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転校生  作者: フォン・サモン・サイ
1/1

もじずり



松下家の主人がおぼつかない足取りで、庭を歩いていた。石積みの段差につまずいて、かるく体が浮いたが、なんとか持ちこたえた。杖をつかなくて良いのかと三富拓郎(みとみたくろう)は心配になった。

手にはブリキのジョウロを持っていた。どうやら、花壇の世話をするようだ。

水をかけた先は、フリージアだった。白、赤、黄、紫がまっすぐ空へ伸びていて、自分の存在をアピールしているかのように見える。

ちょうど太陽の反対側に位置していたので、空には小さな虹がかかっていた。

"ギィー"錆びた鉄のノイズがした。

『拓郎、朝ごはんができたわよ』

扉を開けて靖子(やすこ)が入ってきた。三角巾から長い髪が数本でていた。

『うん、分かった。今すぐいくね』

窓から視線を外した。

『ちょっとあんた、まだパジャマ着てるの、早く着替えなさい』

靖子は、クローゼットから学ランを取り出した。手入れを怠ったせいで、シワくちゃだ。

拓郎は『おう』と軽い返事をし、学ランに着替えた。少し肌寒くなる。

人差し指で目やに触ると思ったより硬く、ちょっと痛みを感じた。

ゆったりとした足つきで洗面台に向かい、洗顔だけを済ました。朝の水は冷たく、目がパチッと開いた。拓郎は、歯磨きは飯を食った後からと決めている。

『はい、これパンね』

皿を拓郎の前に出した。少々、焼き過ぎたのか、黒コゲが目立つ。

『ありがとう。あれ…』

齧ってみると、味がしなかった。しいていうのら、コゲの旨味だ。

『ちょっと、味付け忘れてるよ』

パンを持ち上げた。破片がパラパラ皿に落ちる。

『あ、ごめんなさい。ハイ、これイチゴジャムね』

野菜室から取り出し、ジャムナイフも渡した。

『あれ、こんなものあったけ』

思いっきり力を入れると、スポッンと心地よい音がした。蓋が固くて、開けるのにちょっと苦労した。

『昨日の夕方ね、ママ友の杉浦さんから貰ったのよ』

靖子は嬉々とした声で言った。

杉浦さんとは地域のボランティア活動で知りあった方だ。たまたま、子供が同じ高校に入学したこともあって、親睦が深い。

『お、そうなの』久則(ひさのり)は、新聞から顔を出した。『とても、うまかったぞ。お返しの品は今日中に用意しとおこうかな』

靖子に視線を寄越し、微笑んだ。

『あら、本当助かるわ。お金は私が準備しようか。』

エプロンを脱いだ。ドラム型洗濯機の中に放り込んで、スイッチを入れた。

『いや、いい。今月はボーナスあると思うから。』

コーヒーを口に含みながら首を振った。

シュガーポットから角砂糖がいくつか消えているので、久則は甘党だろう。

『じゃあ、そろそろ行ってくる』

新聞をたたみ、ダンボールの中に入れた。

三富一家は、新聞を保管する習慣がある。捨てる時も思い入れのつよいものは、残しておくのだ。拓郎は未だに、その気持ちが理解できない。捨てればいいのに。もっとも古いもので、ケネディ大統領が暗殺された時の新聞がまだ残っている。

テーブルに置いてあったキー取って、ポケットに入れた。隠し口からは、ペンギンのストラップがぶら下がっていた。

拓郎は、ふたたび洗面台に行き、今度は丁寧に歯を磨いた。歯みがき粉をたっぷり使ったせいで、口周りには泡がたくさんついていた。

拓郎は小さい頃、あまり歯磨きが好きではなかった。たった2~3分の短い間だが、退屈で長く感じたのだ。それが積もって、小学3年生の時に一本、抜歯することになってしまった。施術後もずっと痛んだ。もう、あんな思いはしたくないのだ。

ガムケースからガムを一つとり、玄関から出ようとしたら靖子が『ちょっと、待ちなさい』と肩を掴んだ。

『どうした、母さん』

口いっぱいにミントの香りが広がった。鼻腔の通りがよくなる。

『あんた、弁当箱忘れてるよ』

靖子は濡れた手で渡した。

『すまない、あんがと』

はにかみながら、頭を掻いた。

弁当箱をカバンの中に入れ、最寄り駅に急いだ。



まだ眠気が取れなかった拓郎は、ボックスの袖仕切りにもたれかかった。寝過ごすわけにはいかないので、10分のタイマーも仕掛けた。蚊の羽音のごとく、かすかだが、耳元にヘビィメタルらしき音が聞こえてきた。ちらっと隣をみやるとイヤホンから音漏れしているようだ。ほんのささいな音だが、耳障りでうっとうしい。隣のボックスに移動することにした。

『う、う…苦しい』若い女性が、かぼそく訴え、手すりを離し倒れた。ショルダーバッグからは、化粧道具やらファイルが飛び出た。

周りは騒ぎはせず、ぽかんとしていた。状況がのみ込めないようだ。人はいきなりの出来事には対処できないことが多い。

彼女の顔からは嫌な汗がしたたれていた。

拓郎は貫通扉の先をみて、何の騒ぎかと思った。しかし、眠たかった拓郎にはどうでもよいことだった。

彼女の近くにいた老人が『大丈夫ですか』と肩をゆすった。人形に呼びかけているようで、返事はかえって来ない。お腹が上下に運動していた。かろうじて、息はしているようだ。

重篤だと判断したのか、老人は、迷うそぶりを見せず、緊急停止ボタンを押した。多くの人がよろけ、つり革も悲鳴をあげた。拓郎は上半身が大きく横にそれ、眠気が覚めた。

拓郎の真ん前にいた男性が足を滑らせてしまい、女性の膝の上に座ってしまった。すぐさま立ち上がり、申し訳なそうに『すみません』と男性は謝ったが、無言で睨まれてしまった。

