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第三章:屠る神、消える名 第八話「粛清の前夜」

 冬の朝は硬く、色の少ない音から始まった。

 蓮華宗の僧房は、まだ夜の名残に濡れている。廊下の煤は黒く沈み、梁の角だけが外からのわずかな光を拾って鈍く光っていた。評定の間の奥、畳の上で蓮光が茶を点てる。茶盌の口から上がる湯気は淡く渦を巻き、盃の縁に触れて震え、ゆっくりほどける。そのほどけ方を、蓮光は見ている。見ながら、何も言わない。功績を称える声と、排除を求める声が、同じ屋根の下で交錯していることを知っていても、彼は湯の温度を乱さない。

「白は、宗の刃です」

 高い声が襖の外で言い、すぐ低い声が重なる。「刃はのちに血を呼ぶ。民の間の噂も、もう無視できません」

「噂は何と」

「民は白を”人斬り鬼”と」

「”敵味方関係なく切り捨てる男だとも」

「噂は風だ」

「風は、火を大きくします」

 障子の紙に影がふたつ、寄っては離れ、離れては寄る。蓮光は茶筅を止めない。打つ音だけが、僧房の静けさをかろうじて結び止めていた。

「いずれにせよ、評は今夜だ」

 第三の声が短く切り上げ、草履の擦れる気配が遠ざかる。残ったのは、湯気の渦と蓮光の沈黙だけだ。

 沖田静は、敷居の影に立っていた。呼ばれてもいないのに、呼ばれなくても、来いと言われる場所へ自然に立つ。一礼も名乗りもなく、ただ立つ。それでいつも足りてしまうのが、彼の居場所の形だった。

「静」

 蓮光が茶筅を上げ、湯の輪がひとつだけ茶盌の底に広がる。「冷えているな」

「はい」

「道は」

「短い」

 短い道しか歩かぬ者の返事。蓮光は、茶盌を彼の前に押し出した。湯気の渦が一瞬だけ静の頬に触れ、触れたことすらすぐに忘れたがって消える。

「功の声と、退けという声がある」

「……はい」

「私は、今は茶を点てる」

 告げられたのは、判断の猶予ではなく、猶予の形をした決意だった。静は頷いた。頷きは、茶盌の湯気に紛れて見えなくなる。

 僧房の廊下は、朝から煤の匂いを厚く保っていた。角に近づくと、声が細く漏れる。

「あれは刃だ、人ではない」

「だが刃は使うためにある。鞘に納めておく刃のほうが、よほど危ない」

 若い僧が二人、肩を寄せて囁く。片方は数珠を巻く指先が落ち着かず、もう片方は視線だけがやたらに動く。静の足音が角を曲がる前に、彼らは気づいた。気づいた瞬間に口を噤み、背を向ける。彼の白装束は、彼らにとって外気と同じ冷えを運ぶ。

「人ではない。あれは鬼だ」

 片方が息より低くつぶやいた。

 静は無言で通り過ぎる。通り過ぎることで、言葉は壁に貼り付けられたまま残り、残ったまま薄く乾いていく。乾いた言葉ほど、のちの夜に長く響く。

 寺庭に出ると、空の色が朝のうちから鈍い。枯山水の砂には新しい箒目が走り、波の峰は静かに立っていた。砂紋の上に、白いものがひとつ、ふたつ。雪だ。最初の雪片はうたかたの寿命を持って降り、次の瞬間には消える。消えずに残ったものがあれば、それはただの偶然か、誰かの内側の温度が冬に近かった証だった。

 静は砂の上の雪片を指で払う。払った指に冷たさが残る。残った冷たさは、刃先のほうへ移したくなる。鞘から半分も抜かず、刃の側にだけ顔を見せる。そこへ、雪がひとつ落ちた。

 雪片は溶けなかった。金属の光の上に、微かな六角の影がとどまる。息を止めるほどではないが、言葉が遠ざかるほどの短さで、静はそれを見た。

(終わりのようで、始まりの形だ)

 言葉にならない比喩が喉の裏で生まれ、すぐにほどける。ほどけた残りが、彼の指の腹を凍らせた。刃を納める。木は鳴かない。鳴かないものに寄り添うのが、今日の礼儀だ。

 僧房の縁側で、蓮光はふたたび茶を点てていた。盃の縁に落ちる湯気が揺れ、揺れの端に小さな黒い点があった。蝋燭の芯だ。黒ずみが増すたび、火は細くなる。細くなる火ほど、影を長くする。

