【プロローグ】笑えるうち笑え、いつか泣くときがくる
3月7日、23時47分。
JR千駄ヶ谷駅からほど近い、東京将棋連盟会館の地下室。
普段は棋戦のネット中継などのスタジオとして使われる二十畳ほどの部屋に、「冴えんなあ」としか形容できない表情を浮かべた十余名の男女が集まっていた。無機質な蛍光灯が照らす下で見ると、楕円形のテーブルを囲んで座る一同のまとう不景気さに拍車がかかる。
(……やれやれ)
菊地郁文はえも言われぬ重苦しさを感じて、細いネクタイを緩めた。こんなときだというのに、職業柄律儀にスーツで来てしまっていた。
ここにいる面々は年齢も性別も容姿もバラバラながら、たったひとつ共通点がある。
将棋関係者、ということだ。
(なんだか知らんが、絶対あいつのせいだ)
右隣で俯いている水落道隆のほうに目をやる。ストライプのスーツ越しに、強く掴んだら折れてしまいそうな細い肩が小刻みに震えており、もともと血の気の薄い頬は血管が透けるほどに青ざめている。
『イケメン将棋士、自殺未遂!“将棋村”の陰湿なパワハラが原因か?』
そんな見出しが週刊誌の見出しに躍ったのは、つい先月のことで、水落は泥酔して「殺してくれえ」と泣き喚きながら深夜の車道を行きつ戻りつしているところを保護されたのだった。
深夜のこととて場所が悪かった。なにしろ会館からも遠くない新宿で、目撃証言も多数あり、普通なら「いい大人なんだから次からは気をつけましょうね」程度で済むようなものの、昨今の将棋ブームのせいで水落は「将棋界の王子」などと呼ばれ各種メディアに登場していた、いわば有名人である。マスコミがこれほどおいしいネタを見逃すはずがない。
せっかく将棋界が盛り上がっているさなか、連盟にとってこのゴシップは痛い。ましてマスコミはその原因を先輩や同僚棋士からのイジメだと書き立てている。将棋ムラと揶揄されるのは昭和の時代からで、内側にいる菊地たちにとってはもはや慣れっこだが、外部の人間からするとずいぶんと非常識に思えるような雰囲気や因習もあるだろう。
(特にあいつの場合、弱いくせに急に王子だなんだのチヤホヤされ出したからな……)
水落はプロ2年目の四段。年齢制限のカウントダウンの中、三段リーグを抜けたはいいものの、勝率が四割台前半と低迷しており、おまけにすでに最下位クラスのC級2組で降級点をひとつ取っている。
普通、相手にとって情報の少ない新四段はデビューからしばらくは勝ちまくるもので、数年かけて徐々に勝率が落ち着いてきたあたりではじめてその棋士の格といおうか、大体の位置がハッキリする。それが最初からこれでは、タイトル挑戦や昇級はおろか、早期のフリークラス陥落も現実味を帯びてくるだろう。水落の自殺願望の理由を問われれば、これは菊地の想像に過ぎないが、イジメだのなんだのというより、弱い奴、という仲間の蔑視を受けつつ、一方で将棋ファンには王子ともてはやされる、そんな自分の不本意な現状ではないか。勝つことが正義、強ければこそ声が通るのがこの将棋界なのだ。
なお、菊地は段位こそ五段だが、プロ入り10年でこの程度というのは、一言でいえば「贔屓目に見て下の中」。とっくに上がり目の失せた、カモにされる中堅。そんな評価がじわりじわりと身体に馴染みつつある。そういった意味で水落を笑える立場にはない。
(…しかしまあ、叩かなくても埃の出るメンツがよくぞこれだけ揃ったもんだ)
水落の横で大あくびをしているがっちりした体格の四十男は山井康夫七段。このなかでは高段者で、実績としても過去に新人王と早指し棋戦の優勝がある。ただし、超のつくほどのギャンブル狂いで、「あれは金の捨て場所を探しているんだ」と評されるほど。それだけなら自己責任なのだが、各所に多額の借金があり、なおかつ噂では連盟からもかなりの額を借り入れているらしい。将棋ムラはこういう点、身内に甘いのである。
その向こう側でひそひそと話しているのは佐久間、来島の両六段。
色白でひょろっとした長身の佐久間優はのほほんとした性格で、人付き合いもよく、また強くもなく弱くもない、という絶妙の存在だ。なぜなら、この世界では、強すぎると孤立し、弱すぎると蔑まれる。穏やかなうえ、ほどほどに勝ったり負けたりするせいで敵を作りづらい、おいしいポジションなのだ。