電車はちょうど駅前で停車した。いつもは、急行列車がこんな小さな駅に停車するわけがない。ホームにいた人たちは、車内をじろじろ覗いていた。

『何事かですか』

駅員が人混みをかきわけて3両目にやって来た。顔がまだ新しいから、若手だ。

『この人、意識がないみたいです。今すぐ手当てしないと間に合わない。』

老人が早口で事情を説明した。このことに、切羽詰まった顔をする人もいれば、貧乏ゆすりしながら彼女を見つめる人もいた。

『分かりました。今すぐ対処します。』

帽子を被り直した。

駅員は困惑した顔になりながらも、ひとまず乗務員室に戻った。

『一旦、扉が開きます。ご注意ください』

しばらくして、扉から入ってきた駅員が彼女を担ぎ上げ、担架に乗せた。足場が悪いので、車輪がガタガタ震えていた。

"扉が締まります。ご注意ください"今度は、録音機のお兄さんだ。

『先ほど、急病の方が出ました。今、担架で無事運び出されましたので、運転を再開したいと思います。10分ほど遅延してしまいました。大変申し訳ありませんでした。』

拓郎は、等間隔に騒ぐ電子音に気づき、タイマーをリセットした。



8時32分だ。全力疾走して、なんとか遅刻せずに校門をくぐることができた。拓郎は、両手で膝を押さえて一息つく。車内で急病の人が出たときは遅刻するかと思った。友達から駅に自転車でも置いていけばどうかと提案されたことがあるが、靖子の許可は下りなかった。拓郎はクラブに所属しなかったこともあり、運動不足にならないためにも歩けと言われたのだ。

靴箱にはずらりとシューズが整列していた。拓郎のクラスは朝は優秀なようだ。

しかし、一つだけ空気を読めていないものがあった。出席番号3番、荒井芳樹(あらいよしき)であった。度重なる遅刻で、担任から大目玉を喰らったことが何度もある。彼が言うには、朝はどうしても苦手だそうだ。目覚まし時計を仕掛けたらどうかと拓郎は提言したことがあるが、壊してしまうらしい。

教室では、提出する宿題を一生懸命やっている子がちらほらいた。サボるのは良いけど、上手にサボった方がいいよと拓郎は思った。

『なぁ、見せてくれよ』

坊主頭の男子がツインテールに手のひらを合わせた。

『だめよ、私はちゃんとやって来たもの。あなただけズルするのは不公平だわ』

顎をくいっと上げ、口角を下げた。

『ケチなババアだぜ』坊主は口を尖らせた。

『何よあなた。口が悪いわね。』

人差し指で坊主の口を指した。

『礼儀を知りなさい』

ツインテールはむくれた顔で、足早に自分の席に戻ってしまった。

『はい、席につけ』甲高い声が教室にどよめいた。

担任の磯村がプリント類と出席簿を教卓に置いた。

『今から、課題を提出してもらいたいところだが、それは後回しだ。』

丸い黒縁の眼鏡をかけ直した。今日はいつもとネクタイが違い、水色を基調としたクロスデザインだった。

『それって、チャラってことですか』

笑みを浮かべた坊主が、真っ直ぐ手をあげて訊いた。

『いや、ちゃんと放課後には提出してもらうぞ。』

ニット・セーターについたホコリを払ったが、毛玉までは取れなかった。

『まぁ、時間あるからいっか』

坊主は開き直った様子で、課題を抽斗に舞い込んだ。

磯村の表情が硬くなった。両手を教卓に添えた。

『今日は新しい仲間を紹介したいと思う。』磯村は『入って来なさい』と手招きした。

引き戸から黒髪の男子が入ってきた。パタパタ音がする。靴はスリッパのようだ。クラスはざわめいた。

『彼が転校してきた吉村薫くんだ。みんな仲良くしてやってくれよな。』

薫は表情ひとつ変えず『皆さん、はじめまして』と軽いお辞儀をした。

髪はしっとりしていて艶があった。目は大きくて切れ長で、涼しい。口元は引き締まっている。鼻梁が美しく、知的な印象があった。ひょっとすると、二次元から転校してきたのかもしれない。拓郎は、目が洗われる思いになった。

『じゃあ、自己紹介よろしくな』と薫に微笑みかけた。磯村はチョークケースから新品の白を渡した。カバーがついているので、手に粉がつくことはない。

『漢字では、こうやって書きます』チョークで名前を書き始めた。薫の文字がぐちゃぐちゃになった。字はあまり上手ではないようだ。磯村もクスリと苦笑した。拓郎は遠い世界の住人だと思ったが、ちょっと親近感が湧いた。

『OO高校から来ました。吉村薫(よしむらかおる)と言います。好きな食べ物は栗きんとんです。みなさん、よろしくお願いします。』

とりあえず、バラバラな拍手が起きた。女子の目はうっとりしているようにもみえる。薫って名前だけあって良い匂いもするのだろうか。

『じゃあ自己紹介は以上だ。朝のHRもこれで終わり。じゃあ、吉村くんはあの席に座ってね。』

薫はクラスメートの視線には応えず、とっとと席に座った。近寄り難い雰囲気を醸し出している。

拓郎は、今に至るまで転校生を目にしたことがない。小説か漫画の世界だと思っていた。人は自分に降りかからないことは、どこか他人事とか絵空事に思ってしまうものだ。拓郎もその一人であり、妄想の壁であることがよく分かった。