「彼は――」

 蓮光の独白は、湯の音にかき消された。「我らの剣か、鬼か」

 茶筅の音が止み、蝋燭の火が揺れ、障子に映る影が伸びる。伸びた影は、誰のものともつかない形を取って、畳の端へ静かに触れた。

 昼過ぎから、寺内の空気は変わった。廊の向こうで結う声が短く、命令は丸められ、名は呼ばれない。名を呼ばない評は、たいてい剣の角度を決める評だ。静は自分が呼ばれないことを、むしろ安堵に近い鈍さで受け取る。呼ばれるべきなのは、いつだって出来事のほうだ。人ではない。若い僧の言葉が、廊の煤にしみこんで、彼の耳の内側へ遅れて落ちた。

 夕刻、寺の外縁に肩衣の一団が現れた。妙道院派ではない、町の寄り合いの男たちだ。板戸の外でひそひそと声を交わし、呼び鈴を慣れない手で鳴らしては、お互いに顔をうかがう。

「噂の、白」

「人斬り死神」

 子どもの布絵の言葉が、男たちの口の中で硬くなる。硬い言葉は、柔らかな首を狙う。

 蓮華宗の門弟が出ていき、丁寧に道を閉じ、言葉の角を落として帰した。閉じた道の向こうで、彼らの声はかえって高くなる。高いものは遅い。遅いものは、いつか刃に追いつかれる。

 夜半、雪は本格的に降り始めた。砂紋の峰がわずかに崩れ、崩れた谷に白が溜まる。白は清いばかりの色ではない。落ちたものを覆い、見えない形にしてしまう色だ。

 静は庭石の陰に立ち、白をひとつ、ふたつ、数えないように眺めた。数えれば、長くなる。長くなれば、鈍る。

(今夜、何かが切り替わる)

 そう感じただけで、理由は無い。理由は後から来る。後から来るものは、たいてい名前を持っている。名前は形だ。形は断てる。だが、断てば断つほど、残るものが増える。爪の隙間の黒のように。

 廊下の密談は、夜に入っても薄く続いていた。

「白は功が大きすぎる」

「功は宗を高める」

「それが宗を食う日が来る」

「ならば、今夜」

「今夜――」

 声がそこで切れ、足音だけが角を曲がる。角の煤が、踏みしめられた気配に黒さを増した。

 蓮光は、灯の高さをわずかに低くした。蝋燭の芯の黒ずみは長く、火は細く、影は伸びる。伸びた影が障子にふたつ重なり、彼はその重なりの中心だけを見た。

「刃が人になることはない……はずだ」

 独白は、茶の香りに沈む。沈んだ言葉は、水底の黒と変わらない。変わらないものは、夜の友だ。

 蓮光は茶盌を両手にあたため、湯の輪が消えるのを待った。輪は消える。消えるものだけが、彼を生かす。

 静は僧房の裏手、橋のない細い用水路を越えたところの闇に立った。用水路の上を、雪片が斜めに渡っていく。斜めは、刃の走り方に似ている。

(斬ることしかできないなら、世から戦が消えたとき、おまえは何になる?)

 春一の声が、用水路の底から上がってくる。上がっては、すぐびりびりと冬の水の膜に裂かれる。裂かれた残響が彼の胸に絡まり、ほどこうとする指が空を掴む。掴んだ空は冷たく、冷たいものは現実だ。

(今夜、斬らないほうへ)

 思っただけで、笑いそうになった。笑いは骨のきわでしか上がらない。上がらない夜を知ってから、彼は上げるべき時を選べるようになった。選べるのは、短い自由だ。短いものだけが確かだ。

 ――その時、雪の中に違う音が混じった。

 衣ずれが二、三。草履の擦れではない。刃を衣の中で隠すと、布が鳴く音が変わる。

 静は振り返らない。振り返れば、長くなる。長くなれば、鈍る。鈍れば、終わりがずれる。ずれた終わりは、長く残る。

「白殿」

 背で声がした。若い。昼間の囁きの片方だ。

「評は、今夜」

「はい」

「……お気をつけを」

 言い捨てるように言って、足音が消えた。忠告は、祈りに似ていた。祈りは要らない。要らないが、受け取れば短くなる。短い祈りは、刃の外にだけ効く。

 寺庭の砂紋に、雪片が増えていく。峰の形が崩れ、谷が白に埋まり、波が消える。消えた波の上に、彼の足跡は残らない。石の縁だけを踏み、踏んだ場所の冷たさを足の皮膚に移す。移された冷たさは、頬の熱よりも確かだ。

(もし、今夜が粛清の夜なら)

 彼は思う。

(斬られるのは、どちらだ)

