第8話 スリー・キャッツ・ナイト
音を立ててパタパタとはためく白い防護シート、それを結索する番線と支柱の鉄パイプも風にあおられてカチャリカチャリと金属的なノイズを響かせる。8月にしてはやけに冷たく強い風が夜の街を吹き抜ける。
午後の天気予報がしつこいくらいに深夜からの天候悪化を叫び続けていた。その影響あって、今宵の公園にはめずらしく人影は見当たらなかった。そして公園の向こうに見える場末の通りに佇む古ぼけたビルの周囲からもすっかり人の姿は消えていた。
日中に蓄積された熱もすっかり冷めてしまったアスファルトを青白く照らす街路灯の光、その舗道の上に3つの黒い影が映る。湿気を帯びた粘度の高い風が三人の頬を撫でて銀色に光る髪を揺らす。
シートに覆われたビルの前に立っていたのは、メイド服に身を包んだ銀とミーシカ、そしてコーシカだった。三人はそろって目の前の小さなビルを見上げた。
銀は風に吹かれるシートを見ながら回想する。
一定のリズムを刻むシートの揺れがスピーカーに向かいタクト振るように右手でリズムを刻む初老の紳士の姿と重なる。いつしか古いSPレコードが奏でるプツプツとしたノイズ混じりの交響曲が店の中に響き渡る。
「レコードはレコード、生のコンサートホールには勝てん。ならばSP盤の針の音も客席の咳払いみたいなものと考えればレコードならではの臨場感がでるものさ」
初老の紳士は流れる曲に合わせて腕を振りながら客席を巡ってはそんなウンチク混じりの雑談を交わすことがなによりの楽しみだった。こうして美しい猫とともに名曲に耳を傾けるその紳士こそが名曲喫茶「古城」の名物オヤジだった。
やがて流れる楽曲は重厚なクラシックから軽快な伴奏に変わっていく。ギターとアコーディオンが軽快なリズムを刻む。満席の店内はさながら集会場のようで、立ち見まで出る客たちの手にはガリ版刷りの歌集が渡されていた。
学生や若い労働者に混じって中高年の男女もみな伴奏に合わせて肩を揺らす。
「さあ、みんな! 今日も元気に歌いましょう!」
巨大なスピーカーに代わって小さなアンプからマイクを通したリーダーのハツラツとした歌声が流れる。その声に合わせて皆が歌い始める。やがて店全体がひとつになって大団円を迎える。それが歌声喫茶「古城」の毎日だった。
インテリゲンチャの老人も闘士を気取る血気盛んな若者もここでは共に肩を組んでひとつになる。ロシアの文化よりもソビエト的思想が幅を利かせていたあの時代、客のひとりに名付けられた二匹の猫はそこを訪れる誰からも可愛がられる店のマスコットになっていた。
大容量のスピーカーから流れる音はノイズ混じりの交響曲でも軽いリズムのフォークソングでもなく、今では深みと奥行きのあるウッドベースとピアノが紡ぐスイングやビバップに変わっていた。カウンターの中では名物オヤジに代わってヘアクリームで髪を整えた中年の男性がサイフォンを並べてコーヒーをいれている。
落ち着いた雰囲気のウェイトレスが時折小さなメモ紙を男性に渡す。そこには客からのリクエスト曲が書かれていた。男性はその紙を一瞥するとスピーカーの奥にある棚からLPレコードを取り出してそれを店内の客たちに見せるように掲げた。
客たちはたばこの紫煙を燻らせながら本を読む者、目を閉じて曲に聴き入る者、リズムに合わせて肩を震わせる者、しかしみなおしなべて無言でそれぞれの世界に没頭していた。
時代が移り、一丸となって獲得する自由から個を尊重する自由へ、それに合わせて店の名も「古城」からジャズ喫茶「キャッスル」へと変わっていた。
銀の脳裏に響いていた軽快なフォー・ビートのリズムが風に震える単管足場から発せられる金属音とオーバーラップする。回想から覚めた銀はゆっくりと目を開く。しかし目の前にあるのは思い出深いあの店ではなく、すっかりとシートに覆われた無表情なだけの建物だった。
銀の目から一筋の涙が流れる。そして銀は後ろに立つ二人に向かって絞り出すように言った。
