第27話 忌み嫌われる存在
尾野一太との奇妙なチャットの翌日、そこで交わした約束の日を明日に控えながらもヒロキは引継ぎ資料の準備を進めていた。
軽快な打鍵音だけが響く研究室、ヒロキは目の前のターミナル画面に集中しながらも、しかし自分の背後にどこか懐かしい気配を感じていた。
「よもぎか? 研究室に出てくるなんてめずらしいじゃないか」
「うん、今日は先生もいらっしゃらないし、いいかな、って」
「そうか……ところで九尾はどうした? いつもくっついて来るのに」
「なんか、気分じゃないみたいです」
「ふ――ん。ま、いいか、静かで」
ヒロキが操作を再開するとよもぎが興味津々な体で画面を覗き込む。肩に触れるよもぎの手からほんのりとした温かさが伝わってきた。
よもぎは霊体であるのになぜ温かさを感じるのか。しかしそんな疑問はヒロキにとってはどうでもよいことだった。なにはともあれ、彼女の言葉を借りるならば「よくわからないけど、きっとそういうもんなんですよ」だ、とにかくよもぎは出会った時からそうだったのだから。
「ヒロキさん、ヒロキさん。よもぎ見たことありますよ、これ」
「マジか?」
「マジです。よもぎの学校にマイコン部があって、そこの人たちがこんなのやってましたよ。よもぎもひとつだけ教えてもらったんです」
よもぎはヒロキの身体をすり抜けて前に出ると、すぐに実体化してキーボードからd、i、rの三文字を打ち込んだ。「えいっ」とEnterキーを押す。しかし画面に現れたのはエラーメッセージだった。
「あれ、おかしいなぁ」
首を傾げるよもぎをよそにヒロキはlとsの二文字を打ち込むと、黒い画面にファイルの一覧が白い文字でずらりと表示された。
「よもぎがやりたかったのはこれだろ? このOSではdirじゃないんだ」
「そっか、よもぎが死んじゃってる間にコンピューターも進化したんですね」
「いや、進化じゃなくてOSが違うんだけど……」
そんな他愛のない会話にヒロキはふと懐かしさを覚えた。
そう言えばよもぎと出会った頃は毎日がこんな感じだった。とにかく見るもの触るもの、いちいち質問したかと思えばあっさりと順応してしまうのだ。なにしろスマートホンを依り代にして、画面の中から手を振って見せたのだから。
そんなことを考えながら画面で点滅するカーソルをぼんやりと見つめていると、ドアの向こうから慌ただしい靴音が聞こえてきた。実験実習を終えて白衣を羽織ったままの可憐が呼吸を切らせながら入って来る。
「ハァ、ハァ、ごめん、実験が長引いちゃって」
「よくることだよ、気にするなって。とりあえずお茶でも飲んでひと息つけよ」
「あ、よもぎちゃんも出てきてる。なんか久しぶりね」
可憐は着ていた白衣を脱ぎながらよもぎに小さく手を振った。
「へへへ、今日は外の空気を吸いに来ました」
「ところでよもぎちゃん、九尾はどうしたの?」
「出て来る気分じゃない、って」
「そう。それなら私が呼んでみるわ。九尾、あなたに教えて欲しいことがあるんだけど、出てきてくれないかなぁ」
しかしよもぎの胸に下がる勾玉が輝くことはなかった。続いてヒロキが呼びかけるも、やはり勾玉に反応はなかった。
「ではでは、今度はよもぎがチャレンジです」
よもぎは勾玉を口に当てて、まるでトランシーバーのように呼び掛けた。
「九尾さん、九尾さん、こちらよもぎです、応答願います」
反応がない勾玉に向ってよもぎはなおも呼びかける。
「応答願います、応答願います。シカトはいけませんよ、応答願いま――す」
すると手にした勾玉がまばゆい光に包まれる。幻惑された三人の視界が戻ったとき、そこにはいつものように居丈高に腕組みして立つ九尾の姿があった。
「え――い、騒々しいのじゃ。それによもぎの小芝居も片腹痛いわ」
九尾は開口一番そう言うと、三人を前にして不機嫌な顔で続けた。
「汝れらが聞きたいことの察しはついておるがの、じゃが、そもそもは他所様の家庭の事情、放っておくがよいのじゃ」
「だけど九尾、今回はオレたちにも関係があるだろ。現にこうしてオレも可憐も巻き込まれてるわけだし」
「フン、そんなもの巻き込まれてるうちには入らん。そもそも汝れらは危害も何も受けておらんじゃろ。よいか、これ以上の深追いはやめておくのじゃ。これは妾からの忠告じゃ、ありがたく受け……イタッ、よもぎ、なぜチョップなのじゃ!」
今度はよもぎが厳しい顔つきで九尾を睨みつけた。
「九尾、あんたの知ってることをヒロキさんと可憐ちゃんにお話ししなさい。さもないと……」