ただし、彼には悪癖がある。遅刻や不戦敗の常習犯で、過去に幾度となく制裁金を科されてきたというのに一向にそれが直る気配がない。今年度も実に3局の不戦敗があった。対局が最大の公務であるプロ棋士において、これはいわば死に等しい罪といえる。寝坊しちゃいました、では済まないのだ。菊地にとっては同門の兄弟子にあたる。
一方、色黒の来島一郎は苦み走ったちょっといい男だが、本人曰く「独特の感性」が、独特の感性の持ち主ばかりが集う将棋ムラでも一頭地を抜いている。とにかく言っていることがよくわからない。様々な喩えや引用を用いながら喋るのだが、読解するのは来島検定の有段者でないと難しいだろう。今も、人の好い佐久間だから「ほう、ほう」と相槌を打っているが、自分だったら会話が成り立たないし、そもそも会話をする気にならない……というか、おそらく佐久間も内容は理解できていないのではないか、と菊地は思った。
ともあれ、ただの奇人変人で終わらない、来島にもやはり問題があった。彼はSNSでべらべらと連盟の内情を喋ってしまうのである。総会や棋士会で出た議題や決定が、その日のうちには披瀝され、ネットの海へと流れ込んでゆく。平棋士なのでさすがに核心の核心までは知らないはずだが、そこを「小生が忖度するに」などと勝手に妄想を膨らませて創作してしまうため、理事会や上位棋士からの評判はすこぶる悪い。たしか、一度呼び出されて訓告を受けたはずだが、菊地の見るかぎり反省の色はなさそうだ。
来島の隣は珍しい顔だ。退役棋士の浮田虎之助七段。引退して10年近く経っているのと、所属が関東と関西で分かれていたため、これまであまり顔を合わす機会はなかった。でっぷり突き出したシャツの腹の上で両手を組んで静かに瞑想している……それとも寝ているのか。血色のよい丸顔の頭頂に申し訳程度に残った白髪が張り付いている。この老棋士については現役期間がほとんどかぶっていないこともあり菊地はよく知らなかった。とりたてて悪い噂もなく、さりとて特筆すべき好人物であるとの声も聞こえず、実績としてもごくごく平凡というか、よく言えば大過なく勤め上げ、悪く言えば何の痕跡も残さず去った棋士だといえる。
続いては女性が並んでいる。吉脇さやか女流初段、堤愛奈女流2級。少々ややこしいが、女流棋士は2級からがプロ扱いで、いわゆる棋士のそれとはシステムが異なる。
ちょうど菊地の向こう正面に座る吉脇はどこか怯えたような目をした三十路の女で、女流棋士としての成績は中の下といったところか。大盤解説の聞き手や普及イベントへの出演を多く務め、対外的には認知度の高いほうだろう。小動物めいた雰囲気と童顔、それと不釣り合いな巨乳が受けるのか、ファンの人気も集めている。
ただ、彼女はたしかIT系企業の社長とズブズブの不倫の真っ最中だったはずだ。これも言ってしまえば自己責任だが、具合の悪いことに、そのIT系企業傘下のネットテレビに連盟はチャンネル枠をもらっている。実情がどうかは別として、万が一露見した際、話がややこしくなるのは目に見えていた。
落ち着いた色味のワンピースにカーディガンというコーディネートは「ザ・女流棋士」だが、さっきから定まらない視線をあちらこちらへ飛ばし、苛立ったように茶色いショートボブの毛先を弄っている。
ついこのあいだまで高校生でした、というのが納得できる年相応のあどけない容姿をした黒髪ロングの堤は中学3年生で女流棋士になり、大学受験のための休場を挟みつつ、実働4年目。「女子高(大)生プロ棋士」としてテレビ出演をこなしたり、半ば文化人的な立ち位置で活動している。おとなしい性格で、別段人柄に難があるわけでもないし、将棋ムラにおいては数少ない常識人のように思えるが、たったひとつ欠点があった。
弱いのだ。それも、とんでもなく。
もちろん「プロとしては」という注釈はつけられるが、プロ入り後の通算勝率はなんと2割を切っていて、つまり5回対局して1回勝つかどうか、といった有様。若くしてすでに女流棋士の連敗記録の保持者でもある。一応、女流には強制引退規定と言う内規があって、菊地はその具体的な内容に疎いが、いつそれに引っかかっても不思議でないくらいには負けている。