昼休みになると、待ってましたと言わんばかりに薫の周りを男女が囲った。

『ねぇ、薫くん。困ったことがあったら是非、私に頼ってね』下心丸出しな声を出す。

『この学校って、いじめとかほとんどないよ。安心しなよ』慰める声で言う。

薫に興味を持った男女が次々と話かけていった。彼は思ったより律儀で、全員が言い終わるまで待った。

『それは助かる。一年ちょっと宜しく。』

やっと口を開いたが、見た目とは裏腹な男らしい喋り方だ。女子は目を見開いた。

『ところでさ、この学校って購買とかある?』

視線の先にいた、男子に話しかけた。

『あるよ、一階にね』

『どうも。今日の授業は早めに終わるって聞いたから、弁当持って来てないんだ。』

『ああ、そうか』と男子が頷いた。『残念、あと一時間だよ。』

『ちゃんと訊いとくべきだった』薫は悔しそうな声を出した。それを聞いて、みんなはうっすらと笑た。

引き戸から髪がぼさぼさの男が入ってきた。渋い顔をしている。荒井芳樹であった。

だるそうな感じで、一人の男の子に近づいた。

『ちょい、立川。こっちこい』

『うん、どうした』立川晃が箸を置き、芳樹の近くに寄った。晃の口からパスタがはみ出ていた。

『あの子』指をさした。『見掛けない顔だな、転校生かなにかか』片手をポケットに入れながら訊いた。

『そうだよ。新学期に合わせてきたみたいだね』口周りをペロッと舐めた。

『そうか、ちょっくら挨拶に行ってくる。』

芳樹は人の輪にすっと入った。みんな疎ましそうだ。

『おめぇが転校生か、よろしくな』

相変わらず口が悪いが、薫は特に気にした様子は見せなかった。

『お、よろしく。あと、名前は吉村薫だ』

なんとか握手が成立した。

『そうか、俺は荒井芳樹。』柔和な笑顔を見せた。眠気がなかったらもっと可愛いかもしれない。

『今日も派手に遅刻してやんの。』ツインテールが嫌味な声色で言った。

『うるせぇ、お前は永遠に日の光を見れなくするぞ』

逆上したのか、ガンを飛ばした。周りの男女は引きぎみだ。ある子は自分の席に避難した。

『女子に向かってなんてこといってんの』

ツインテールは顔を真っ赤にさせ、腕を組んだ。口論が始まりそうだ。

学級委員長の中山が『まま、落ち着いて』と二人の間に入った。何とか説得できたようだ。

『ふん、面白い』

薫の顔がほころんだ。

この様子を見る限り大丈夫そうだ。



弁当を開けてみると、ドラえもんの顔があった。食材に青色とは珍しい、海苔に青い食紅でもつけたのだろうか。靖子は拓郎が高校生になってから、ずっとキャラ弁を作り続けている。靖子がSNSにキティーちゃんのキャラ弁を載せたときは、242いいねが送られた。しかし、久則にそのことがバレて、みっともないからヤメロと注意された。今はあげていない。

『鈴は梅干しだね』

杉浦みね子が隣から話しかけてきた。近くにあった椅子をとり、拓郎の向かい側に座った。

『そのようだね、この年になってもキャラ弁作ってもらうって、親バカだよね』自嘲気味に言う。

みね子は少し窓の先をみて、首を振った。

『そんなことはないと思うよ。見た目にこだわるのは、大人もそうだから』

窓に視線を戻した。

『ありがとう。…そうだ。』拓郎が何かを思い出した顔をした。『そういえば、ジャムありがとう。親父も美味いっていってたよ』

拓郎は、軽快な調子でみはやした。

『それは良かった。あれはうちの実家で収穫したイチゴなのよ。』誇らしげに言った。

ポケットからウエットティッシュを取り出した。みね子は、何かを食べる時には、必ず手を拭くのだ。

『そうなの。上手に栽培できてると思うよ。』

『もらった』みね子が拓郎のからあげを手でつまみ勝手に食べた。『うちの祖母がイチゴ農家やってるからね』モグモグしながら言った。

『二人とも楽しそうにしてるじゃないか』

芳樹が拓郎らに話かけてきた。傍らには薫がいた。あんまり身長は高くないが、見下ろされると少し怖い。

『それ、ドラえもんだろ。なかなか良くできてるじゃないか』感服したように言う。

拓郎は予想外の人に声をかけられ、咀嚼が止まった。薫をみると、返事を待っているかのような目をしている。まさか、彼が話しかけてくるとは思わなかった。

『てか、お前はハムスターか。』

芳樹が茶化すようにほっぺたをつついた。ちょっと口に入れすぎてしまった。

『あら、薫くん。私は杉浦みね子です。よろしく』手を膝において、会釈した。やっぱり育ちがいい。

『どうぞよろしく』

薫は口元を少し緩ませた。

『ちょっと、そこのハムスターくん。名前、教えてよ』せっつくような口調だ。

ひとまず拓郎は口にあったものを飲み込んで、水筒の茶を飲んだ。『俺は、三富拓郎です。』

大人しそうに見えたが、ずいぶん馴れなれしい。人は見かけによらずとはこのことかと思ったが、拓郎が人をみる目がなかったとも言える。

それよりもびっくりしたのは、芳樹と仲良くなっていることである。彼は、いささか口が悪く、とっつきにくいと感じる人が多い。根は優しいのだが、不器用なところが多いのだ。ひょっとして、睡眠不足のせいかな。そんなことを考えた。

『芳樹、生活習慣みなおそ』

さっき考えていたことをそのまま言ってしまった。拓郎は開いた口が塞がらない。

『お前、急に何いってんだ。どうした』

芳樹は、なぜそんなことを言い出したのかかわけが分からないといった仕草だ。

『今のはやっぱなし。気にすんな。それに、休み時間は後15分だよ。早く食べなよ』

追い払うように手を振った。二人は大人しく自分の席に戻った。拓郎は、たまに考えていることがポロっとでてしまうのだ。

『こら、みね子さん。僕の弁当ばっかり食べないの』

"この泥棒ネコ"

みね子は口を押さえながら、元の席に戻った。拓郎は気づかなかったが、薫にじっと見られていた。何か言いたそうな面構えだ。

5時間目の授業は数学だった。ひときわ目だったのが薫で、先生の質問に率先して答えた。新しい単元に入ったばかりなので、理解に苦しむのは先生も承知のうえだったが、これには生徒とクラスメイトも驚きだ。よく見ると、薫の右手の中指にぷくっと硬そうなマメができていた。汗水垂らして努力しているのが容易に想像できた。拓郎は己の中指をみて、いろいろ負けてるなと反省した。