「ここは……いえ、こここそが私たちの場所なのです。だから私たちで守るのです。ミーシカ、コーシカ、準備はいいですね」
「はい、姉さま」
ミーシカとコーシカは双子らしくそろった声で答えた。
銀は小さく頷くと両手に着けた白いグローブを脱いでそれをエプロンのポケットに収めた。銀にならって後ろの二人も同じようにする。
そして三人は外科医が手術の前にするように両手を胸元に上げ、掌を自分に向けて構えた。街路灯に照らされて白く浮かび上がる10本の指先、いつしかそこには20センチメートルほどの研ぎ澄まされた刃が伸びて、キラリと冷たい光を放っていた。
「ミーシカはあのシートをお願いします。鉄パイプは私にまかせなさい。そしてコーシカ、あなたは周囲に注意を払って。もし人が来たら……」
「はい……承知……してます。少し……少しだけチクッっと……」
銀の命令にいささか緊張気味のコーシカにミーシカが双子の姉らしく声をかけた。
「大丈夫だよコーシカ。コーシカは強いし、それにいざとなったら銀姉が助けてくれるって」
「う……うん、ありがとう、ミーシカちゃん」
そして銀は軽く息を整えると刃をビルに向けて身構えた。
「さあ、行きますよ!」
「はい、姉さま!」
三人がそれぞれのポジションに向かって踏み出そうとしたその瞬間、三人の耳に野太い男の声が響く。それは夜のビルに反射してひときわ大きく聞こえた。
「それくらいにしておきな、お前たち!」
銀とミーシカは声の主を探して周囲を警戒する。コーシカは見えない相手に対して威嚇するように刃を向けて身構えた。
「そんなことをしたってどうにもならんことは姉さん、お前さんが一番よくわかっているだろう。そもそもワシらノラは人間と共存してこそだ。とにかくその物騒なもんを引っ込めるんだ」
銀はビルの向かい、公園の入口に座る大きな三毛猫を見つけた。銀は構えていた腕を下ろすとその猫がいる公園の入口の前に立つ。銀の指先から伸びていた刃もいつの間にか消えていた。銀の後ろに並ぶミーシカとコーシカの指先からも物騒な光は消えていた。三人はそろってエプロンからグローブを出すと再びそれを身に着けた。
「よし、それでいいのだ。人間と争ってもロクなことにはならん。役所がワシらを駆除するいい口実にされるだけだ。ましてや工事現場を荒らそうなど、言語道断!」
大きな三毛猫の諭すような口調の最後だけが突然、一喝するかのように強まった。その語気に三人のメイドは肩をビクつかせると、一気に緊張が解けたのかすっかりうなだれてしまった。
「そうがっかりするな。こんなとき人間はこういうのさ。捨てる神あれば拾う神ありってな」
三毛猫は前足を前に出して大きく伸びをしてから長い尾をゆらりと揺らして公園の奥を見るように立ち上がった。そして再び諭すような口調で茫然と立つ三人に向かって言った。
「とにかく黙ってワシについてきな。悪いようにはしないから」
そのときようやっと銀が口を開いた。
「あの……」
「ワシのことはミケでよい」
「ミケ様、私たちはこれからどこへ」
「N市を知っているか。そこにお前さんたちの面倒を見てくれる連中がおる。お前さんはもう会ってるだろう、狐と浮遊霊を連れた人間に」
「あっ……」
「あの人間がな、ここいらの王様なんて呼ばれてる、まあ地域の本部長みたいな奴なんだが、そいつにお前さんたちの話をしたようだ。それでここいら一帯をシメてるワシに話が来たというわけだ」
「あの方が……」
「そういうことだ。あとは連中にまかせておけば悪いようにはならないだろう。さあ、行くぞ。これからお前さんたちにはちょっとした長旅が待っておるのだからな」
ミケは尻尾を揺らしながら公園の奥に消えていった。
路面に映る三人のメイドの影は一瞬にして小さな三匹の猫の影に変化した。そしてライトグレーの柔らかな被毛をまとった三匹はミケに遅れまいと慌ててその後を追う。街路灯の光をその身体に鈍く反射させながら。