第1話「東の国より、ひかる・イズル?」九
「宝路……おい、宝路!」
──!
担任が自分を呼ぶ声で、まどろんだ世界が、一瞬で弾け飛んだ。
気付けば帰りのホームルーム。
「大丈夫か?どこか調子が悪いのか?」
瓶底眼鏡の下から、担任・井之頭が心配の眼差しを向けている。
父と同年代であろう、この担任は、父とは全く反対の穏やかな男だった。
「い、いえ、大丈夫です」
「そうか、それならいいが。もう一度言う、帰りに理科準備室に来るように」
「エ?」
「今日は、宝路にしては珍しく、遅刻したからな。宿題を渡すから。あと、窓拭きもして貰おう」
──えー、面倒、だな。
「はい、わかりました」
嫌な事も、素直なフリをして返事をする。イズルの癖だ。
「じゃあ、今日はこれで終わり。日直」
井之頭の声を合図に、日直が帰りの挨拶をして、次々と生徒が教室から出て行く。
その並に一人逆流して、ユーゴとマリンがイズルの元に来た。
「イズル、遊びに行こうと思ったけど残念だな。てか、お前、明日誕生日だろ? 明日何かおごるよ」
「マジで? サンキュー、マリン」
「エ? 明日? そうだっけ? じゃあ、明日俺様が、流行りのゲーム『オーラバトラー』の、特別レクチャーしてやろう! わははは!」
ユーゴは、いつものように豪快に笑うと、
「じゃ、悪りィけどお先に!」
と鞄を持ち上げた。ユーゴに続くように、マリンも鞄を肩にかける。
「イズル、明日な」
「二人とも気を付けて帰れよ」
イズルは、二人を見送ると、鞄を持ち、教室を後にして、理科準備室に向かった。
間も無く到着し、扉をノックしたが、反応がない。
ただ聞こえないだけだろうと、ドアノブに手をかけ、少し扉を開く。
すると、わずかな隙間から暗闇が漏れた。
更に扉を開くと、カーテンを閉め切ったその真っ暗な部屋で、
卓上の蛍光灯が、やんわりと井ノ頭のデスクを照らしていた。
「先生?」
部屋の隅で作業でもしているのだろう、と一歩踏み込み、入り口近くの隅に視線を向けたが、相変わらずそこは沈黙の空間。
隅から視線をずらすと、再び、目に付いたのは、卓上蛍光灯だった。
まるで、黒い空間の中で、手招きをしているように、やわらかく光る。
イズルは何故か、その光に引き寄せられるような感覚に陥り、歩き始めた。
人体模型や、骨格模型の前を通り、デスクの前に立つ。
整理整頓されたそこには、古ぼけた赤い一冊の本が、意味ありげに置いてあった。
デザインからして日記か。
イズルは、これは見てはいけないと思い、振り返ろうとした。
その時、その赤い本の下に、半分ほど写真が、はみ出ている事に気付く。
そして、そこに写る栗色の髪の毛が視界に入った時、イズルの体が凍りついた。
忘れもしない、昔から見慣れた色。幼い日頃から、数知れず開き、目に焼きついているアルバム。
それは、母の髪の色そのものだった。
──こんな所に、母さんの写真があるわけがない、でも。
確信と疑いという矛盾を同居させたまま、その半分だけ見える写真から目をそらそうとした。
だが、わずかに疑いの気持ちが勝った時、イズルは、自然と写真に向かい手を伸ばしていた。
少しずつ引き出す。
引き出せば引き出す程、その疑いは、真実に変わった。
「母さん」
何故、ここで母の写真を発見するのか。
事態が飲み込めない。まさか、と、赤い本を持ち上げる。
背表紙には「S・T」というイニシャル記されている。
それを、母の名前「サヨコ・タカミチ」と理解するまで、時間はかからなかった。
どうして、井之頭が持っているのか。
おそらく、日記を開けば全てわかるであろう。
いや、何となく、感じてはいる。
父と同年代の担任が、母の日記と写真を持っている。
父から、本当の子ではないと告げられた日の出来事としては、あまりにも出来すぎたタイミングだった。
知りたくはない、だけど──。日記を持つ手が震える。
もう片方の手が、日記に触れ、ゆっくりと、その過去の扉ともいえる表紙を開こうとした。
その時。
突然、鈍い機械音が唸りをあげ、イズルは、思わず日記をデスクに戻した。
一気に現実に引きかえされ、唸りが響く方を振り返る。
暗闇に目が慣れたせいか。端に黒いカーテンに仕切られた、小さなスペースを見つけた。
音の振動に合わせ、わずかにカーテンが震えている。
近づいて、カーテンをそっと開けると、そこには、モニター付の箱型の機械が、低い唸りを上げていた。