『明日から休日に入る。みんな、ちゃんと勉強するようにな。じゃあHRを終わります』磯村は急ぎ足で教室を出ていった。このあと、すぐに教員会議があるのだ。ところが、なぜかまた教室に入ってきた。

『すまん、課題集めるの忘れてた』

舌を出して照れた。

みんな呆れた顔をして、ため息をいついた。立っていた生徒は、ふてくされたように座った。

『なんですか。忘れてくれても良いんですよ』坊主が皮肉を言った。

『どうせ終わらなかったんだろう。まぁ良い。月曜日まで待ってやるよ』

あわれむような顔をした。

『良いパパになれると思います。いや、もうなってるかも』甘い声で言った。

『ホントか。嬉しいな』そう言って、会議室に向かった。笑みを隠しきれてないようにみえた。

磯村は、結婚してから1年が経ち、4月に念願の子供が産まれた。一人娘である。よほど嬉しかったのか、最近、浮かれぎみなことが多い。授業中でも暇さえあれば、娘と妻の話をするので、拓郎は二人の名前を覚えてしまった。




早く帰れると言っても特に用事はない。拓郎は、あまりゲームもしないし、漫画もほとんど読んだことがない。家ですることといえば、本を読むか絵を描くことぐらいである。それ以外の時間は、思考に費やしている。なにか新しい考えを生み出したときはとてつもない快感を得る。小さい頃から、チカチカするものを長時間みて何が楽しいのかと思っている。

両親の教育方針がそういったものを禁止したわけではなくて、もともとそういう気質なのである。格好は現代っ子だが、中身はそうでもない。浮世離れしているといえば、そうなのかも知れない。

昼過ぎのホームは閑散としていた。線路脇にはネモフィラが咲いており、その葉にはナナホシテントウがじっと止まっていた。

ホームの時計を見ると、悪い時間帯に来たなと拓郎は思った。普通電車はトロトロして好きじゃない。お目当ての急行列車に乗るには、20分辛抱する必要があった。拓郎は、ガラ空きのベンチに腰掛けた。たいていの人は、イヤホンとかゲームをして、自分の世界に浸るものだ。しかし、こうして自然に身を委ねてみるのも悪くない。人は、もとはといえば自然から来たものだ。だから、自然に身を任せるのは、母親を感じてるみたいなものである。拓郎はそっと目を閉じ、春の暖かい風を肌で感じた。飲みかけの缶コーヒーが足元に転がっていた。