 宗の名か、人の名か。刃の名か、鬼の名か。

 雪は、どの名にも降る。平等は冷たい。

 夜更け、評定の間の板戸が音を立てた。閉ざされたまま、内側に人の気配が増え、重くなる。息を潜めるほど、空気は厚くなる。厚い空気の中で、名を呼ばない評が進む。

 静は入らない。入らないまま、外で夜の骨を数えないで過ごす。灯がひとつ消え、蝋燭の芯が黒ずみを増した気配だけが障子の白に滲む。

「刃は使うためにある」

 昼の声が、外から内へ逆流する。

「使う者を、誤らせる刃もある」

 別の声が低く返す。

「白は、人ではない」

「人ではないものを使うのは、人ではない評だ」

 乾いた笑いが一度だけ、畳の目に吸われる。

 雪は降り続ける。庭木の枝が重さでたわみ、砂の波は跡形もなく白に紛れた。静は白の中に立ち、自分の白装束が誰よりも鈍く見えることを知る。布の白は、雪の白に負ける。負ける白が、夜だけ強い。

(終わるほうへ)

 彼の中で、古い合言葉が短く息をする。

(終わらせるほうで)

 それは、救いに似ている。似ていて違う。救いは誰かの内側にしかない。刃の外だ。

 評定の間の戸が、ふたたび音を立てた。今度は、静かに開く音だった。中から出てきたのは、蓮光ひとり。緋の袈裟のほつれは、まだ押さえられたまま。押さえる指の白さが、蝋燭の火より強い。

「静」

 呼ばれ、彼は歩を寄せる。

「評は、明けに続く」

「はい」

「今夜は、ここで終わらない」

 蓮光は、茶盌ではなく灯の高さを見た。「それが、粛清の前夜という名だ」

 名を与えられた夜は、容易に形を持つ。形を持てば、断てる。蓮光は、それでも断たず、ただ灯の芯をわずかに切った。黒ずみが短くなり、火が少しだけ太った。

「眠れ」

「眠れません」

「それでいい」

 微笑みではない、影の弛みのようなものが蓮光の口元に出て、すぐ消えた。「刃が人になることはない……はずだ。だが、人が刃になる夜はある」

「今夜は」

「今夜は、刃より先に火が動く」

 彼らの耳の外で、雪が降っている。雪の音は、いつだって間接的だ。直接の音ではなく、枝の軋みや戸の微かな鳴きで夜の骨に伝わる。静はその骨に耳を当て、うなずく代わりに、白鞘の口に指を置いた。木は――鳴いた。小さく、短く。

 合図だ。

「行ってきます」

 誰にも向けず、いつものことば。

 蓮光は、うなずきもしなかった。うなずかないことが、最高の許しであるときがある。

 廊下を抜ける。煤は相変わらず黒い。角で昼の若僧が立っていた。彼は顔を上げ、言おうとした言葉を飲み込む。飲み込んだものが喉に残り、残った影が、静の肩の高さにわずかに映った。

「人ではない」

 昼の囁きが、再び彼の背を追いかける。

 静は足を止めず、紙一枚ぶんだけ振り返らず、扉の向こうの白へ出た。

 外は、もう雪に染まっていた。砂紋は消え、石の縁だけが辛うじて通路の形を保つ。雪片が刃先に落ちる。落ちても、溶けない。

(今夜は、笑わない)

 骨のきわが、冷たくおとなしく沈黙していた。沈黙は、鋭い。鋭さだけが、薄い夜を切り取る。

 彼は境内の端を斜めに横切り、外塀の影に身を落とす。塀の泥は凍り、苔は雪の下で眠っていた。寝息のように、風が過ぎる。

 耳が拾った。

 ――衣ずれ、四。

 ――草履の擦れ、二。

 ――沈んだ呼吸、ひとつ。

 刃と火は、まだ出ていない。出る前の気配は、雪の中でよく増幅する。

 粛清の前夜。火が先に動く、と蓮光は言った。火が動けば、風が味方になる。風が味方になれば、刃は短くで済む。短い刃は、世界を汚さない。

(なら、動かしてやる)

 彼は白い息を吐かずに、身を沈めた。沈める角度は、春一の背が教えてくれたとおりだ。通り道を先に作る。刃はあとから来る。

 雪の降る音は、間接的だ。だが、今夜のそれは、どこか直接だった。皮膚に触れ、骨に触れ、名のない終わりを静かに促す。

 彼は、歩く。

 飄々と。危うく。はかなげに。どこか壊れた均衡のうえで。

 そして、戦闘狂の癖を胸のいちばん奥でやさしく飼いならしながら。

 粛清の夜が明ける前に、終わるほうへ、彼はもう、踏み出していた。

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