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第三章:屠る神、消える名 第九話「十字の路地にて」

 氷を砕いた細かな欠片だけが風になったような夜だった。

 街筋の灯火は、油皿の底で怯える虫のように身を丸め、灯芯の先で青白く震えている。匂いは重く、澄んだ空気の底に、油と煤、湿った木戸の匂いが沈んでいた。

 四つの路地が交わる辻の中心に、白装束の影がひとつ立つ。沖田静。肩は落ちて、背はすっと伸び、右の手は柄の近くで止まっている。風が袖をなでるたび、布目が月の光を拾って、乳白色にきらめいた。

 その背に触れる風は、ただの風ではない。四方から押し寄せる気配が、細い金属片のように混じって肌に刺さる。

 ――囲まれている。

 四辻の奥、黒い路地の縁から、鎧の音が少しずつ増えていく。黒衣に小札、肩から垂らした数珠。蓮華宗の僧兵たちが、影から水が滲み出すように形を得て、円陣を組む。数珠の玉が、かちり、かちりと夜気に触れて鳴った。その音は祈りの律動ではなく、罰を数える指の音に似ている。

 先頭に立った一人が、灯火を背にして、面頬の奥から声を落とした。

「……なぜ、知っている?」

 静は首を少し傾げた。白い襟のあわせが、風に震える。

「何を?」

「とぼけるな! 今宵そなたが粛清対象となっていることをだ!」

「知りませんよ」

「嘘だ! 嘘でなければ……もっと、取り乱すだろう」

「……恐れるに足らないからです」

 薄い答え。だが、嘘ではない口ぶり。僧兵の背後で、わずかなざわめきが生まれた。

 静はその揺らぎを、数えるように眺める。

「なぜ逃げようとしない?」

「――斬るための口実ができるでしょう?」

 声に起伏はない。湯気の消えた茶のように冷めている。

 僧侶の喉がひっと短く鳴った。

「――私を誰だと思っているんです」

「鬼だ! こいつは人ではない!」

 四方で、同時に、刃が呼吸を変えた。

 最初の一撃は、背からだった。

 槍の穂先が灯火を一瞬つかんで、肩口へと真っ直ぐに走る。

 静は振り返らない。左手の鞘が、半歩下がる足と同時に上がり、穂先を受け流す。右足が前に出て、押し上げられた槍柄に短く体重を乗せ、瞬きより短い間に蹴りが喉を打つ。

 喉の中で何かが潰れる音。吐息に血の泡が混じり、夜の冷たさにすぐ薄くなって消えた。

 「ひとり。」

 小さく呟く。帳面に印をつけるような平らな声だった。

 刃の雨が降り注ぐ。

 右からの太刀は鞘で受け、肘を外へ弾いて間合いを外す。左からの長巻は、刃の背で押し下げて軌道を狂わせ、踏み込みに合わせて柄頭を眉間に落とす。背後の足音が一つ、雪を踏む音の沈みで分かる。半身に返って、空を切る鋼の風を脇の裾でやり過ごす。

