【続プロローグ】運命は勇者に微笑む
0時きっかりに部屋のドアが勢いよく開き、廊下を漂っていたであろう早春の冷気がほんの少し入り込んで来た気がした。
「はーい、注目!」
彫りの深い顔立ち。ロマンスグレーの痩身をアルマーニでビシッと決めた連盟会長の南風原が深夜に不釣り合いなテンションで登場した。大きな紙袋をドサッと床に投げ置いて、両手をパンパン叩く。ちょうどドアの正面に当たる位置に座っている菊地は、真っ向から会長と向き合う形となり、この一瞬でとてつもなく疲れた気がした。
古稀間近だというのに10歳以上は若々しく見え、異常にバイタリティ溢れるこの会長は、現役時代も棋士として超一流だったがとかく奇行の多さで知られた。奇人変人の見本市たるこの世界でそのように評されるのはよくよくのことであり、語り継がれる伝説の数々からしても、はっきり言ってここに集まった面子とは色々な意味でスケールが違う。善悪を問わない手、という表現が将棋界にはあるが、善悪清濁ともに過剰に呑み込んでひとり爆走し続けている、それが南風原という人間だった。
「偉いねえ。皆ちゃんと集まってるじゃないか!なんとまあ、あの佐久間だっている!」
名指しされた佐久間は居心地悪そうに長い指で半白の坊主頭をぽりぽりと掻いた。
「……あんなあ、バルさん。こんな時間にこの老いぼれを呼び出したんは一体全体何ねんやろ」
目を開けていた浮田が問いかける。が、その声はどこか弱々しい。
「何ってトラちゃん。あんた、今さら身に覚えがないとでも言う?言う?言っちゃう?」
何のことか菊地にはさっぱりだったが、会長のその一言で浮田老人は、うぐっ、とモチを喉に詰まらせたような音を出して黙った。
「説明しよう!皆うっすら気付いてるとは思うけど、本日ここに招集されたのは我が将棋ムラにおける困ったちゃんたちであります。よろしいか」
そこで一旦間をとって全員の注意が自分に集まっていることを確認する。会長の話術は現役時代からやけに上手い。よろしくはないがとりあえず聞こう、と思った。
「さて、年末に三段リーグ八百長疑惑があり、年が明けたら自殺未遂騒動、こりゃたまらんなあと思っておったら先週は菊地が暴力沙汰とな。あのね。僕悲しい。近年まれに見る将棋ブームが訪れておるこのタイミングで、何故に内部の者がわざわざそれに水を差さにゃあならんのか。それに」
一呼吸置いて言う。
「そろそろ、そろそろ隠しきれなくなっちゃうんだな。吉脇のゲス不倫とトラちゃんの寄付金詐欺」
「ゲ、ゲス……!?」
吉脇が雷に打たれたように席を立ちかけ、すぐ我に返って座り直した。瞳の焦点が合っていない。薄い唇が、うそだ、という形に動いた気がした。浮田はまた目を閉じているが、腹の上で組んだ両手は静かに震えている。
南風原会長の説明によると、浮田は子供将棋教室を作るという名目で各所から寄付金を募っていたが、何年経っても教室とやらは一向に開講する様子がない。寄付した者たちが騒ぎ出していて、中には既に訴訟も辞さずという強硬派もいるらしい。
「まあまあ、浮田先生引退しはってから収入ガタ落ちですもんねえ」
吾妻が自分の暴露本の件を他人事のように、にへらにへらと舌なめずりする。確かに引退後は棋士の給料ともいえる対局料がゼロになるため、継続してきた道場経営や太い客筋の稽古先がないと金は嘘のように減ってゆく。現役を40年も勤め上げればそれなりに貯金できそうなものではあるが、古いタイプの棋士の大半は概して金遣いが荒いか、そうでなくとも老後を見据えてといった発想を持たない。まして浮田のように還暦近くまで頑張って七段止まりという戦績では、クラスごとに差がつけられているその対局料自体がそもそも少ないということでもある。
菊地は、幾ばくかのショックを受けている自分に驚いていた。浮田は平々凡々な棋士人生を送ったが、それだけに圭角の立った将棋指しのなかではまともに見え、自分にとって良い意味で遠いような存在だった。菊地の酒乱も、水落の自殺願望も、山井のギャンブル狂いも、佐久間のだらしなさも、来島の鼻につく衒学性も、表現が難しいが一言でいえば「将棋指しっぽい」のだ。それが稀薄に思えた老先輩も、やはりこっち側だったのか、と。