黒のパンツスーツの太もものあたりをぎゅっと握りしめて血の気を失った小さな手が何だか不憫だった。
ここまでは女流を含め全員プロ棋士なのだが、その隣から4人は、この部屋にいるにはいずれもいささか場違いな空気をまとっている。
まず、2人の奨励会三段。
女流は特別枠的な制度だが、本来将棋は四段からがプロで、その養成機関である奨励会に所属する彼らはいわば棋士の卵、あるいはセミプロというべき存在だ。200人近くいる奨励会員など同門でもない限り大半は名前も知らないが、この2人はプロ手前の三段だからさすがに菊地にもわかる。矢口良成……と、たしか、鬼生田卓也と言ったか。
どことなく育ちのいい坊ちゃん風な出で立ちの矢口はふてくされたように頬をふくらませ、鬼生田のほうは大柄な身体を極限まで縮こませている。男性棋士たちが退役した浮田を含めスーツ姿なのに比べ、矢口はシャツに黒いジャケットとややカジュアル、鬼生田に至ってはフード付きパーカーにジーンズとずいぶんくだけている。
奨励会のスタート地点たる6級がだいたいアマチュアの四段程度の棋力に相当するため、奨励会三段ともなればそんじょそこらのアマ強豪とはもはや手合い違いである。それでも棋界には「お茶を出す側、出される側」という言葉があるように、三段と四段の間にそびえ立つ壁はあまりにも高く険しい。奨励会員であるうちは、いかに相手が年下や後輩でもプロ棋士のことを「先生」と呼び、雑用を言いつけられれば断ることはできない。実際、矢口は水落と同年齢だが、たった一段の差でその立場は天と地ほどにも違う。だからこそ、ほとんどの棋士はこれまでの人生で一番嬉しかったことを訊かれれば、タイトル獲得でも順位戦昇級でもなく「四段になったとき」と答えるのだ。
(……まあ、あの件、だろうな)
問題を抱えた人間ばかり集められているらしいこの一座でも、矢口と鬼生田はある意味で特別だった。昨年末タブロイド紙で報じられた三段リーグにおける八百長疑惑の当事者たちだからだ。
連盟会長が裏から素早く手を回したこと、「骨肉相食む鬼の三段リーグでライバル同士がそんな行為を働くはずがない」といった将棋界特有の性善説に則った論調と確たる証拠の欠如、またプロにおけるそれに比べていまいち一般的な話題性に欠けたこと……などがあったためか、さほど大事にならなかったとはいえ、水落の自殺未遂が起きるまでは将棋界において久々に表面化した黒い話題であり、いまだに周囲を嗅ぎまわっているマスコミもいるという。
奨励会には年齢制限が定められ、26歳の誕生日を迎えるまでに四段になれないとアウトだ。そして三段リーグからプロになれるのは原則として年間4名のみ。一応、アマチュアに戻っても所定の大会で好成績を納めればプロ編入試験を受けられる制度があるのだが、その厳しい条件から、可能性は奇跡とまで言わずともわずかで、過去には退会者が自殺するという不幸な出来事もあった。矢口と鬼生田の間で実際に星のやり取りがあったかどうか菊地には判じえないが、制度の性質上、これも一局、などと言って風化するのをのんびり待てる種類の事件ではないように思われた。
スキャンダルといえば、三段勢の横の席、将棋ライターの吾妻秀之も、現在進行形でトラブルの渦中にいた。吾妻は先年亡くなったとある大棋士の長年にわたる幇間……よく言って乾分で、没後まもなくその棋士の伝記を上梓したのは良いが、積年の恨み辛みが堰を切ったのか、内容は女性関係を主としてほとんど暴露本に近いもので、故人の名誉を貶めるとして遺族から訴えられ係争中だ。もともと物理的にも精神的にも土足でズカズカ上がってくるようなところのある男で、件の大棋士の存命中はある程度抑えていたらしいその性情が最近は遺憾なく発揮されているようで、煙たがる者も少なくない。
不安、緊張、苛立ちが随所で断続的に小さな破裂音を立てるかのようなこの場において、吾妻ひとりはにへらにへら笑っている。小太りで脂性の顔に乗っかった眼鏡がずり落ちてくるたび何となく不愉快になるが、肝が据わっていると言えなくもない。