突然、風が遮られた。

『よう。拓郎くん。同じ駅で通学してるんだな』

気づいたら薫が隣にいた。

『なんだ、君か』びっくりしつつも、拓郎はそっと匂いを嗅いでみた。これといったものは感じなかった。しかし、そっちの方が清潔感があっていい。

『おーい。どうした』

薫は拓郎の顔の前で手を振った。

『あ、ごめん。なんもないよ』

顔が近い。あんまり顔をじろじろ見られてしまうと恥ずかしくなる。

『待ってるあいだ、俺とお話しようぜ』

薫は立ち上がり、自動販売機の前に立った。拓郎は飲み物を奢ってくれるんだなと察し自分の好きなドリンクを言おうとしたら、すでに買い終っていた。

『はい。これ拓郎の分な』そう言って、ひえひえの緑茶を手渡した。

『ありがとう。緑茶好きなんだ。』

さっそく飲んでみた。ウイルスが胃に落とされた気がした。茶は菌やウイルスを洗い流す効果があるのだ。

『それは分かってたよ。』

まるで、ハナから分かっていたかのように返事した。

『え、僕のこと知ってるの』

拓郎は自分の鼻を人差し指でさした。

『いや、今日会うのが初めてだ。ただ、拓郎がお茶を飲むところで分かった。』

『うん。どいうことかな』

拓郎は、イマいち分からない。綺麗な顔をみても答えは書いていなかった。

『拓郎の水筒ってコップ付きだろ。そこに注ぎこんだものをみて緑茶って分かった』

なるほど、拓郎は思わず膝を打った。『よく見てるね吉村くん』と感心した。

『あのさ、メールアドレス交換しない?』

薫は体を揺さぶりながら、ねだるような顔をした。大人びた顔をしているが、どこか幼さを感じた。

拓郎は快く許可して、スマホを取り出した。アドレスを入力しているさなか薫が『拓郎くんも人のことよく見てるぞ』と言った。

『どうして、そのように思ったの?』

また何か探られたようだ。

『5時間目に拓郎くんから熱い視線を感じた。』しっとりと言う。

薫は首を傾け微笑んだ。彼が持っていたのは、ミルクココアだった。

視線を送っていたことがバレていたのだ。拓郎はなんだか恥ずかしくなり、そっぽを向いた。

『三富拓郎っと』

薫は登録が完了したようだ。

『あと、2分後だな。じゃあ、僕は反対側だから、またね』

軽く手を振り、薫はトロい電車に乗り込んだ。拓郎の電車は7分後だ。

階段から人が上がってきた。

さっきの閑古鳥が鳴くような雰囲気は嘘のように、一気に色が増えた。




炊飯器が"チロリン"と鳴いた。靖子が丸いボタンを押して蓋を開けると、タケノコご飯がふっくらと炊きあがっていた。

『ちょっと待ってね。あと、味噌汁もあるからさ』

靖子がお玉で味噌汁を掬いあげると、じゃらじゃら音がした。

『はい、味噌汁ね』

『うわ、これシジミ味噌汁』

音の正体はシジミの貝殻だった。

靖子が買ってきたのは、島根県宍道湖(しんじこ)のシジミだ。ヤマタノオロチ伝説で有名な斐伊川(ひいかわ)から栄養豊富な淡水で育った素晴らしいシジミなのだ。

『お父さんはアサリ派なんでしょ』

『そうよ。実が多くて好きだって』

噂をすれば影、久則が仕事から帰ってきた。疲れた様子はあまり感じられないが、七三分けが崩れていた。

『あなた、お帰り』ほっとした声で言った。

『おお、今日はシジミか』

靖子は、久則が左手に持っている波模様の紙袋に気がついた。

『それって、お返しの品』

『そうだ』と言って、袋からピンクの包装紙に包まれた土産物を取り出した。『春に因んで桜のタオルだ』

『食いもんじゃないの』

拓郎は不思議そうな顔をした。

久則は『うーん』とうねった。『気持ちは分かるけど、長く使えた方が良いかなって思った。』

『確かに、食ったら終わりだもんね』

拓郎は納得した様子で、シジミ味噌汁を一口飲んだ。『うまい』とご満悦だ。湖の旨味を感じた気がした。

『いや、分からないわよ』

靖子がクロスハンガーからふきんを取って、キッチン台を拭き始めた。

『どうした、なんか不満か』

久則が眉をしかめた。

『タオル、たべちゃうかも』ぽつんと言った。

ひどく真剣な面持ちだ。

『何を言っとるんだお前は』

家族は笑いに包まれた。



のんびりした午後1時、街路樹の桜もだんだん散ってきた。窓からは暖かい日射しが入り、貯金箱を明るく照らした。しかし、中身は暗いままである。課題を終わらせた拓郎は、長時間椅子に座っていたので、若干、足が痺れた。ときどき体勢を整えれば良いのだが、一度集中してしまうと他のことは忘れがちなのだ。今日は昭和の日である。ありがたい休みなのだが、とくにすることはないので、久則のお願いごとを叶えることにした。桜のタオルを杉浦家に持っていくことだ。拓郎は、身だしなみを確認するため鏡に顔を合わせた。良くみると、人中に髭が生えている。ほっとくとヒゲ親父になりそうだ。大人になった実感はあまりないが、身体の変化はひしひしと感じている。杉浦家は学校から近くにあるので、電車を経由することにした。杉浦家に訪問したのは、拓郎と同じ高校に入学したということで挨拶に行って以来だ。もう、約3年が経ったから、記憶があいまいだ。しかし、確実に覚えていることは、杉浦家の外観は和風である。

拓郎は、石畳の脇道をほっつき歩いていた。大きな街だというのに、あまり賑やかではなかった。商店街の人たちも暇そうである。ふと、上を見上げると銀の棒が目に止まった。下を見ると、和菓子屋だった。暖簾(のれん)には『饅』という文字が印刷されおり、透明なケース箱には、色とりどりの饅頭が並んでいた。

『あら、お客さんかしら』

緑の着物姿の女性が話しかけてきた。

『いえ、違います。美味しそうだなって、指咥えて見てただけです。』

女将は少し黙って『お試しに、お一つどうですか』と言って、店の奥に消えて行った。店内は薄暗く、どこか怪しげな雰囲気が漂っていた。

『はい。これ和三盆(わさんぼん)饅頭ね』

丸皿には、銘々皿の上に白い饅頭が一つ。その側には湯飲みがあった。

『ご親切にどうも』

ずうずうしいとは思いつつも、丸皿を受け取り、床几台(しょうぎだい)に座った。日差しがつよいが、野点傘(のだてがさ)が影をつってくれた。

一口食べて見ると、ほんのりの甘さが口の中をとろけ、瞬く間に消えた。断片をみると中身は白かった。

『めちゃくちゃ美味しいです。』と言って、ついでに茶も飲んだ。

『そう。良かった』

女性は上品に微笑んだ。着物姿ということもあり、教養も感じた。

『そういえば、和三盆って何ですか』

『分かりました説明しますね』

拓郎の隣に腰掛けた。女性の顔にはシワが見当たらなかった。年齢が20代にも40代にも見える。これが俗にいう、妖艶さなのだろう。

和三盆とは原料となるサトウキビを白くなるまで研がしてたものだと言う。『三盆』とは三度研がすということが由来しているのだそうだ。

拓郎は、視線を大通りに移すと、黒いハイネックトップスの少女が近づいてくることに気づいた。

『拓郎じゃん何してるの』

『みね子か、ちょうど良かった。君の家に用事があるんだ。』

『てことは、油売ってるの』

『いや……それが家が分からないんだ』と少々言うのをためらった。

『あれ、ずっと前来てなかったけ』

『忘れちゃった』

拓郎は清々しい顔で笑った。

『分かった。案内する』

拓郎の腕を掴んで、強引に立たせた。

『ちょっと待って』と拓郎がみね子を止め『最後に一ついいですか。屋根にある銀の棒はいったい何なんですか』と訊いた。

『あれはね』と立ち上がり、棒を見ながら『鯉のぼりの棒です』と答えた。

『美味しかったです。ありがとうございました。』

みね子は、拓郎の腕を引っ張っていった。




拓郎は鉄柵に手を立て、ひと休みした。石階段を登って体力を使ったのだ。みね子は軽々とかけ上がっていくから、女の子に負けるとは情けないと思った。

細い路地を突き抜けると、竹垣が見えてきた。杉浦家である。玄関口からは鹿威しが聞こえてきた。水道代はいくら掛かっているのだろうか。

インターホンを押して『すみません。三富です』と呼び掛けた。すると『はーい。いま行きます』と杉浦政子が高い声で返事した。

『あら、拓郎ちゃんにみね子。あなた連れて来たの』

羽織姿の政子が二人に近づいた。

『いや、拓郎くんが用事があるんだって』

拓郎は、さっそく波模様の紙袋を両手で手渡し『お返しの品です』と言った。

『ご丁寧に。ささ上がってちょうだい』

政子は玄関扉をストッパーが掛かるまで開け、(かまち)の上に立ち手招きした。

『いや、いいです』と拓郎は断ったが政子は引き下がる様子はなかった。

『そう、固いこといわずに、ささ上がってください』

拓郎はお言葉に甘えて門をくぐった。庭には、池が設けてあり鯉が泳いでいた。

『はい、これせんべい。チョコレートもあるからね』

政子はバスケットをちゃぶ台の真ん中においた。一つせんべいをかじってみると、甘醤油の味がした。あんまり甘すぎると、飽きが早くなるから、これくらいがちょうどいいと思った。