 火花が散る。舞いかけていた雪片と一緒に、火花は空中で小さな渦を作って消える。

 倒れた者の息は白く、すぐ夜に溶けた。

「ふたり。」

 僧兵が、息を呑むのではなく、息を見失った。

 数で勝っているはずの輪が、密度だけを保ち、心の芯が少し剥がれたように見えた。

 四つの路地のうちひとつ、廃材置き場のある家の木戸の隙間から、小さな光の粒みたいに瞳が三つ覗いている。男の子がひとり、女の子がひとり、老婆がひとり。

「……白い……」

「笑ってる……」

 囁く声は、寒さの震えではなく、背骨を撫でられるような恐怖に震えていた。見てはいけないものの輪郭が、灯火で増幅されてしまうことがある。

 この夜の辻は、そういう場所になってしまっていた。

 正面から一人、僧兵が一足で間を詰める。剣先が雪を払って鳴り、静の喉を狙って伸びた。

 静は右の足の裏で雪の面を削るように滑り、半歩、刃の線から外れる。同時に鞘を差し込んで剣を絡め取り、柄の端を手首に打ち込み、握りを甘くさせる。

「っ、」と相手が息をこぼした瞬間、静の膝が相手の腿に入る。崩れた重心の上に、刃の背が首筋を叩いた。

 音は小さく、だが確実に骨の下の何かが動く音だった。

「みっつ。」

 静の声が、僧兵たちの耳の中で、それぞれ違うものに聞こえた。祈祷の数えとも、罰の数えとも、運命の糸を巻く指の囁きとも。

「こいつは……人じゃない!」

 誰かが叫んだ。数珠が握り締められ、玉と玉が高く澄んだ音でぶつかる。

 「妖だ! 妖を沈めろ!」

 その言葉は相手に向けられた刃ではなく、自分たちの恐怖の輪郭に刃を突き立てるためのものだった。名をつければ、少しは楽になる。

 しかしその名は、輪の中を走る寒気を、むしろ増やすだけだった。

 後方の僧兵が、一歩、二歩とじり下がる。すぐ横の者にぶつかって、目が合う。目の奥で、互いに、自分ではない誰かが先に倒れるよう祈る色が過ぎる。

 優位のはずの輪の中に、劣勢の匂いがついた。油に混じった焦げ臭のように、消えない匂いが。

 静の白装束に、最初の赤が咲いた。右脇を掠めた刃が布を食み、浅いはずの傷が冷たい風で痛みを増幅させる。

 痛みはある。

 だが、笑う。

 笑わないと、そこに空いた穴が、たちまち全身を内側から崩してしまうだろうから。

 ――味方から、抹殺の指令が出た。

 心の隙間に落ちたそれは、深いところで静かに溶けて、鍵のかかった部屋の底に沈んだ。

 沈んだまま、重さだけが残っている。

 重さに形を与えるために、静は斬る。斬るために、笑う。

 嬉しいのではない。ただ、笑いという形にしないと、胸が保たない。

「……四。」

 左からの槍を鞘に絡め、柄を回して穂先を跳ね上げ、相手の面頬の縁に刃先を短く当てる。すぐ引く。骨に当てぬ浅さで、皮膚だけを割く。

 血がにじみ、驚愕が生まれ、怯懦が広がる。

 この夜の戦いは、厚みではなく、広がりで動いている。感情が伝染する速度のほうが、刃の速度より速いことがある。

 雪がちらほらと落ちてきた。

 灯火の熱が弱く、雪片は溶けずに刃に止まり、呼吸でふわりと浮いて、火花と混じって舞った。

「五。」

 すれ違いざま、懐に入った僧兵の胸板に、柄で二度叩く。鉄ではなく、木で。剣を殺すことで、相手の判断を鈍らせる。斬られることより、斬られないことのほうが、時に人の心を壊す。