もっとも蛇足を承知で言うと、半世紀前はともかく、現代において彼らのような特異な存在はほんの一掬いに過ぎず、プロ棋士の過半は極めて品行方正、あるいはそこまでいかずとも少なくとも善良で無害、なんらやましいところなく、むしろノブレス・オブリージュの精神をもって堂々と世間を渡っている。かつて昭和の将棋指しが「20人おれば1人は悪い奴がいる。その1人を19人で守ってやるのが情ってものだろう」とのたまったというが、ざっとプロ棋士150人と思えば、困ったちゃんたちの数として大体合っている計算になる。むしろ少ないくらいか。
「そこで、だ」
会長はパンパンと手を叩きながら楕円形のテーブルの周囲を時計回りにゆっくり歩いて回る。その音が近くなり遠くなる。
「来月って何月?来島」
「……はっ、T.S.エリオット曰く最も残酷な季せ」
「4月だよ。4月で良いんだよ。そんなどうでもいいことばっか考えてるからあんたテレビで二歩打つんだよ」
「ぐっ」
来島は浅黒い精悍な顔を苦く歪めた。彼にとってトラウマである「テレビ棋戦で反則負け事件」については紙幅がないのでここでは略する。
「つーまーりー、今は3月です。世間様はもちろん、我々にとっても年度末なわけだ。きれいな身体で新年度を迎えたいじゃない」
立ち止まって一同をぐるりと見渡す。嫌な予感がした。
「そこでだな、あんたがた困ったちゃんたちを……この機会にリストラしようと。わかりやすく言うと棋士と女流は除名!三段退会!ライターのなんとかは永久出入り禁止!で、職員クビ!うむ、そういうわけであります。よろしいか」
全然よろしくない。今まで言語化できなかった不安の靄が一気に晴れたような気がする反面、それは菊地の心を絶望の色に塗り潰して行った。黒とも灰とも言えないドロドロした粘性の恐怖が、自分の体内をうねうねとのたくっているような気持ちだった。
所詮、クビになるだけじゃないか。命を取られるわけじゃなし。そう感じる人間は別の意味で棋士というものをナメている。小学生の頃から将棋漬け一本でここまでやってきた彼らに世間の常識や一般的な対人スキルは乏しい。奨励会はバイト禁止なので社会経験らしきものも身につけていない。また、若手の水落はともかく、菊地より上の中堅、ベテラン世代は一部の例外を除き、よくて高卒。中卒もそう珍しくはない。実際菊地も最終学歴は高校中退だ。それで将棋を指すしか能のない三十路、四十路が路頭に放り出されたら何が起こるか。何も起きない。というか何も出来ない。なにしろ電子レンジの使い方を知らない者だっているのだ。
おまけに会長は「引退」ではなく「除名」と言った。これはつまり、完全に将棋連盟とは縁が切れましたよという措置である。元プロを名乗ることも、将棋の指導で金を稼ぐことも許されない。引退ならなんだかんだで将棋に関わって糊口をしのぐことも可能だが、これでは生きていく上での全ての道が閉ざされたに等しい。同じことは三段勢や元奨励会の川本にも言えるが、こちらはプロでないため状況はもっとひどい。「ちょっとばかり将棋の強い無能」が脛の傷も持ったまま社会の荒波を泳いで行けるか?答えは否だ。ライターの吾妻にしたって、ほとんど将棋専門で20年近く通してきた以上、出入り禁止は飯の食い上げを意味する。野垂れ死ね、ということか。菊地にはこれが事実上の死刑宣告としか思えなかった。
「ちょっ……南風原先生!さすがにそれは!」
吉脇が意を決したかのように立ち上がって南風原会長の方をキッと見据えた。同年代の菊地はお互い子供の頃からよく知っているが、彼女はおどおどしているように見えて意外と我が強い。もっといえば本質的にわがままだ。ただ、集団内でのバランス調整の感覚に長けているため、男女ともにさほど嫌われないでここまでやってきただけで。
「さすがにそれは……何?」
問い返されて、小刻みに震えながら、それでも彼女はきっぱりと言った。
「さすがにそれはひどすぎます。あたし困ります」
ただでさえ対局収入が安価な女流棋士にとって、イベント出演等の仕事を失うのは死活問題を通り越して即死である。そもそも勝ち上がることのほぼない、つまり対局数自体が壊滅的に少ない堤など石化している。
「いやいや、だってさ」
会長はいかにも面倒くさい、というようにため息をつくと、内ポケットから取り出した扇子を額に当ててそれごと首を振った。