『お気に召したかしら。』

『とっても美味しいです。』

『そういえば、何のお返しなの』

みね子がリップを化粧ポーチに仕舞った。

『イチゴジャム』と端的に言って、今度はチョコレートを頬張る。滑らかな口溶けだ。これは生チョコだ。

『ジャムね……』

政子が何かを引っ掛かるような顔をした。

『そうだ。ただでイチゴ狩りに参加するというのはどうかしら』

『そんな、滅相もない。』

拓郎はあたふたしながら断った。

『まぁ、良いじゃない。こどもの日に開催されるから、拓郎もちょうど休みだし都合がいいはずよ。』

みね子が背伸びをしながら後を押した。

『そうよ』と政子が相槌し、『今年は豊作だって母も言ってもん。サービスってことで』と明るく言った。

『分かりました。お言葉に甘えさせていただきます』愉しげに応えた。

『ただし、条件があります。』

政子はみね子に視線を送り茶色い紙袋を拓郎の前に持って来させた。振ってみると、じゃらじゃら音がした。中身は粒状のようだ。

『これなんでしょうか』

拓郎はじっと眺めながら怪訝な顔をした。

『鯉のエサよ。帰るついでにやってください』

『そんなことで良いんですか。』

拓郎は狼狽した声を出した。

『はい。イチゴ狩りなんだけど、紹介はよしてして、三人までとさせていただきます。』

拓郎は紙袋を膝の横においた。

『ありがとうございます。両親に伝えときます。』

まさかこんなことになるとは拓郎は夢にも思っていなかった。お返しの品がたったの1000円程度のタオルってことに気づいたら激怒するかも知れない。しかし、やるっていったからにはドタキャンするのも杉浦家にとってはいい迷惑だ。

池庭にエサを投げると、鯉が一ヶ所に群がった。水しぶきがあちこちに飛んだ。面白いけど、それじゃあ食えない鯉もいるから、まんべんなくエサを投げた。

『あら、楽しそうね』

みね子が拓郎の側にたった。

『こんなのやるの初めて』

『拓郎くんって鯉のこと知ってる?』

『分かんない。野鯉を釣ったことがあるくらい』

拓郎はエサをすべて投げ終えた。

『うちの池にあるのは、昭和三色と孔雀、一番気に入ってるのは、金輝竜(きんきりゅう)だわ』

みね子の目が輝いた。

『ごめん、さっぱりわからん』

拓郎はトンチンカンだ。野鯉は美味しかったと言いたかったが、やめておくことにした。

紙袋をぺしゃんこにしてポケットに入れようとしたが『私が捨てるね』と言って、みね子が持った。

『悪いな、ありがとう』

『両親にもよろしくね』

『うん。分かった』

拓郎は、茶の間に見えた政子に一礼したあと、バス停に向かった。



拓郎はバスに揺られながら、久則にメールを入れた。仕事中だから返事はこないだろうと思っていたが、すぐに返信がきた。

『ありがとう。喜んでくれた?』

『うん。すごいことになったけど』

『すごいこと?』

『イチゴ狩りにタダで参加させてもらえるんだって』

『え、マジ』

やはり、久則もびっくりである。

『あれって1000円くらいのなんでしょ?』

『700円くらいだよ』

『さすがに草。ケチすぎるぞ』

『ま、控えめに収穫しよか』

『嘘つけ』

ドけちな親父である。靖子にばれたらこっぴどく叱られそうだ。彼女はひょうきんな性格だが、義理を重んじるところがつよく、無礼を働いたときは厳しく叱る。拓郎が友達から借りた本を借りパクしたときは、1日飯抜きになった。成績のことなど一切何も言わないのだが、人とのつながりは大切にするのである。

家に帰ると、さっそく湯船に浸かった。いつもはシャワーだけで済ませているのだが、今日はたくさん汗をかいてしまった。

風呂上がりに牛乳をコップ一杯飲み干した。次は、読書をしたいと思ったが、まぶたが重くて開かない。強烈な眠気に襲われた拓郎は、そのままソファに横になってしまった。起きると、そこには靖子がいた。時計には午後6時24分とあった。拓郎は毛布がかけられていることに気がついた。

『お母さん、ありがとう』

『風邪引くよ。だらしない』

靖子は夕飯の支度をしていた。カーテンは夕日に染まり、長い影ができていた。

『いつ帰って来たの?』

『4時くらいかしら。今日は仕事が早かったのよ』間延びした口調で言う。

『びっくりするこというよ』

拓郎は羽毛布団を綺麗にたたみ、押し入れの中に仕舞いこんだ。

『なにかしら』靖子が作業をやめて、テレビをつけた。画面には、報道番組が映し出された。

『ただでイチゴ狩りに参加させてもらうことになった。こどもの日にね』

『嬉しいけど、私予定ある。』

靖子が包丁を持つ手を止めた。彼女の顔はとても悔しそうだ。

その時、玄関扉を叩く音がした。不審に思った靖子がドアアイから覗くと、そこには久則がいた。

扉をあけると『すまない、家の鍵を忘れちゃった』と、とぼけた口調だ。

『びっくりしたじゃない。』

靖子はキッチンに戻り、三角コーナーにニンジンの皮を捨てた。

『私ね、社員旅行があるのよ。いつも断ってだけど、同僚の押しに負けちゃったわ』

『その気持ち、めちゃ分かる』

拓郎が大きく頷いた。今日は、いろんなところで先手を取られてしまった。

『あなたは、今日の奇跡、知ってるかしら?』

鍋を煮込みながら、後ろを振り向く。

『拓郎からメールで知らされた』

久則はスーツを脱ぎ、ワイシャツ姿になった。

『じゃあお父さんいく?』

『是非行かせてくれ、送迎もできるからもってこいだ。』

そう告げて、風呂場に向かった。

『あと一人、迷うよな。』

拓郎はとつおいつした様子で、招き猫のアームを引っ掻いた。

『まぁ、こどもの日までには時間がある。相手の都合も含めてゆっくり考えなさい。』



まずはウォームグレーで果実の形を型どり、濃淡をつけ立体感を出す。次にイエローウォーカーで密に下塗りする。そして、カーマインで縦縞を丸みに沿って描いていく。最後にウルトラマリンで陰影をつけ質感を出した。リンゴの完成だ。本物とも見間違えるほどの出来映えだ。しかし、当の本人は、あまり納得がいかないないようである。

