9 虎獣人の憎悪
私物を取りに元の兵舎に戻った。
木製の小さなベッドと机、ただそれだけの狭い部屋だから私物もほんのわずかだ。
すぐにまとめて部屋を出ると、兵舎の入り口に酔っ払いがいた。
安いヴァインの瓶を煽った顔がこちらを向いて、ニタリと獰猛そうな口だけが笑った。
「よお、紅いカナリヤ」
わたしを斥候に出した、あの虎獣人の指揮官だった。
周囲には人影がなかった。
この兵舎は集団兵舎の一棟で、ここは共通玄関だから常に誰かが出入りしているのだが、《《まったく人の気配がない。》》
なるほど、そういうことか。
「俺様がなんでここにいるかって? 謹慎だとよ。はっ、たかが劣等種族一人、カナリヤに出したからって降格に謹慎なんてひでえ話だと思うだろ? ん?」
虎獣人がゆっくりと近付いてくる。安酒の臭いと、獣人の発する独特の臭いが鼻についた。
「それなのにてめえは今日付けで参謀部補佐官とはなぁ。不公平にもほどがあるよなぁ」
「……どいてくれ。わたしは行かなくてはならない」
「ああ? もうお偉いさん気取りかぁ? そのエラそうな態度、てめえが竜人の『番』っていうのは本当かもなぁ?」
「…………」
『番』というのは特別なものらしいから、兵の間で噂が流れるのは仕方がないことかもしれないが、やはり『番』だから昇進したと面と向かって言われるのは気持ちの良いものではない。
「私的な質問には答えない」
「はは、竜人も魔族も、『番』を失うと廃人になるって聞いたことがあるぜ……試してみるかぁ!」
「!」
反射的に床を蹴った刹那、立っていた場所で酒瓶が割れて粉々になっていた。
共通玄関に虎獣人の哄笑が反響する。その声を頼りに攻撃の手を避けるが、獣人の速度とパワーは近接戦において絶対的に有利だ。
「捕まえた♪」
「ぐっ……」
大きな手がわたしの首をつかみ、そのまま壁に打ち付けた。
「このまま絞め殺してやろうか? ああ?」
「…………!」
手を外そうとしてもビクともしない。
もがく身体は、徐々に宙へ持ち上げられていく。
圧倒的な、腕力の差。
どうしてわたしはこんなに腕力が弱いのか。
どうして首はこんなにも細く、手はこんなに小さいのか。
どうして魔法も使えないのか。
悔しい。悔しい。
この七年、戦場に出てずっとずっと抱えていた思いが噴き出す。
「おーおー、痛くて泣いちゃってんのかぁ。いいツラだなぁ、もっと泣け、苦しめ! ふははははは!!!」
ぎりぎりと締め付ける力に向かって叫ぶ。
ちがう! そうじゃない! 痛いんじゃない!
ただ人間に生まれたというだけで蹂躙されるのが悔しくて。
人間だからという理由だけで、父さんも母さんも村の人々も――。
「スカーレット!!」
衝撃と共に抱きかかえられた。
「ヴァレンディル、少将……?」
「えっ、ヴァレンディル少将?! 白い軍服……本物?! な、なんでこんな所に、まっ、まさか『番』って――」
「俺の『番』に手を出すな」
地の底から這い出る声と共に冷気が満ち、粗末な木の床を凍らせていく。
「氷魔法?! あ?! 俺様の足が?!」
虎獣人の足も床と一体になって凍り付いていく。
「ひっ、ひいいいい!! やめてくれぇっ、足がっ、足がぁあああ!!」
「ヴァレンディル少将!」
わたしの叫び声に、ぴたっと氷の侵出が止まった。
「いけません。この者を魔法で殺傷すれば軍規に反します」
「正当防衛だ」
「いいえ。閣下は正気を失っておられます。魔法を収めてください。補佐官として強く進言します」
しぶしぶと不満そうに、しかしヴァレンディル少将は軽く手を上げて魔法を解除した。
「待っていろというから遊撃部隊敷地のゲートでずっと待っていたが、様子がおかしいから見にきたのだ。見にきてよかった」
「ありがとうございます」
ヴァレンディル少将は虎獣人を睨む。竜人特有の縦長の瞳孔がつうと細くなると、床に凍りつけられた虎獣人は「ひっ」と情けない声を上げた。
「氷が解けたらさっさと自分の部屋へ戻れ。貴様は謹慎中だったはずだ」
「はっ、はいいいい!! もちろん、もちろん戻りますからどうかご勘弁を」