よもぎは冷徹な表情と眼差しとともに胸に下がる勾玉をつまみ上げた。
「わ、わかった、わかったから、まずはそいつから手を離さんか。さすれば汝れらが知りたがっていることを話してやるのじゃ。ただし妾が知る限りじゃがな」
九尾は取り繕うように軽く咳払いすると、記憶を呼び起こすように宙を見つめながら話し始めた。
「オサキ、それが彼奴らの正体じゃ。上州あたりに伝わる低級な連中じゃがそれなりに長生きしておる故、今では妖怪にでもなったつもりなのじゃろう」
「ってことは尾野先生はその妖怪に憑りつかれてしまったわけか」
「憑きもの屋の話は前にしたじゃろう、オサキは人ではなく家に憑くのじゃ。あの男は尾野家の長男坊、言わばお家の跡継ぎじゃ。それがこんなところで学者の真似事なんぞしておるのじゃ、彼奴らも心中穏やかではなかろう」
「そう言えば私も聞いたことがあるわ、オサキがいる家は栄えるって。でもお礼とかお祀りを怠ると大変なことになるらしいわ。それに……」
そこまで話した可憐が口ごもる。
霊的な存在、それは如何なる理由があろうとも周囲からは奇異な目で見られてしまう。それが子どもの世界ならばなおのこと、かつてシロが憑いていることで孤立を余儀なくされた可憐にとって、一太がかつて体験したであろうことは実感として理解できてしまうのだった。
「どうしたんだ、可憐」
「可憐ちゃん、どうしたの?」
困った様子の可憐を横目に九尾が後を続ける。
「オサキ持ちは忌み嫌われるのじゃ、まともな縁談もありゃせん。同じ憑きもの筋の娘を娶るしかないのじゃ、自ずと血も濃くなるじゃろうて」
「尾野先生が子どもの頃は避けられてたってのはいじめなんかじゃなかったんだ。でもそれって一種の差別じゃないか」
「ヒロキ、これは私の想像なんだけど、尾野先生って小野じゃなくて尾野でしょ。そのあたりも何か因縁めいた理由があるんだと思う」
「そうか、なんとなく見えてきたぞ。尾野先生、田舎に帰らずに研究者を目指しているのって、そんな因縁を否定したかったんじゃないかな」
「かも知れないわね、私もヒロキと同じ考えよ」
「大方、尾野家の当主が病に臥せったかで慌てたのじゃろうよ。まさに形振り構わずじゃ。なにしろ女子供まで犠牲にしておる、あれではあの男の道は断たれたようなもの、詰めの甘さは否めんが追い込み方としてはまずまずじゃな」
「でもでも、よもぎはあの子たちはそんなに悪い子に見えなかったんです」
「所詮モノノケの浅知恵じゃ、此度の騒ぎは彼奴らがなんとしてでもあの男を連れ戻そうとしてのことじゃろう。それにしても、チトやり過ぎじゃったな」
すっかり冷めてしまった茶をすすりながらヒロキが九尾になおも問いかける。
「ところで九尾、その、オサキってのにはどんな能力があるんだ?」
「知らん」
「知らんって……九尾、もし尾野先生に何かあったら……」
「心配無用じゃ、オサキがオサキ持ちに手を出すことはないのじゃ」
「でもノンコちゃんは倒れたし、秋津先生だって入院……そうだ、電気だ。九尾、オサキは電気を操るのか?」
「知らんものは知らん。とにかく妾も伝承以上のことは知らんのじゃ」
ヒロキと九尾の会話を聞いていた可憐が続ける。
「ねえ九尾。私も少しだけど聞いたことがあるわ、オサキの話。確かあなたが成敗されたときに抜け落ちた体毛から生まれたのよね」
「なんだ、やっぱ九尾の関係者じゃないか」
「妾の抜け毛のことなんぞいちいち覚えておらんのじゃ。ヒロキよ、汝れはこれまでに朝の枕に散らばる己の髪の毛の数を覚えておるのか?」
「う、うるさい、オレは禿げてない」
「じゃが連中もそれなりの時を生きておる、何か芸当のひとつくらいは持っておるじゃろうがな」
九尾はそこまで話すとプイッと横を向いてしまった。
「それより問題は明日だ。渡すものを渡してそれで済むとは思えないんだ。万一に備えて準備をしたいんだけど、とにかく相手の情報が少な過ぎる」
「できることだけしておきましょう。特に電気について」
「そうだな。とりあえず厚手の服を着るくらいしか思いつかないけど」
「ヒロキさん、可憐ちゃん。明日は出かける前にキャッスルでお昼しませんか。そこで作戦会議です」
すっかり黙り込んでしまった二人を気遣うようによもぎが提案する。
「きっといいアイディアが浮かびますよ、ね、そうしましょ」
そしてよもぎは何かを始めるときにいつもそうするように、おどけた敬礼をして見せた。