拓郎は、お気に入りの色鉛筆を抽斗に閉まった。この色鉛筆は三菱ペリシアである。かなり値が張ったが久則におねだりして買って貰った。

時刻は午後11時である。デスクライトだけが部屋を照らしていた。9時半から作業を開始したので、1時間30分かかった。

拓郎は、大きく背伸して、あくびをする。眠たかったのか目にちょっぴり涙があった。拓郎は熱い頬を手のひらで冷まし、最後の照明を切った。おもむろにベッドに入るとと"ピコン"とメールの音がした。確認してみると、薫からである。アドレス交換してから初めての連絡が来た。

『ゴールデンウィーク、遊べるなら一緒に遊びたいな』とあった。

ちょうど良かった。このイベントは、薫との仲が深められる良いキッカケになる。

『うん。一緒にイチゴ狩りいこ』

『行きたい。費用は二人で半ぶっこするか』

『ななんと、タダでーす』

『まじか!!!』

『詳細はみね子さんにまた訊くので、今日はお休み(-_-)zzz』

拓郎はスマホの電源を切って、すぐ寝た。絵でだいぶ体力を使ったみたいである。




"ピンポーン"

『ちょっと拓郎、お友達が来てるわよ。』

拓郎は急いで階段を駆けおり、玄関に向かった。そこには、農作業服の薫がいた。端正な顔立ちからか、昔の古いオシャレのような感じがした。

『よう。拓郎、来たぞ』

『君が薫くんか、よろしくね』そう言ったあと、麦わら帽子を二人に渡した。

『二人とも門の辺りで待ってて』

久則は車庫からトヨタ・クラウンを門の前に移動させた。今年の3月に借金がすべて返済したそうで、心置きなく乗れると大喜びした。

『二人ともチケット持ったかな』と久則が車内の荷物をバンパーに詰め込みながら訊いてきた。

拓郎と薫はポケットの中を探って、"杉浦いちご狩り農園"と書かれたチケットを取り出した。一番早かったのは、薫だった。

久則は、二人を後部座席に乗せて、エンジンをかけた。靖子がエプロン姿で『言ってらっしゃい』と手を振った。高級車は公道を颯爽と走った。

薫は思ったより静かで口を開かず、窓の景色を眺めていた。拓郎は、バッグミラーの眼光に気がついた。

『ねぇ、薫くん。』

薫は落ち着いた表情で姿勢をただし『なんでしょうか』と応えた。

『うちの拓郎ってどう』

『とっても良い友達です。困ったときも色々世話になりました』

『そうか』と久則は微笑んだ。

バッグミラーの目線は優しかった。拓郎も友達にそこまで褒められたことがないので、嬉しくなった。

『ところで、どうして転校してきたの』

なんてセンシティブなことを訊くんだと拓郎は久則を止めようと思ったが、すでに薫の口は開いていた。

『母親が転勤したからです』

薫は淀みなく応えた。

『ありがとう』と一言いって、久則は缶コーヒーブレンドを飲んだ。

都会を抜け、山道に入った。くねくねしている。どうやってこんな道路を造ったんだろうと拓郎は不思議に思った。ガードレールの外側は断崖絶壁である。落ちたりでもしたら大変だ。怖くなって、扉から身を引いたら薫に触れた。すぐさま離れたが、左手をつよく握られ引き寄せられた。手がとても冷たい。拓郎は、顔で訴えかけようとしたが、薫は何食わぬ様子で、あっちの方向を向いていた。

無事に峠を越え、農村地帯に入った。道路の舗装があまりされておらず、車がかちゃかちゃ震えた。林を抜けると、そこには菜の花が一面に広がっていた。黄色い絨毯が風に従い靡いていた。

『さぁ、ついたぞ。帽子を被るんだ』

なんと久則は、みね子の実家の駐車場に車を止めたのだ。なんて厚かましいんだと拓郎は思った。

『どうも、こんにちは』

菊子に声をかけられた。縁側で正座しており、編み物を織っていた。

三人は挨拶し、久則が『この度は、無理を言ってすみません』と帽子を取って、深く頭を下げた。

『いえ、良いんですよ。ところで、傍らの少年は、お子さん?』

『一人が私の息子で、もう一人がその友達です。』

『二人とも、遠慮しないでたくさん食べてってちょうだい』枯れた声で言った。

小さな目が深いシワをつくり、にっこりと瓜のように小さい歯を見せた。

二人とも『ありがとうございます』と会釈した。

久則が言うには、本来、一般参加者が駐車するのは、ここから徒歩15分くらいのところなのだと言う。しかし、人が多く駐車がめんどくさいと言うことで、ダメもとで杉浦家に問い合わせたのである。思いの外、あっさり許可をもらったそうだ。

会場には人がたくさん集まっていた。一見すると家族連れが多いように見受けた。三人はチケットを取り出し、行列に並んだ。こちらに気づいた子供二人が、指をさしニヤニヤ笑っていた。

