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正しい女

作者: 雨森 夜宵

 風に靡いた髪から、知らない女の匂いがする。


 何ということはない、シャンプーとリンスを変えただけだ。肌の弱さが選ぶものだから、ボディーソープその他は変えることができない。だから、ひとまずシャンプーとリンスだけを変えた。本当ならあの日に変えてしまいたかったけれど、ケチな性分が邪魔をした。やっと残りを使い切って、容器も濯いで捨てて、新しいものを容器ごと買ってきた。それが二日前のことで、それから初めて家を出た。本当は出たくなかった。でも、おかしなことに人というのは、どんなに悲しくてもお腹は減る。じっとしているだけでは生きていけない。何を買ったのかも覚えていない、それでも大きく嵩張ったレジ袋を提げて歩いていく。今日の風は涼しく、それでいてどこかあたたかい。

 髪に使うものにしては珍しい、ハーブの匂いの強いもの。

 私の家に通っていたあの人が、纏っていた匂い。


 妻にバレてしまって、と訪ねてきたあの人は言った。その一言が私の中の疑問符を根こそぎ吹き飛ばしていった。どんなに遅くなっても私の家に泊まらなかったこと。私がメイクを落とさないと手を伸ばしてこなかったこと。シャンプーもボディーソープも使わずに、熱いお湯で体を流すだけで済ませていたこと。スーツでやってくること。スーツで帰っていくこと。思い返せばいくつもあった。その全てはたったひとつの事実を示していた。彼には他に帰る所があるのだ。私という女を持ち帰ってはいけない、「正しい女」の待っている家が。

 何となく分かってはいたはずだった。見ないふりをしようとしただけで。

 そんな気はしてた、と言おうとした口が、もう会えないの、と余計なことを言った。

 会えない、と彼は言った。君のことは妻にバレてしまったから。別れなきゃ離婚するって脅されたよ。

 仕方ないね、と言おうとしたのに、遊びだったの、と体は勝手に口走る。彼は少しむっとする。好きなことは好きだったさ。真剣にね。でも家庭のほうが大事に決まってるだろ。当たり前のことのように言う彼の目を見ているうちに、もう言葉は私の思考を離れて、勝手にぽつぽつと湧き上がってしまう。誤魔化さないで。遊びだったってちゃんと言ってよ。ただの不倫相手だったんでしょ、私。ちゃんと言いなさいよ、本当はそこそこの女なら誰だって良かったって。奥さんに言われたからってこうして私を捨てるけど、本当は遊びたいだけなのよ貴方は。今に新しい女を作るに決まってる。奥さんを大事にしたいなら、まず貴方みたいな浮気性の男から救ってあげなさいよ。一緒にいたって悲しい思いしかさせない貴方なんかよりもっとマシな男が世の中には沢山いるんだから――。

 彼は私の左の頬を張った。じいんと熱を帯びて痛んだ。お前なんかに何が分かる、浮気相手のくせに。

 出て行って。二度と来ないで。

 それきり彼は私のところに来なくなった。


 あんな終わり方を望んではいなかったのだと、未だにそう思う。分かってたよ、仕方ないね、でも私は貴方のこと本当に好きだったのと、そう言っていれば事はもっと円満に解決したのだろう。最後の思い出に、とでも適当な口実を設ければ、もう一度抱きしめてもらうことさえできたかもしれない。あわよくば愛の言葉のひとつくらい、この耳に囁いてくれたかもしれない。でもその全ては反実仮想に過ぎなかった。実際に私のしたことの、その結果だけが今ここに残っている。

 頬を張られる直前、私は確かにハーブの匂いを嗅いだ。

 それは彼の匂いであり、彼の家庭の匂いでもあった。後半の部分を、私は意識的に見なかったことにした。これは彼の匂いだ。抱き寄せられる度にふわりと私の鼻をくすぐった、冷たく尖ったハーブの匂いだ。それは、確かに私を愛してくれていた頃の、私を愛した男の匂いだった。

 捨てきれなかった。

 惨めな女だ、と思う。自分を捨てた男の纏っていた匂いを今になって纏う女。馬鹿馬鹿しい。ただの浮気相手だったくせに。遊び相手として都合のいいだけの女だったくせに。それでも愛されていたなんて思うのは傲慢だ。夢を見ているだけだ。そうやって自分を貶す度に、けれど、と自分のどこかが声を上げる。けれど、いいじゃない。好きだったんだもの。ただの浮気相手だって、愛されたことには変わりがないじゃない。いい思い出として持ってゆくことの何が悪いの。だって私は好きだったんだ。明らかに不倫相手としての扱いを受けていることにさえ目を瞑るほど、私は、本当にあの人を愛していたんだ……。


 スーツ姿の人影とすれ違った途端、ハーブの匂いがふわりと漂った。


 はっとして振り返ったものの、去っていくその後ろ姿は明らかに別人だった。彼はあんなに背が低くない。彼はあんなにがっしりとはしていない。猫背でもなかったし、そして何より、かつての浮気相手が暮らしているこの辺りを、無用心に徒歩でうろつく人じゃない。

 小さくため息をついて向き直ると、またハーブが香った。

 ああ、と私は笑った。なんだ。私の髪の匂いじゃないか。知らない女の匂いだから、全然気付かなかった。これが今日からの私の匂いなんだった。ああ、なんて、馬鹿らしい。まだ暫く、慣れそうもない。「正しい女」になんて、なれそうもない。


 ぱちぱちぱちと瞬きをして、溢れそうな涙を乾かした。

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