第24話 異変の正体
恥ずかしながら13か月ぶりの最新話公開です。
本章はすでに終幕まで書き終えておりますので、これから日々公開してまいります。
もし未読の方は本章の初回、第57話もぜひお読みください。
未だ熱を帯びたままの正イオン測定器が発する静音ファンの微かな音、それが祭りの後のようなセミナールームの静けさをより一層強調していた。その傍らに放置された尾野一太愛用のノートPCではスクリーンセーバーの面白くもない文字列が画面に浮遊している。実験の舞台となったテーブルはすっかり片付いていたが、そこにあったはずのコックリさんの文字盤だけが無造作に破かれた状態で床に散乱していた。
「どうしちゃったんだよ、尾野先生……」
医務室から戻ったヒロキはその様子に釈然としない気持ちを抱きながらも、黙々と後片付けを始めた。
スクリーンロックを解除するパスワードがわからない一太のノートPCはそのまま閉じる。続いて重量級のバッテリーを積んだ測定器の電源を落とすとそれを背負子に載せてチェーンで固定する。あとは床に散乱する文字盤の残骸を集めればいいだろう。
それにしてもあの娘たちにどうやってお詫びをしようか、ヒロキはこれからのことを思いながらため息をついた。
それはつい先ほど、医務室でのことだった。
「ここからは女子だけよ。ヒロキはセミナールームの片付けをお願いね」
過呼吸の症状を見せていたノンコを無事に送り届けたヒロキは可憐からそう言われて部屋を追い出されてしまったのだった。
それにしても腑に落ちないことばかりである。
あの娘の症状はセミナールームを出てエレベーターに乗り込む頃にはすっかり回復していた。万一を考えてベッドに寝かせはしたものの、あの様子ならばすぐにでも帰ることができるだろうというくらいに。
それにもうひとつ気になったのが可憐の態度だった。苦しむノンコを介抱しようと差し伸べた腕を慌てて引っ込めたのをヒロキは見逃さなかった。そう、あのとき彼女が何かに躊躇していたのは明らかだった。可憐に「見える」能力があることをヒロキは知っている。やはり霊的な何かをあの場で感じたのだろうか。
そしてほんの一瞬、それもたった一言だけを残してすぐに消えてしまった九尾の態度、それにあれだけの騒ぎの中で気配すらも感じさせなかったよもぎはどうしてしまったのか。
いったい何が起きているのだ、それも自分の周囲で。
ヒロキにはよもぎと九尾が憑いている。にもかかわらず霊的な何かを感じることすらできない自分にこれほどの歯痒さを感じたことはなかった。
ルームの片付けを終えてヒロキが研究室に戻ろうとしたちょうどそのとき、可憐が医務室から戻ってきた。
「可憐か……どうだった、ノンコちゃん」
「熱もないしこれと言った異常も見られないし、とりあえず帰ってもらうことになったわ。念のために今日か明日にでも病院に行くって条件付きで。秋津先生がタクシーで送っていくって」
そう言いながらヒロキの目の前までやって来ると、可憐は腕組みしたままその周囲をざっと見渡した。
「今はもう異常はなくなったみたいだけど、あれから何か変わったことはあったかしら?」
「ああ、それが……」
ヒロキは医務室からここに戻ってきたときのありさまを可憐に話した。
「機材の電源がそのままだったのはわかるんだけど、あの娘たちの文字盤が床に破り捨てられてたんだ。まさか尾野先生がそんなことするとは思えないんだけど、とりあえずこの荷物を研究室に置いたら先生に直接聞いてみようと思うんだ」
二人の会話を遮るように静まり返ったセミナールームに聞きなれた声が響き渡る。
「ムダじゃ、ムダじゃ」
ヒロキが声の方に振り向くとそこにはトレードマークのメイド服に身を包んだ九尾が長机にちょこんと座って、すべてを見透かしたように不敵な笑みを浮かべていた。その隣では制服姿のよもぎが心配そうに二人を見つめていた。
九尾は机に座ったまま怠そうに足をぶらぶらさせている。
「彼奴はもうここには居らんのじゃ」
「それって、尾野先生ことか?」
「そうじゃ。汝れが娘どもを連れて出たときに妾とよもぎはここに残っておったのじゃ、ちと気になることがあってな。したらば彼奴め、ここに戻ってきたはいいが、まあその、いろいろあってな、先に帰ったのじゃ」
「ここに残ったってことはよもぎの指輪を使ったのか?」
ヒロキの問いによもぎが右手の甲をこちらに向ける。その中指では金色の指輪が鈍い光を放っていた。
