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屍の夜

   ◇ ◇ ◇




扉を押さえた手は、ぴくりとも動かず、その向こうに闇に紛れた顔が見える。



知らない顔だ。



眼だけが爛々と輝き、紛れもない殺意を感じる。


ドアノブを握った手はもう千切れそうに痛い。なのに私は扉を閉める事は出来ない。



あまりにも非力な自分を呪いながら、混乱した頭を働かせた。



何とか助かる術はないのか?と。





ふいに男が口を開き


「東雲さんは死んだよ」


と、言った。


「えっ?」



しまった。


あまりに突拍子も無い事を言われ、その拍子に手が緩んだ。




勢い良く扉を開けられ、私は体制を崩し床に倒れた。



男はそんな私を見下ろしていた。あの殺意で輝く目で。



「東雲さんに、娘が居るなんて知らなかったよ、危ない危ない」



この声。顔は見たことの無い男だが、この声は聞き覚えがある。



しかし、男は私が記憶の縺れた糸をほどく事なく、あっさりと自分の正体を明かした。



「いくら変わりものとは言え、他言しない保証は無いからね。東雲さんには消えて貰ったよ」



あの男だ……!


殺した女を押し付けて行った男。



黒い外套を着たその男は、私の喉元に手を伸ばした。






私は男の手からすんでのところで這うように逃げた。


しかし男は私を泳がせているらしく、わざとゆっくり追ってくる。


……しまった……家の外へ逃げれば良かった。



家の外なら、いくら忌み嫌われている骨磨き屋の娘とは言え、助けを呼べば誰かが駆けつけてくれただろうに。



学校で一番頭が良いと自負していた自分を恥じた。



腰が抜けるとはこの事だろう。私は全く立ち上がる事が出来ずに這いずり続け、気が付くと台所のテーブルの足に頭をぶつけた。



痛みと共に、何でこんな所にテーブルがあるのだ?と怒りが沸き上がり、それが皮肉にも私を立ち上がらせた。



しかし、男は私のすぐ後に来ている。



何か……

何か、武器になるようなもの……



テーブルの上にはさっき私が飲んだ紅茶のカップ、そして……




一瞬だが勝機が見えた。

私は男に向き直り、後ろ手にテーブルの上のものを探る。



男が不敵に笑いながら近付いてくる。



まだだ。


まだ。


もっと引き付けてから。



やがて男が歩みを止めたその時。



私は後ろ手に持っていたものを男に突き付け、その目を目掛けて絞った。



その香しい液体は見事に男の両目を潰した。



まさか、こんなに上手く行くとは。



紅茶に添えられていた、くし切りの檸檬。


父はいつも檸檬を輪切りではなく、くし切りにする。





男が身悶えているウチに逃げないと。



玄関までの通路は、目を潰されて錯乱した男が塞いでいる。



作業場へ向かい、本棚の本を闇雲に叩く。



どれだったろう?

どの本を戻した時に本棚が開いたのだろう?



早く!早く!



男がやって来る!



助けて!



父さん!







本棚の一番上の本を叩くと僅かに引っ込み、本棚が動いた。







本棚を内側から閉め、あの秘密の通路で息を殺した。



反魂香の香りが充満し、当たり前だが真っ暗で何も見えない。



「出てこい!東雲の娘!」



男が叫んでいる。


檸檬の酸はもはや涙で洗い流されたのだろう。



死体を煮沸する鉄の大鍋を叩く音や、薬品棚から薬品の瓶を落として割る音が聞こえる。



父さん……



あの男が言ったのは本当だろうか?


父さんはもう……




暗闇が、黒い天鵞絨のように私を包む安心感。



そうすると今度は、恐怖よりも悲しみが私を襲った。



父さんが死んだら、私の正体は永遠に解らないままだ。





いや、それ以前に、たった一人の肉親だ。


父が

動かない屍になる様を、磨き上げられた骨になる様を

想像すると、涙腺の奥がぴりぴりと痛んだ。



親子二人で寄り添うように生きて来た。



それを思うと、この扉の向こうにいるだろうあの男が、父を殺したと言うあの男が、心底憎くて堪らない。



しかし、この暗闇から出て行き、あの男に制裁を加える程の力は私にはない。


檸檬で目潰しするのが関の山だ。



悔しさと悲しさで泣いていると、静かになった事に気付いた。



腹いせに物を壊す音も足音も、聞こえなくなっていた。



……諦めて出て行ったのか?



……それとも息を殺して私の気配を探しているのだろうか?




背中を冷たい汗が伝う。






でも、あの男は口封じが目的でやってきたのだ。


今更引き下がるとは到底思えない。


いつまで此所に居ればいいのだろう?

反魂香の香りで噎せ返りそうになり咳を必死で堪えた。



いや、反魂香の香りではない。これは……




ああ、何て事を!あの男は……



家に火を付けたんだ。











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