 僧兵は一瞬、命を拾ったと錯覚し、その直後に己の足元の雪が沈み込んだことに気づく。静の足が踵で膝裏を刈り、倒れた瞬間に、その首筋へ刃の背が落ちる。

 脳に届かない強さで、しかし十分な真っ暗がりを与える打撃。

「六。」

 戸口の向こう、老婆が唇を噛んだ。

「見ちゃいけない」と言えない。喉がこわばって、言葉が凍る。

 男の子の指が、木戸の節穴の縁を白くするほど掴んでいる。女の子の目が大きくなり、涙が出ない。

 恐怖の中で立ち尽くすとき、人は息を忘れる。忘れたことを、肺の痛みが思い出させるまで、しばらくかかる。

 輪は、壊れてはいない。

 壊れてはいないが、ふくらんでいる。

 ふくらみは、静の位置に引かれるように、少しずつ中心をずらした。

 中心がずれると、円陣は円陣でなくなる。

 そのわずかな歪みが、次の一太刀の帰り道を作る。

 右斜め前の僧兵が、長巻を思いきって振り抜いた。刃は雪と空気を裂き、静の左肩口に噛みつく。

 布を割く音。皮膚を裂く音。筋に触れる音。

 痛みが、短い火の矢のように走る。

 静の口の端が、わずかに上がる。

 ――これで、まだ斬れる。

 痛みは、生の証明だ。斬ることの口実になる。

 喜びではない。

 それでも、笑いは形だけ先に立つ。

「七。」

 斬り込んできた相手の手首に、逆袈裟の浅い切りを入れ、刀を奪わず、握りの均衡だけを崩す。

 奪わない。それが相手の恐怖を増幅させる。

 奪われるなら、次はどうするか考えられる。奪われないまま握れなくなると、人は自分の手を信用できなくなる。

「八。」

 僧兵の一人が、経を唱えはじめた。声は震え、節は早まる。

 隣の者が「止めろ」と囁き、しかしそれは囁きではなく、ほとんど泣き声に近かった。

 祈りは、刃を前にしては、刃の音に変わることもある。

 静は、その声の方向に、わざと一歩だけ重く足を置いた。雪が沈む音が、経の節を乱す。

「九。十。」

 数える声が、今度は自分の耳にも少し遅れて聞こえた。

 血の匂いが強くなる。油と混じって、わずかに甘い匂いになる。

 甘さは、吐き気を伴う。

 吐き気の向こうに、空洞がある。

 空洞の底で、名前のない石が冷たく反射する。

 背を薙がれた。

 切先が肩甲骨の縁で滑り、浅いはずの傷が、冷えで深さを変えた。足元の雪が赤くなり、蒸気が低く立ち上る。

 呼吸が一つ、深くなる。肺の奥が冷たい水で洗われるように痛い。

 笑う。笑うしかない。

「……ああ……あああ……まだ斬れる……」

 嗄れた声。笑いとも呻きともつかぬ響き。

 その音が、僧兵たちの耳に張り付いて、思考を剥ぎ取っていく。

「化け物! 化け物を屠れ!」

 左から二人、右から一人、背から一人。四つの刃が交差してくる。

 静は一歩、辻の中央を踏み外す。十字の交点から、わずかに南へ。

 交点を外すと、四方の刃は互いに干渉を始める。

 一本は相手の盾に当たり、火花を散らした。一本は少し遅れ、一本は速すぎ、一本は空を切った。

 遅れた一本の根元を鞘で押さえ、速すぎた一本の返りの軌道に刃を滑り込ませる。鋼と鋼が擦れ、高い音が空に逃げた。

 空に逃げた音が雪片を震わせ、灯火の火がわずかに泣き、油の匂いが一瞬だけ濃くなる。

 静の身体は、もう軽くはない。

 だが、重い身体には重い身体の打ち方がある。

 足の裏で雪を丸め、踏み台にして、半歩ずつ、相手の呼吸を踏みつける。

「十一。」

 右の僧兵の頬に、刃の背が当たる。

 斬られなかった、その事実が相手の目を広げる。

 次の瞬間、広がった瞳の中で、自分が倒れる光景が先に起きる。

 恐怖は予見の形で、未来を先取りする。

 未来が先に起きると、今は空席になる。

 空席を、白い影が易々と通り抜ける。

「十二。十三。」

 戸口の子らのうち、男の子が無意識に片手を合わせた。掌の中で指が震え、音もなく擦れた。

 老婆は目を閉じられない。まぶたに力が入らず、眼球だけが乾く。

 女の子の唇から、細い白い息が箸のように折れて出る。

 輪の後方で、僧兵の一人が振り返った。逃げ道を見たわけではない。自分の背中の闇が、自分を食う気がしたのだ。

 振り返ったその一瞬の隙間に、静の足音が雪を滑った。

 雪は音を隠さない。隠さないが、遅れて響かせる。

 遅れて来る音に、人は間違える。

