道のり
雨が好きです。
それも、陽の光が見えている合間に降ってくる夕立が。
黒く滲んだ灰色の雲の後ろで光を放つ穏やかな夕陽。
あの夕日を見ていると、雨に濡れるのも構わずに外に駆け出して、思わず両手を伸ばし
少しでもあそこに近づきたくなります。
そんなお話。(嘘)
「丘の見える公園は、そこの通りを抜けてから3番目の角を右に曲がった長い坂道の上にあるよ。でもさ、こんな霧の深い日にあそこへ行ったって何も見えないんじゃないかな。それでも行くのかい?」
私は、ひとつ頷いてから続けた。
「ああ、それだからこそ行くんだ。この天気だからこそ素晴らしいんだ。」
「ふーん…」
若者は考えるように俯き、そして躊躇いがちに尋ねてきた。
「もしよかったら、何をしに行くのか聞いてもいいかい?そっちが最初に尋ねてきたんだからこちらが尋ねる権利くらい貰ったっていいだろう?」
私は、頷いてから続けた。
「白霧の満ち満ちた丘の上で裸足になり、天を駆けるように踊るんだ。それが私の日課でね。晴れた日では良くない。青空は私を冷たくさせ、心を縛り付ける。雨の日も駄目だ。雨雲は私を覗き見てちょっかいを出し、身体を縛り付ける。唯、唯一許されているのは霧の日と雪の日だけだ。どちらも私を守るようにこの身を空から隠し、音もなく静かに天へと誘ってくれるからね。」
男性は、これ以上無いくらい憐れみを込めた瞳で、狂い切った路上の浮浪者を扱うように見つめたのち、興味なさげに渋々笑った。
「それは…随分と楽しそうだな。是非とも1度俺を誘って欲しいものだね。」
────狂っているのは私ではなくこいつの方だと私は思った、人と意見や思考を重ねるために死んだように嘘を吐くなんて。
「ああ、だけど駄目なんだ。こいつは清い身のままでないとやる意味が無い。どうせ君はその方には疎い方だろう?」
若者は笑って頷いた。
「ああ、ああ。清い身のままで居ることには随分と疎いね。」
「それならば、諦めるしかないな。ううむ。3年程身も心も清く居られたら私に教えて欲しい。その際は共に裸足になろう。何せ昵懇の仲だからね。」
若者は狂ったように笑い、腹を抱えて、口から垂れた一筋の涎を拭いながら頷き、それじゃと軽い挨拶だけ告げてからテーブルを離れていった。
ころころと感情を変える奴は大嫌いだ、私はそう思った。
あんなのまるで、躁鬱の精神病患者さながらじゃないか。
あんな奴のようになるくらいなら、永遠に心の沈んだまま海底の泥を掠める生活をしていた方がまだマシだ。
エグ味のある海水を舐めながら、魚の死骸を食い漁り、狭間から差し込む陽光を恐れて────
テーブルの上に少しだけ多めに金を乗せて、椅子の背もたれに掛けていた茶色く草臥れたトレンチコートを手に取り、店の出入口から出る時に中を振り返ると先程の男性がこちらを見て憐れみを含んだような笑顔を浮かべたが、私は彼を無視して外の世界に舞い戻った。
店の外側は思いのほか肌寒く、すっかり秋の訪れを匂わせる落ち葉の、芳醇な香りが漂っていた。
我が身を慮って重苦しいコートに袖を通すと、流石にやや暑い気もしたが、天気は悪くなる一方だし、こんな厚くて荒んだコートを腕にかけて歩いていたら馬鹿にされてしまうかもしれないので、我慢して羽織ることにしたのだが、どうやらその選択は正解だったようで、先ほどよりも一層霧は重く深まり、空も暗色を仄めかしていた。
通りの住人達は、推測するに家路を急いでいるのだろう。
霧よりも暗く霞んだ表情で足早に過ぎ去っていく。
私はひとつ、否定するように首を振ってから右側の通路へと歩き出した。
8m程の範囲で姿を現しては消えていく人々が、まるで意志を持たない兵隊人形のように思えてならなかった。
鈍い痛みを孕む私の脳内が他愛のない妄想を繰り広げる────「隊長!敵の陣地はすぐそこです!未だ奴らは我々に気づいていません。どうせこの霧の中では、1mとは離れていない味方のことすら目視できないでしょう。」
「それは丁度いい。皆の者、突撃するのだ!」
「「オーーー!!」」
『『ヤーーー!』』
「隊長!相手もこちらに攻め込んできました!!どうしましょう!」
「衛兵!そいつは敵の軍曹だぞ!!」
────私も単なる一介の傀儡に過ぎないのかもしれないなと思考すると、嘲りの嘲笑が口から出た。
通りの街並みは、店から離れる程に次第に変化していった。
洗練された建築物から知識が消え、音が消え、やがて色までもが失われていき、3つ目の角を曲がるとそこは最早、白黒のくすんだ屍人の町とでも見誤るくらいに荒涼と化していった。
丁度いい。
霧の広がる丘にはモノクロが最も映えるものだ。
刺身には醤油が合うように、神様には天界が合うように。
登り始める前は緩やかに続く坂道に見えていたのだが、いざ登り始めるとその内側にある黒々とした揺らめく惡然さを見せ始めた。
その上、ポトリポトリと空から零れ落ちた雨水が、とてつもなく激しい俄雨へと変貌した。
私は慌てて坂道に面した古民家の軒下へと走り込んだが、その身体はすっかり雨に打たれてしまいびしょ濡れとなった。
厚手のコートですら、雨水からは守ってくれなかった。
それもそのはず、雨を布で防ごうなんて土台無理な話である。
コートを脱いで雨水を払う。
吐く息が白く濁ったが、寒さのせいではなく私の身体が熱を持っているせいだ。
私は次第に悴む手先を温めようと両の手を組み合わせ、口から吐く暖かい熱気を冷め冷めとした皮膚の衣に吹きかけた────




