23 謹慎中の訪問者②
玄関ベルが再び鳴ったのは、残った紅茶を飲んでいるときだった。
一人だとこんなにきちんとティーセットを出してお茶を飲むこともないので、せっかくだからと思って。
エリスが忘れ物でもしたのかな。
そう思って、彼女が座っていた場所を見たけれど、何かを落とした形跡はない。そのときベルがもう一度鳴ったので、玄関へ出て扉を開けた。
「あ……」
ヴァレンディル少将、という言葉は口の中で丸まってしまった。
なんというか、あまりにも先ほどと空気が違う。
さっきは雷雨を引き連れる竜神だったが、今は……捨てられた子犬?
仕立ての良いスラックスにざっくりとしたシャツという格好も空気感の違う理由かもしれないが、とにかくわたしはその場で固まってしまった。
「ちょっと、いいだろうか」
躊躇うように視線を泳がせているヴァレンディル少将にどう答えていいのかわからなくて。
いいです? 嫌です? どっち?
言葉は出ず、けれど上司から質問されたときの条件反射でわたしはコクコクと頷いてしまった。
「では失礼する」
わたしの脇を通り過ぎた長身から、ふわり、と石鹸のようないい香りがした。
瞬間、心臓が耳の奥で爆音をたてる。
わたしは慌てた。
どうしたんだろう、わたしは具合が悪いのだろうか。
激しく叱責されたショック?
ヴァレンディル少将が傍を通っただけなのに、あの正体不明の不安が襲ってきて耳やら顔やらが熱い。
まずい。熱があるかもしれない。
けれどヴァレンディル少将はもうリビングに入っていて、今さら「具合が悪いので帰ってください」とも言えない。
どうしよう。
そう思って白いシャツの背中を追いかけると、リビングの入り口でヴァレンディル少将が立ちつくしていた。テーブルの上はエリスとナレシル少将が来たときのままなのだ。それは面食らうだろう。
「散らかっていてすみません。すぐに片付けるので、適当に座ってください――?」
そう言ってテーブルに近付いたわたしは、ヴァレンディル少将がものすごく複雑な表情でテーブルの上のクッキー缶を見ていることに気付いた。
ヴァレンディル少将の手に抱えられた、まったく同じクッキー缶にも。
「あー……すまない。見舞いにと思って市場で購入したのだが…………」
考えるより先に、手が動いていた。
「うわぁありがとうございます!!」
わたしはそう言って、ヴァレンディル少将の手からクッキー缶をほぼ奪うようにして受け取った。
「わたしこのクッキー大好きなんです! いくらあっても足りないくらいで! もう毎日でも食べたくって!!」
「そ、そうなのか……?」
ヴァレンディル少将が少しホッとした表情になった。それを見て、なぜかわたしもホッとして表情筋が緩む。
「はい。なので、ありがとうございます。今、新しいお茶を淹れますね」
キッチンへ行こうとすると、後ろから抱きすくめられた。
ど、どうしよう。
身体がカッと熱くなり、さっきよりも心拍数が上がっている。胸が苦しい。これはまずいかもしれない。リザードにやられた傷は心臓にまで影響を及ぼしていたのかもしれない。
「ヴァレンディル少将、申し訳ありません、わたし、少し身体の具合が――」
「あまり心配させないでくれ」
わたしの言葉は、耳元でささやかれた言葉に重なった。
「リザードの前で倒れている君を見た時、もうダメかと思った。思ったら感情が制御できなくなって気が付いたらリザードを殲滅して、君に治癒魔法を浴びせていた。任務中なのに、他の隊員の意見も耳に入らなくて。俺は司令官として失格だった」
「ヴァレンディル少将……」
「でも、君を失いたくなかった」
苦しそうにささやかれる言葉。わたしの肩に顔をうずめているヴァレンディル少将の息が熱い。わたしの心臓はもう破裂寸前だ。このまま死ぬのだろうか。
くらりと目眩がしそうになると、大きな手が、わたしの肩をそっとつかんで前に向かせた。
わたしはハッとする。死にそうだった意識がはっきりする。信じられないくらい端整な顔は今にも泣きそうで、青い瞳には切なげな光が揺れていたから。
そんなに悲しそうな顔をしないで。
思わずそう言いたくなる。上司であることも忘れて、頭を撫でてあげたくなる。
「二度目だ。これで最後にしてくれ。でないと俺は……正気でいられない」
刹那、ふわりと石鹸の香りに包まれた。ヴァレンディル少将の胸は広くて、わたしはすっぽりその中におさまってしまう。
どうしよう。心臓が再び激しく鳴っている。さらに胸が苦しくなってきた。
やっぱりこのまま死ぬのか?
……それも、悪くないか。
誰かに抱きしめられることがこんなに心地いいのなら、このまま眠るように天へ召されるのも幸せかもしれない。
そう思って目を閉じれば、大きな手がわたしの額の髪を梳いた。
その手はゆっくりと優しくて、わたしは思わず目を閉じる。
瞬間、夕食会の夜のように額に温かい感触がそっと触れた。
あの傷に触れる。やっぱり不快じゃないし痛くもない。
唇が離れると、ヴァレンディル少将は髪からわたしの頬に手を滑らせた。
「スカーレット」
「はい」
「この傷のことを話してくれるか? 俺は君のことがもっと知りたい」
思わず顔を上げる。吸い込まれそうな青い瞳は真剣だった。
頭の中に記憶の残像が流れては消えていく。七年間、誰にも話さなかったこと。話せなかったことが、言葉になって立ち上がってくる。
「座りませんか?」
わたしが言うと、ヴァレンディル少将は少し驚いたように青い瞳を見開いて、それから微笑んだ。