 間違えたまま、胸を開ける。

「十四。」

 胸の骨の上を、刃が浅く走る。

 血は温かい。

 温かさが冷気で奪われる速度が、いまは速い。

 温と冷の境目に、笑いの形だけが浮かぶ。

「十五。」

 僧兵の一人が、数珠を引きちぎった。玉が雪に散り、白い上を黒い丸が転がる。

 転がる玉が灯火を拾って、星のように瞬いた。

 それを見てしまった僧兵のひとりが、ふと、自分がこの場にいることの理由を失った。

 斬るためだ。

 沈めるためだ。

 言葉はあるのに、身体が言葉に合う形を忘れた。

 忘れた身体は、刃を持て余す。

 持て余した刃の重さに、腕が震える。

 静は右足を引いて、左足のつま先をわずかに外へ向ける。

 路地の石畳の段差が、足裏に地図を描く。

 地図の上で、相手の足がどこに置かれるのかが分かる。

 分かったところに、刃を置く。

 置くのだ。

 斬りつけるのではない。

 置くだけで、切れていく。

「十六。十七。」

 声がかすれて、乾いた。肺が冷たい瓶にされたように軋む。

 胸の奥で、骨の内側が白くなる。

 白は、静かだ。

 静かな場所に、笑いの形だけが残る。

 誰かが、泣いた。僧兵の誰かだ。

 泣き声は、経の節よりも早く、遅く、絡まって、ほどけない。

 泣きながら突いてくる刃は、まっすぐでなく、悲鳴の形をしている。

 悲鳴の形は、斜めに逸れやすい。

 逸れた刃は、隣の盾に当たって、高い音を出す。

 高い音は、雪の上で割れて、灯火の火を震わせる。

 静の左腿に、刃が入った。

 深い。

 膝が雪に沈む。

 沈む音は、心に届いてから耳に届く。

 遅れて届く音が、時間を二つに割る。

 いま、と、すぐあと。

 いまのほうに、刃を置く。

 すぐあとのほうに、笑いの形を置く。

「十八。」

 背の皮膚を、冷たい針金が引っ張るように痛い。

 汗は出ない。もう出せない。

 呼吸が短くなり、声も短くなる。

 短い声は、数字だけを連れてくる。

「十九。」

 僧兵たちの目は、もはや静を見ていない。

 見ているのは、各自の未来の中の自分だ。

 倒れる自分。逃げる自分。名を失う自分。

 未来の像が、現在の足を引っ張る。

 引っ張られた足は、雪の上で滑る。

 滑った足の下で、雪が鳴く。

 雪の鳴き声は、子どもの泣き声に似ている。

 戸口の向こうの女の子が、やっと涙を出した。

 涙は冷たくはない。

 温かさが頬を流れると、頬が自分のものに戻る。

 男の子は、掌を合わせたまま、指を一本ずつほどいていく。

 老婆は、やっと口が動いた。

「あれは、……あれは、人かい……」

 誰も答えなかった。

 答えられない問いは、夜の底に沈んでいく。

 そこは、笑いの形が一つ、浮かんでいる場所と同じ深さだった。

「二十。」

 静は、刃の縁で灯火の炎を一瞬すくい、すぐに離す。

 火はすくわれたことを知らない。

 だが、油の匂いは、そこでいっときだけ甘くなる。

 甘さが、胃の底を撫でる。

 嘔気が上がりかけ、喉で止まる。

 止まったところで、笑う。

「……まだ、斬れる。」

 僧兵の一人が、堪えきれずに背を向けた。

 背を向けると、音が変わる。

 自分に向かっていた音が、背中越しに、追いかけてくる音になる。

 追いかけられる音は、足をもつれさせやすい。

 もつれた足の先で、雪が小さく跳ねる。

 跳ねた雪が、火花と一緒に空中で光る。

 静は、その光の軌跡が落ちる前に、最後の一歩を置いた。

 置いた足の下で、十字の交点が、わずかにずれた。

 ずれた交点に、刃を置く。

 刃はもう、重い。

 重いが、重いまま、置く。

 置いて、引く。

 引いた刃の背が、相手の兜の端に触れ、火花を散らす。

 火花は星形に飛び、雪片がそれを受け取って、すぐ溶ける。

 胸に、冷たい釘が入った。

 釘は、入ったまま、動かない。

 動かないのに、全身を動かす。

 膝が、雪に沈む。

 沈みは、音と別に、視界の端で起きる。

 灯火が少し高くなった。

 世界が低くなったのだ。

「……――」

 数字の形が、喉でほどけた。

 ほどけた紐は、息の形に戻らない。

 息は、胸の中で白くなって、しずかに消えた。

 僧兵たちの中で、何かが折れた。

 折れたのは、輪の形か、名の形か、祈りの形か。