「妾が居れば汝れと離れてもしばらくならばなんとかなるが、まあ、せっかくだし法具の力を使ってみたのじゃ。あの獄卒め、なかなか気の利いたものを残していったものじゃな」
「ところで九尾、おまえ今、話をぼかしただろ」
「何がじゃ」
「いろいろあって、って言ったじゃないか。そのいろいろって何だよ」
「それはまあ、いろいろじゃ」
口ごもる九尾はさておいてヒロキはよもぎに話を向ける。
「よもぎ、おまえも見てたんだろ。何があったんだよ、教えてくれ」
すると机に座っていた九尾が「よっ」と一声上げてそこから飛び降りるとヒロキと可憐の側までやってきた。まるでその心中を探るような視線とともに腰に手を当てて可憐を見上げる。
「可憐よ、汝れには見えたのじゃろ?」
「……」
「答えるのじゃ、見えたのじゃろ?」
「ええ、見えたわ。あれは何だろう、黒いこんな大きさの、ネコ……ううん、違うわ、あれは……」
両手を肩よりも狭い幅でその大きさを示す可憐の下によもぎもやってきて話を続けた。
「そうです、そうです、ネコちゃんよりも小さくて、ネズミじゃないですよね、なんでしょうあれは」
「よもぎちゃんにも見えたのね。あれは、そう、フェレットとか……そうか、ひょっとしてイタチ?」
「そっか、イタチさんだ。うん、可憐ちゃんの言うとおりかも。それに三匹いましたよね、イタチさん」
「その通り、あの三匹が小娘たちの一人に憑りついたのじゃ。突然の過呼吸も彼奴らの仕業じゃ」
「それにしてもヒロキがノンコちゃんを背負って廊下に出たときにはもうあの気配はなくなってたし、だからかなぁ、エレベーターに乗った頃にはすっかり回復してたのはヒロキも見てた通りよ」
九尾、よもぎ、可憐の三人の会話を黙って聞いていたヒロキもここで話に加わる。
「と言うことは、今日のあの騒ぎはイタチのような動物霊の仕業ってことか。あの娘たちはコックリさんでタチの悪い低級霊を呼び出してしまったというわけなんだな」
「違うのじゃ」
「違います」
「違うわ」
三人の声が揃ってヒロキの論を否定する。思わずたじろぐヒロキを横目に九尾が後を続ける。
「あれはあの尾野とか言う男に憑いていたのじゃ」
「尾野先生に?」
「そうじゃ」
「でもなんで……あっ、わかったぞ。あの神社だな。そもそも測定器が反応したのはあのときからだ。先生はあそこで憑りつかれたんだ」
ヒロキの推論に九尾は呆れた顔を見せながら、まるで説教でもするような口調でさらに続けた。
「ヒロキよ、汝れが考えてるほど単純な話ではないのじゃ」
「待てよ九尾、おまえ何か知ってるんだろ? もったいつけないで話してくれよ」
「ならばヒロキよ、汝れはあの尾野とか言う男のことをどこまで知っておるのじゃ?」
「そうだなあ、ゼミの飲み会で話したくらいかな。埼玉のずいぶんと奥の方の生まれだって言ってたかな。実家は地元では有名らしくて、こうしてポスドクなんてやってられるのは母親からの仕送りがあるからだ、なんて言ってたよ」
「なるほど、他にはどうじゃ、例えば子供の頃の話とかじゃ」
「そう言えば地元にはあまりいい思い出はないって言ってたかな。いじめってわけではないけど結構避けられてたとか、周囲から距離を置かれてたみたいで。だけど成績は良かったから試験前だけは声をかけてもらえたなんて言ってたよ」
「なるほどな。汝れの話で見えてきたのじゃ」
「九尾、そろそろ教えてくれよ、そんなに引っ張らないでさ」
「そうよ九尾、私も気になるわ」
「よもぎもです、よもぎも気になります」
三人から請われた九尾はまんざらでもない顔をしながらぼそりとつぶやいた。
「憑きもの屋じゃ。ヤツの家は憑きもの筋じゃ」
「つきものや?」
初めて耳にする言葉に思わずヒロキは聞き返した。
「そうか、尾野先生にはイタチの霊に憑りつかれてるってことか」
「そうではないのじゃ。彼奴らは人ではなく家に憑くのじゃ。じゃから憑きもの屋なのじゃ。それに彼奴らはイタチではないのじゃ」
「イタチじゃないって、それじゃ正体は何なんだよ」
「それは……それは汝れは知らなくてよいのじゃ。とにかくこの話はこれで仕舞いじゃ。ヒロキよ、今度こそは余計なことをしてはならんのじゃ」
九尾は彼女にしてはめずらしく沈んだ顔でそんな言葉を残すとよもぎの首に下がる勾玉の中に消えてしまった。
ヒロキ、可憐、よもぎが呼びかけるも返事はなく、その後はただ依り代である勾玉がぼんやりとした光を放つだけだった。