最後に、菊地の左隣で椅子に浅くちょこんと腰掛けている存在感のかけらもない男が連盟職員の川本司だ。菊地とは奨励会同期だったが彼は21歳までに初段という年齢制限をクリアできずに退会した。その後、機関誌のアルバイトに拾われたのち、気がついたらいつのまにか職員に採用されていた。もともと地味な雰囲気で将棋もたいして強くはなく、菊地がさっさと昇級昇段して行ったため、同期といってもさほどの付き合いはない。もちろん連盟の事務所に行けば顔を合わせるが、他には年に一度の同期会程度である。
「……菊地さん、これってなんの集まりなんだろう」
その川本がおずおずと話しかけてきた。小声ではあるが、ほとんど皆が黙りこくったこの空間では思いのほかよく響いた。
関係者ではあっても厳密には部外者の吾妻ほどではないにせよ、一介の職員に過ぎない彼にとって、プロ中心のこのラインナップはほぼアウェーだ。川本は菊地より歳上だが、立場もあり、公の場では「菊地先生」、そうでなくても「菊地さん」と呼ぶ。昔は若手プロなど小僧っ子扱いする豪傑肌の職員もいたらしいが、昭和は遠くなりにけり、だ。
「わからんなあ。とりあえず会長に呼ばれたから来てみたけどよ」
「……顔ぶれを見ると、あんまりいい話じゃなさそうだよね?」
「えーと」
菊地はわざと少し声の音量を上げる。
「自殺未遂だろ」
隣の水落がぎょっとしたようにこちらを向く。今にも泣き出してしまいそうな「王子」。塩顔イケメンというのがモテる現実は理解できないが、何となく母性本能をくすぐりそうなことはわかる。
「……そんで八百長疑惑」
矢口がキッと睨みつけてきた。が、すぐに「お茶を出す側」の顔に戻って視線をぼやかす。このあたり、悲しいことに躾という以前の問題で反射神経のようにすり込まれているのだ。まして奨励会生活の長い矢口ともなればなおさらだろう。一方、鬼生田は相変わらず縮こまったままだ。名前と体格に反してどうも気弱なたちらしい。自意識の塊のような将棋指したちのなかにおいて、彼が三段リーグを抜けられないのもこういったところに一因があるのかもしれない。
菊地は指を折りながら続ける。
「コンプライアンス違反に不戦敗常習犯。あと不倫と借金と連敗記録と暴露本ライターと……あれ、浮田先生はわかんねえや。で、川本、お前、なんかやらかした?」
川本は消え入りそうな声をなんとか絞り出す。
「……いや、ちょっとね」
「ちょっとって何だよ」
言いよどむ川本。と、
「その男は」
言葉を一度切ってから、
「経費の使い込みが露見したのですよ」
来島が重々しく明かした。と、いっても彼の挙動は常にどことなくもったいぶっているのだが。場の空気が少し騒がしくなる。まだあったのか、脛に傷。
「このことは理事会以外はまだほとんどご存知ないようだが……。川本氏に一体どのような事情があったか小生の関知するところではないが、飢えても盗泉の水は飲まずと言う。それだというのに!嗚呼!この不埒なる職員の悪行狼藉を物故されたかつての名人、棋聖がご覧になったら如何ほど悲嘆の淵に沈まれることか!」
そう言うと来島はガクリと椅子の背にもたれて上向き、大仰に顔を覆ってみせた。お前は役者か。
「ねえ、川本ちゃん、どれくらい使っちゃったの?ねえねえ」
あくびばかりしていた山井が、気味が悪いほどニコニコしながらずいと身を乗り出してくる。それなりに棋士としての実績もある彼がムラ社会で微妙に好かれていないのは、借金云々よりこういう前時代的な馴れ馴れしさみたいなところにあると思う。
「……万円、です」
山井は失望したようにどすんと椅子に腰を下ろした。中肉中背だが筋肉質なため、その弾みでパイプ椅子がギッと耳障りな音を立てる。
「なんだ、それっぽっちか。俺の借金の100分の1もないじゃん」
たしかに川本が口にした金額自体は驚くほどのものではなかった。返済不可能とは思えないし、穏便に済ませようとしてできなくもないレベルだ。ただ、問題は、自分の所属する組織の公金に手をつけてしまったというまごうことなき犯罪行為の事実であり、山井の借金とはまた少し意味合いが違う。もっとも、噂が本当で連盟が山井に金を貸しているのなら、話は別だが。