「君は別に困らないでしょ。例の社長、お金持ちなんだから。奥さんと離婚してもらって跡に収まるか、愛人としてお小遣いがっぽりせしめるか。別れるなら別れるで手切れ金も半端な額じゃなかろうから、まあ何にせよこの中では恵まれてる方よ」
吉脇、絶句。替わって山井が発言した。
「ねえ会長。そりゃ、俺は素行が良いとはお世辞にも言えないけど、本職の将棋はそこそこいいとこまで行ってるんだ。まだ老け込む歳でもないし、もう一花咲かせられたらって思ってんですよ。借金にしたって別に危ない奴らに追われてるってわけじゃないし……」
「ああ僕切ない!」
その言葉を遮って会長は天を仰ぐ。会長の口癖は「悲しい」と「切ない」だ。そして山井を睨みつける。
「モウヒトハナ?山井、ねえ、新人王獲ったのって20年前だっけ?で今なに。現在地どこ。C級1組下位で降級点争い真っ只中のそれが“いいとこ”?山井、山井、花なんかぜーんぜん咲いてないよ。咲いてたかもしれないけどもうとっくのとうに枯れてるよ!そんなくすぶりに」
そこでぐっとこらえたが、呑み込んだ続きはおおよそ想像はついた。金など貸してしまった僕悲しい、だろう。
「とにかく、菜の花じゃないんだからトウの立ったあんたはもう無理。じじいになる前のリストラは優しさだと思ってほしいよね。うん、これ元名人からの偽らざる評価」
いくら奇矯な振る舞いが目につくとはいえ仮にも名人経験者に言われると重みが違う。山井は傍目にも気の毒なほどガックリ肩を落とした。
会長のハイテンションと事態の深刻さに呑まれただけではないだろうが、一同を沈黙が襲った。内向的な水落や、詭弁家のわりに小心者の来島はさもありなんといった感じだが、もとより奨励会員や一職員が声を上げられる雰囲気ではなかった。吾妻だけは相変わらずにやけているが、無理矢理いつもの表情を堅持すべく努力しているように見えなくもない。
菊地は、将棋を取り上げられた自分を想像しようとして、数秒で諦めた。全くイメージできないのだ。週5日、朝出勤して夜に帰ってくるといった、規則的な生活が。おまけに上司というのも何か得体が知れない存在のように思われた。
ここは小さなムラ社会だが、強いか弱いかだけが究極的にモノを言う世界で、タイトルでも獲れば10代の若造でもベテラン棋士を下座に退け「王将」を持つ。棋士は全員が横並びの連盟正会員で、序列こそあれど、それは実力さえ持っていれば容易に変動させることが可能なものであった。だから、将棋界には「勝つことはえらいことだ」という有名な箴言がある。実際、パッとしないこの菊地五段でさえ、とある棋戦で現名人に一発入れる大番狂わせを起こしたことがある。……もっとも、名人がまだ名人候補のひとりに過ぎなかった時代の話だが。
(あれは我ながら見事な穴熊の姿焼きだった……いやいやあれは気持ち良かった)
投了局面を思い出して、我知らずにんまりしそうになり慌てて頬の筋肉を引き締める。いけないいけない。笑っている場合じゃない。
「俺が悪いんだから仕方ないけど……でも……将棋、指せなくなるのは寂しいな」
佐久間がぽつりと言った。おそらく、吾妻を除いた全員が、寸毫の違いもなく同じ気持ちだろう。現役は何をかいわんや、退役した浮田にせよ、プロ予備軍の矢口と鬼生田にせよ、かつて夢破れた川本でさえ、彼らの身体には皆「将棋指し」の熱く、いささか鬱陶しい血が流れているはずだ。生活者という点では、あるいは善良な市民という意味ではいささか、いやかなり問題を抱えた面々ではあるが、誰より何より将棋が好きで好きで、好きを通り越して愛しちゃっているのだ。愛など比べるものではないが、間違いなく言えることは、プロ及びひとたびそれを目指した経験を持つ者と、純粋なアマチュアにおける将棋愛は、善悪ではなくはっきりその質が異なる。そして将棋を指す故に存在するという誇り。濃淡こそあっても根っこの部分は皆同様で、それを奪われる恐怖は筆舌に尽くしがたい。「趣味で指せばいいじゃん」というような位相の話ではないのだ。ノー将棋、ノーライフ。収入なんてなくなったっていいから、どうかこのまま指させてくれ!正直なところ、菊地はそう叫びたくなっていた。
「冴えんなあ」
ふたたび、浮田がつぶやいた。