「……もういい……」

 誰の声でもなく、輪の真ん中に残った言葉だけが、雪の上で転がった。

 生死の確認もしない。

 彼らは一斉に後退した。雪を蹴り、影の中へ消えていく。

 数珠の玉が数粒、雪に置き去られた。油の皿がひとつ倒れ、灯芯が短く煙を上げた。

 勝つために来た者たちが、勝ちを置いていく夜がある。

 この夜が、そうだった。

 十字路に、白装束だけが残った。

 袋小路の奥からの風が、辻をゆっくりとなでていく。

 灯火は、細い針のようになって、まだそこにある。

 雪が、降りはじめた。

 白いものが、赤いものの上に降りる。

 赤はすぐに鈍く、黒に近い色へ沈む。

 白はその上に、ためらいなく降りる。

 静は、仰向けに近い形で倒れていた。

 視界の端で、十字の線が交わり、ずれている。

 その交点のずれを、指先でなぞりたい衝動がうまれる。

 指は、動かない。

 手のひらに、柄の記憶だけがある。

 柄はもう、ない。

 ないのに、手は、そこにあると信じている。

 ――孤独。虚無。

 その言葉は、声にならないまま、胸の内側で白くなって、雪と同じ速度で降りていった。

 笑いの形は、まだ口の端にある。

 それが仮面であることを、本人だけが知っている。

 仮面は、温かくも冷たくもない。

 ただ、形があるだけだ。

 遠くで、木戸の軋む音がした。

 覗いていた三つの影が、そこから離れた。

 誰も、近づかない。

 十字路は、しばらくのあいだ、誰のものでもなかった。

 風のものでも、雪のものでも、血のものでもない。

 ただ、夜のものだった。

 やがて、灯火のいくつかが、油を失って消えた。

 残った灯が、弱く揺れ、弱く揺れるたび、白いものの上に、小さな影を生んだ。

 白いものは降り続き、影は増え、やがて見分けがつかなくなる。

 火花の匂いは、とっくに消えていた。

 油の匂いも、薄く薄くなって、ついに夜の匂いの中へ紛れた。

 十字の路地に、静けさだけが残る。

 静けさは、音がないことではなく、音のすべてが、同じ高さで遠ざかっていくことだ。

 その高さに、笑いの形だけが、置き去りにされている。

 置き去りは、風では運べない。

 雪でも、隠せない。

 四辻の夜は、最初から最後まで、同じ温度を保っていた。

 ただ、その温度の上に、人の名が、幾つか、乗せられて、降ろされた。

 その中のひとつは、今夜、記録から消える。

 消えるからこそ、十字路の石畳の目地が、やけに鮮明に見える。

 そこに、数珠の玉が一つ、残っている。

 玉は黒い。

 黒は、白の上で、小さな夜になる。

 夜の中で、笑いの形は、もう形としては見えない。

 それでも、そこにあることだけは、風が知っている。

 風が、いつか誰かに告げる。

 ――ここで、白い影が倒れていた、と。

 誰も、生死の確認をしなかった。

 辻は、その不在の言葉で満ちている。

 不在に、雪はよく似合う。

 雪は、何も問わない。

 問わないことは、慈悲ではない。

 ただ、夜が進むということだ。

 この夜の十字は、後に語られるとき、少しずつ別の形を与えられるだろう。

 妖だ、と呼ぶ者。

 人だ、と言い張る者。

 仮面の笑いを、初めて見たと震える者。

 そのどれもが、間違いではなく、正解でもない。

 正解という言葉は、夜の底には沈まない。

 沈むのは、名ばかりだ。

 名は、重い。

 重いから、沈む。

 雪は、やまなかった。

 やまないことに、終わりがないわけではない。

 やむ前の静けさが、ただ長いだけだ。

 白いものが、赤を覆い、黒に沈め、また白で覆った。

 覆われたものの数を、誰も知らない。

 知るべき人々は、みな、影の中へ戻っていった。

 四辻の真ん中に、白装束だけがある。

 袋小路の奥から、木戸の軋む音が、もう一度した。

 それきり、何も、起きなかった。

 夜は、夜のまま、続いていった。

 笑いの形は、風に運ばれず、雪に埋もれず、ただ、そこにあった。

 そのことだけが、この夜の証であり、虚しさの形でもあった。

 そして、その虚しさが、次の夜に、どこかで誰かの胸を、淡く叩くだろう。

 ――斬ることの、外側で。

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