『あの家族ガチ勢だろ』

『ワロタ。汚れる要素は特にないって』

会話に気づいた拓郎は穴があったら入りたい気持ちになった。二人はどうかとみると、久則は麦わら帽子を深く被り、薫も白い肌をぽっと赤く染めた。

『どうする』

拓郎が消え入るような声で訊いた。

『このままいく』

つぶやき声で返事した。

『はーい。確認が終わりました。みなさん、静かにしてください。』

政子の声が聞こえた。ビールのメッシュコンテナの上に乗っていた。みね子が言うには、前回までは菊子が進行を務めていたが、去年の冬頃に腰を悪くしてしまい、今年は政子が務めることになったと言う。

『お持ち帰りはOKですが、私達が用意したカゴに入れてください。それ以外は認めません。皆さん、チケットをみてください。A.B.Cのいずれかのアルファベットがあると思います。各々のビニールハウスに入ってください。制限時間は1時間です。それでは、お楽しみください。』

拓郎と薫のチケットはCで、久則はAだった。薫は嬉しさを隠し切れていないようでだ。拓郎は『何でニコニコしてるの』と訊いたが、無視された。

久則は小躍りして、Aのビニールハウスに入った。

ビールハウスにはイチゴがたくさん実っていた。拓郎は小学生の頃、イチゴの栽培に挑戦したことがあったが、そんなものとは比べものにならない仕上がりだった。拓郎は近くにあったイチゴを一つ摘み取り、先端から食べた。みずみずしくて甘い。拓郎は、ほっぺたが落ちそうになった。イチゴ狩りの問題として、先端だけ食ってそこらに棄てる不届き者がいるそうだが、拓郎はきちんとヘタ以外は食べた。

『なあ、拓郎。美味い?』

薫が拓郎の口元を見た。

『めっちゃ美味しい早く君も食べなよ。』

『分かった。』

大きなイチゴを一つ取って食べた。白と赤、なんか似合う。そして、ちょっとセクシーだと思った。

『甘いね。拓郎みたい。』

ニヤリと拓郎をみた。

『ちょっと何いってるの』

気がつけば、薫の頭に軽いチョップをかましていた。

『友達にそんなことしちゃいけないぞ』

『分かってるけどさ』

複雑な気持ちになりながらもイチゴをむしゃむしゃし続けた。ハウスの奥にとりわけデカいイチゴを発見した。食べて見たいと思い拓郎は行こうとしたが、薫に腕を掴まれてしまい、阻まれた。

『なに、どうしたの?』

『こい…友達置いてくなんてヒドイ』

子供っぽい口調で言ったが、顔は恐ろしく無表情で拓郎は怖いと思った。

『ほら、口開けろよ』

拓郎は、ほっぺたをギュット掴まれ、大きなイチゴを入れられた。

『お、美味しいよ』

拓郎は怯えた目で、薫の顔色を伺ったが、いつもの表情に戻ったようだ。

『そう。なら良かった。』

拓郎はイチゴを採ろうと思ったが、なぜか左手が上がらなかった。

『ちょっと、腕離してよ。』

拓郎は左腕を引いたが、とても力がつよくてビクともしなかった。薫の腕は拓郎の腕よりずっと太く筋骨質だった。喧嘩でもしたら、すぐ負けるだろう。

『いや。』

舌をベーと出した。赤いのはイチゴのせいなのか、もともとなのかよく分からない。

『結構いじわるなんだね』

できる抵抗として、拓郎は嫌味を言ったが、まったく動じなかった。

『そんなことない。人をほってこうとする拓郎が悪い。』冷たい声で言った。

鋭い目付きで、拓郎を睨んだ。

『何言ってんの…んんっ』反論しようとしたが、またイチゴを突っ込まれてしまった。今度は大きいのを二つである。

『もう、吉村…』

今度は、薫が口をアーンと開けていた。拓郎は無視したが、一向に口を閉じる気配がないので、仕方なく入れることにした。

『美味しい。さっきよりも格段に甘くなった。』快然たる声を出した。

『何言っての吉村』

薫の目は甘々になっていた。

『なあ、交互にやろ』と薫が要求した。きらきらした瞳にたじろんだ拓郎は、しぶしぶ承諾した。

『ちょっと、なにあの二人』

『見せつけてやがる』

遠くにいた女子が、二人のことをバカップルだと思ったのか、笑っている。

『ちょ、吉村。やめよ』

拓郎は身のおきどころがない気持ちになり、必死に頼んだ。

『やだ。さっきチョップしたバツだ。痛かった、頭がかち割れるかと思った。』

頭を押さえて、痛々しく見える芝居をした。俳優なら、新人男優賞を取れるかも知れない名演技だ。

『そんな大げさな。いちごも潰れない程度だぞ』

『人の気持ち考えろ。拓郎、冷たい。』

薫が『エンエン』とわめき、嘘泣きを始めた。涙は一滴も流れなかった。

『も、分かったよ。』

拓郎が右手で薫を揺さぶった。薫が拓郎の口元を人差し指で、イチゴのカスをなぞり取った。拓郎は慣れない感触に寒気が立ってしまった。

『めちゃ美味しい』

薫が至福の時を迎えたような顔をした。

『ちょっと……あの』

『あんまりうるさいと違うの咥えさせるよ。泣いても許さない』おっかない声で言った。

拓郎は違うのってなんだろうと考えたが、本能が考えない方がいいよと言っているような気がした。

二人の行為は終了まで続いた。

『どうだ腹一杯食べれたか。』

久則が頬がゆるみっぱなしで訊いてきた。

『はい。最高に美味しかったです』

薫は幸福に満たされた表情だ。一方の拓郎は、いじけていた。

『薫くん。君の家まで送っていくよ。』

『ありがとうございます。』

『息子と仲良くしてくれてありがとう。』

久則は、目覚ましドリンクを一気に飲み干し、ハンドルを握った。なんだかかんだ言って、三人とも腹いっぱいだから、眠たそうだ。拓郎は怒って、薫に目線を合わせなかった。最初にノックダウンしたのは薫だった。拓郎の膝の上に頭が載った。どうせわざとだろうと思ったが、ちゃんと寝ていた。睡眠を邪魔するのはさすがに可哀想だと思い、そっとしておいた。



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