手をこすり合わせる虎獣人に見向きもせず、ヴァレンディル少将はわたしの肩を抱いて兵舎を出た。
♢
「だいじょうぶか?」
「だいじょうぶです」
「首が赤いぞ?」
「獣人は怪力ですからね」
「軍病院で手当てを」
「これくらい大丈夫です。それより、早く新しい兵舎で荷物の整理をしたいです。をれから仕事の説明を」
「だが! こんなに赤くなっているのに!」
「……もう勝手に騒いでいてください」
隣でずっと手当だ病院だと騒ぐヴァレンディル少将を振り切って、わたしはどんどん歩いた。荷物の整理などの私的なことなど、手早く終わらせたい。
階級が変わっても、兵士は兵士。今までと違う戦い方を考えなくては。
♢
「俺は今日のために半日休暇を取っているから、問題ない。どんどん用事を言いつけてくれ」
ヴァレンディル少将は得意げに言うが――そうじゃない。
「この二階はプライベートリビング兼寝室のようだな。スカーレットの好みのファブリックを注文しよう。どんな色柄が好みだ?」
「いりません。今のままでじゅうぶんです」
実際、じゅうぶんすぎるほどの部屋だ。
一階のリビングが淡いブルーと白いレースで統一されているのに比べ、二階は全体的に濃淡のあるグリーンと白いレースで統一されていて、一階と同じく落ち着いた雰囲気を醸し出している。
わたしには家具などの良し悪しはわからないけれど、洗面室も浴室も、ソファセットも天蓋付きのベッドも、落ち着いた趣味の良い品だと感じた。
「だから出ていってくれませんか」
「なっ……」
サファイアの瞳がみるみる悲しそうになるのを見て、わたしは頭を抱えた。
「ずっと隣にいられたら作業できないでしょう!」
「しかし! さっきみたいな暴漢の襲撃がまたあったらどうするんだ!」
「ここは要人用住居の敷地だから大丈夫でしょう?!」
「しかし!」
「下着をしまいたいんですけど!!」
……言ってしまった。
「し、した……?」
「だから! そこのチェストに下着をしまいたいんです! ここまで言わせないでくださいっ!!」
荷解きを終えたわたしがさっきからずっと握りしめている小さな袋を見て、それからチェストを見て、わたしを見て、ヴァレンディル少将の白皙の顔が真っ赤になった。
「そ、そういうことは早く言ってくれ!」
「言わなくても察してください!!」
やっと出ていってくれたので、わたしはそそくさと下着を洗面室のチェストに収納した。
ふう、これで引っ越しは完了だ。
「これでよし」
わたしは両頬を軽く叩く。
あとは補佐官としての当面の任務について聞かなくては。
『番』だからヴァレンディル少将の補佐官にされたが、任務は任務。
すでに思いっきり公私混同している(周囲にはきっとそう映る)ヴァレンディル少将に代わってわたしがきっちり任務を遂行しなくては。
階下に降りると、ヴァレンディル少将は何やら話をしている。
魔法で遠距離会話をしているようだ。
「……ああ、わかった。すぐに向かう」
会話を終えると、ヴァレンディル少将は立ち上がった。
「すまないスカーレット、俺はすぐに参謀本部へ行くことになった」
「かしこまりました。わたしも同行しますか?」
「いや、君は明日からの出勤になっているから、今日はここを整えることに注力してくれ。ルカンが、ここにエリス事務官を呼んでくれたらしい」
「それは助かります。ありがとうございます」
「彼女もこの敷地内に住んでいるから、わからないことは彼女に聞くといい」
「了解しました」
敬礼を返す。
ヴァレンディル少将の瞳が切なそうに揺れた。
刹那、歩み寄って来たかと思うとわたしの敬礼の手を取る。
そしてそのまま、自分の唇を押しあてた。
「?! なっ、なにを――」
「君と離れなくてはならないのが、とても……つらい」
それは言葉だけでなく、ただの愛のささやきでもなく、本当につらいのだろう。
大切な宝物のように持たれた手から、その想いが流れるように伝わってきて。
気が付くとなぜか心臓の音がうるさい。
わたしはどこか具合が悪いのだろうか?
それらを打ち消すように、わたしはヴァレンディル少将に持たれていた手をそっと抜いて、再び敬礼した。
「いってらっしゃいませ。閣下」




