携帯は大丈夫?」
「携帯は濡れてない。スーツも陰干ししたら乾くし。」
妻は脱衣場にバスタオルを取りに行く。
「ご飯より先にお風呂にしましょうか。」
***
「あなたって、常識のない人ね。」
まだまだ小さい赤ちゃんに授乳しながら、妻が笑う。
「育児休暇なんて、男が取るものじゃないわ。」
夫は反論する。
「もう時代が違うよ。男だって子育てするのさ!」
「できるの?」
夫は胸を張る。
「早速、ご飯の後片付けとお風呂の準備お願いね。」
***
「あなたって、常識のない人ね。」
膝を擦りむいた夫と、へこんでいる息子を見て、妻が笑う。
「息子の運動会で本気なんか出さないわよ…だから転ぶの。」
夫が弁解する。
「やっぱり、子供の前で一番を取りたいじゃないか。」
夫に絆創膏をはりながら、妻はため息をつく。
「これじゃあ、どっちが子供なんだかわからないわ。」
***
「あなたって、常識のない人ね。」
妻は夫を介抱しながら笑った。
「息子の結婚式で酔いつぶれるなんて…」
「むむ、うーん。ぷはぁ。」
夫は声にならない言葉で謝罪する。
妻は優しく夫の手を握る。
「あの子が産まれてから、お酒我慢してたもんね。
今までよく頑張ったよ。」
***
「あなたって、常識のない人ね。」
ベッドに横たわり、妻は力なく笑う。
「だって君、パンジー好きじゃないか。」
「それでも病院のお見舞いに鉢植えは相応しくないわ。」
夫は別の花を買いに行こうとする。
「いいえ、この花はこのままが良いわ。」
***
小さな白い箱に入って妻は帰って来た。
夫は、声を殺して泣いていた。泣き続けた。
喪主に代わり息子が挨拶をする。
『あなたって、常識のない人ね。』
写真の中の妻は笑っていた。
「葬儀は夫が挨拶をするものよ、だろ。」
夫はそう言って、また泣いた。