「なんでそんな中途半端な額なんだよ」
「うっ、傷つくなあ」
菊地に問われ、心底傷ついたような口ぶりで川本は俯く。
「なんかさ、もうちょっと、こう、男なら、甲斐性みたいなのあるだろ」
「ないよ……」
自分でも意味のわからない突っ込み方だとは思ったが、それほどに川本の横領した額はささやかで、それが逆になんだか川本らしい、とも感じられた。
「とにかく、問題児ばかり集められたってことだ」
菊地は嘆息してネクタイをさらに緩めた。春の足音がようやく目の前に差し掛かろうかという季節。空調は適度に効いているが、人数が多いのと空気が重いのとでむしろ蒸し暑く感じる。
「問題児ねえ……。そう言うてはる菊地先生はやっぱりこないだのアレでっしゃろ?」
吾妻が例のにへら笑いを浮かべたまま、顔を覗き込んできた。たしか関東出身のくせに不思議な関西弁を使うこの男が、菊地はどうしても好きになれなかった。
「別に大したことじゃねえよ」
「え、何それ。あたし知らない」
吉脇がうっかり口に出してから、しまった、というように口を押さえた。女流棋士にも情報通とそうでない二種類がおり、彼女は後者に属する。おそらく自身の不倫の件も、将棋ムラ中どころか出入りの蕎麦屋にまで知れ渡っているなどとは夢にも思っていないだろう。隣の堤はただただ不安そうな顔をしている。
「……殴ったんだよ先輩を。酔ってたんだからしょうがない」
酔ってたからしょうがないのでは水落の泥酔自殺未遂もしょうがないし、世の中のトラブルの何割かはしょうがないことになるのだが、菊地はそう言うしかなかった。
「喧嘩結構、酒の席での争い大いに結構。けどねえ、先生はなんといっても殴った相手が悪かった!」
吾妻が何故か嬉しそうに後を続ける。
「なにしろ相手はただの先輩棋士やのうて天下のタイトルホルダー様ですわ。しかも番勝負があともう何週間かで始まろうゆう時期に、あちらさん前歯二本折ってもうた」
吾妻が口にしたのは、まもなく防衛戦を控えるトップ棋士の名前だった。
「ふぁっ?」
さすがに水落や山井も絶句する。新聞社をはじめとしたスポンサーによるタイトル棋戦を主軸として出来上がっている将棋界において、スポンサーが神ならばタイトル保持者は神の子であると同時に棋界の大切な表看板でもある。それを菊地のような一介の中堅棋士がぶん殴るなど言語道断。世が世なら私刑にかけられても文句は言えない。
正直なところ、菊地にも何故その先輩棋士を殴ったのかよくわからない。元々犬猿の仲というわけでもないから、おそらく先方のなにがしかの言動が気に障ったのだろうが、何より記憶がない。彼はそこそこ重度の酒乱で、悪いことにそういうときまず手の出るタイプだった。
「……冴えんなあ」
眠っているとばかり思っていた浮田が目を瞑ったままむにゃむにゃとつぶやいたので、両隣の吉脇と来島は一瞬ビクッとしたが、老人はそれきりまた黙りこんだ。
「そろそろ日付が変わるねえ」
内心は千々に乱れているだろうに、どこか間延びした口調で佐久間が言って、一同はハッと気づいたようにそれぞれ時計に目をやった。23時59分。
『3月8日0時集合。遅刻、欠席を許さず』
東京将棋連盟会長の南風原からそういった主旨の通達が届いたのは数日前のことだ。
対局は深夜に及ぶことも少なくないから棋士は総じて夜更かしには慣れているが、さすがに女性たちは眠そうだ。浮田のようにもはや寝ているのか起きているのかわからない者もいる。
皆それぞれに、何とはなしに剣呑なムードを予知してはいる。なにしろ将棋指しは「三手一組」と言うように先を読むのが仕事だ。こうする。こうくる。そこでこうする。ただし、ここに呼び出された面々がおのおのなにがしかの後ろ暗さを抱えている、という以上のことは今はわからない。その後ろ暗さの陰翳は大なり小なりだが、すくなくとも殺人や放火といった取り返しのつかない事態の当事者でないこともまた確かで、いわば小悪党やとことん自分本位な者たちの一座に過ぎない。だからこそ余計に、その罪の微妙な重みがゆえ、これから何が起こるのか不安になるのだ。
秒針は正確に進み、そして、ついにその時が来た。