第3話 風呂と大根とねぎの謎
大根とねぎの頭が飛び出した、まるで主婦の持つような買い物袋をぶら下げて戻ってきたギリシャ彫刻。
けれどそれを見た咲綾先輩は眉一つ動かさない。
「タカ、あと30分で合奏練習始まるわよ。ソロパート大丈夫でしょうね?」
「任せておけ」
え?え?
あの買い物袋の中身は何?
お母さんに買い物頼まれたの?
なんで部活中に買い物に行くの?
そして咲綾先輩は従兄弟の行動に何もつっこまないんですか?
買い物袋を壁際に置くと、鷹能先輩は棚から黒いケースを取り出し、銀色に光るトランペットを手にした。
謎すぎて目が釘付けになっている私と目が合って、先輩がやわらかく微笑んだ。
先輩の笑顔、初めて見た。
その微笑みは、スーパーの袋の生活感とはかけ離れたところにある芸術的な美しさに見えた。
「やりたい楽器は決まったのか?」
さっきとは別の意味で目が釘付けになってしまった私に、鷹能先輩が優しく問いかける。
「いえ…まだ」
まだ?
私、今なんか余計なこと口走らなかった?
「まだ勧誘期間は始まったばかりだしな。パート決めも先だ。
ゆっくり決めればいい」
そう言って、鷹能先輩はトランペットを真一文字に結んだ口に当てて息を吹き込んだ。
高くてよく通る、透明な音。
彼の整った横顔のせいか、音まで高潔に聞こえるから不思議だ。
孤高を含んだ美しい音色。
目を閉じると妄想が浮かんできた。
爽やかな風が吹き抜ける緑の丘の上。
トランペットを吹いている鷹能先輩の隣で私がそれを聞いている。
一曲吹き終わった先輩が、私にやわらかく微笑みかける…。
「じゃあ、私も合奏の準備があるから、今日の案内はここまでにするわ。
明日はいろんなパートを実際に体験することにしましょ。
なんなら、この後の合奏練習まで残って見学してもらってもいいけど」
咲綾先輩の言葉が私を妄想から連れ戻した。
「いえっ!今日は帰ります!
ありがとうございました」
この場所では冷静に考えられない。
家に帰って頭を冷やして、断る理由を考えてこよう。
フルート部屋(お風呂場)へ戻る咲綾先輩と一緒に階段を下りるとき。
「また明日」
鷹能先輩がこちらを見てトランペットから口を離して微笑んだ。
彼の魔力で私はまた「はい」と返事をしてしまった。
本当に魔法にかけられてしまったかのように頭がぼわんとする。
今日はスマホとタウン誌でバイトを探すはずだったのに…。
ふらふらと玄関に降り、笑顔で手を振る咲綾先輩に会釈して帰ろうとしたときだった。
「あの…入部希望なんですが」
玄関からアニメ声の小学生がちょこんと顔を出した。
「あら、ここは高校の部活よ?小学校は隣…」
と咲綾先輩が言いかけたとき、その女の子がぴょこんと横に飛び、全身を見せた。
うちの高校の制服だよね、それ…。
「えっ?高校生!?」咲綾先輩もびっくりだ。
「はい。1-Aの角田あゆむです。中学でチューバやってました」
「えっ!?その体でチューバ!?」
先輩の反応を見るに、どうやらそこはさらに驚くところらしい。
「…じゃあ、2階に上がってくれるかしら?」
「はい」
小さな女の子はちょこちょこと中へ入ってきて靴を脱いだ。
ヤバいっていう噂の吹奏楽部でも入部を希望するもの好きがいるんだ…。
明日はどうしよう?
しらばっくれて青雲寮へ行かなければ済む話かな。
もし勧誘につかまったら「やっぱり興味がわかなかった」でいいかな。
いや、興味がないといったら嘘になるけど、それは鷹能先輩個人に向けた興味だもん。
そんなのは入部動機にならないよね。
あっ!そういえばお風呂の謎を聞くのを忘れてたなぁ…。
大根とねぎの謎も増えていたんだった。
”うんりょーに住んでくれ”の意味もわからないままだし。
結局頭の中は鷹能先輩のことだけがぐるぐると回っていた。
――――
翌日。
「知華ちゃん、昨日どっかの部活のぞいてみた?」
教室で茉希ちゃんが尋ねてきた。
「それが、成り行きで吹奏楽部に連れて行かれて…」
言い淀んだ私に、茉希ちゃんが驚きの声をあげた。
「ええっ!? ヤバいって噂の吹奏楽部に行ったのぉ!?」
「うん。でもそんなにヤバいようには見えなかったよ?
部室は一風変わってたけど」
茉希ちゃんとは友達になってまだ数日だ。
私までヤバい人認定されるのは困るから弁解した。
「私は昨日軽音楽部をのぞいたんだけどね。そこの先輩たちから吹奏楽部の話を聞いたんだよ」
どんな話を聞いたんだろう?
「吹奏楽部はね、顧問の先生いるんだけど、吹奏楽部のことで心労がたたって長期休暇中らしいんだ。
それで、コンクールの参加とか演奏会の準備とか全部自主運営してるから、他の先生方もなかなか介入しにくいんだって。
部室も校庭の一番隅だし、近寄りがたい雰囲気だから好き放題やってるって話でね。
部員も変わった人が多くて、休日だろうが夜中だろうが部員が部室に入り浸って”魔窟”になってるって。
中でも、部室に住んでる”主”みたいな人が相当ヤバい人だって言ってたよ」
部室に住んでる…って、思い当たるのは一人しかいない。
部室でお風呂入ってて、部活中に大根とねぎを買ってくる人。
私は頭がクラクラした。
やっぱりヤバい人なんだ、鷹能先輩って。
そしてやっぱり住んでるんだ、青雲寮に。
「その”主”ってどんなふうにヤバいのかなあ?」
ドキドキして冷や汗が出そうだったけど、できるだけ平静を装ってきいてみた。
「なんでも、学校で箝口令がしかれてて詳しい話は出回ってないらしんだけど…。
入学して早々に部室に一人で住みだすし、当時3年生のグループを木刀でフルボッコにしたりして、相当荒れてるらしいって話だよ」
クラクラを通り越して倒れそう。
鷹能先輩ってそんなにヤバい人!?
…いやいや。あの気品あるたたずまい、荒れているとは考えられないけどなぁ。
あのやわらかい微笑みを見てしまったら、あの人が悪い人だなんて考えられない。
別の意味で私を惑わすヤバい人ではあるかもしれないけれど。
「…まさか、知華ちゃん、吹奏楽部に入るつもりなの?」
真剣に心配してくれている表情の茉希ちゃん。
「ううん。私は帰宅部の予定だから、吹奏楽部にも入る気はないよ?」
「うん!それがいいと思う。また勧誘されるかもしれないけど、変に足を突っ込まないように気をつけてね!
特にそのヤバい”主”には近づかないこと!」
私たち二人がそんな話をしているときに、
「あの、ちょっといいかな」
一人のクラスメイトの男子が声をかけてきた。