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第二章:京燃ゆ、狂騒の鐘 第六話「笑わない夜」

 川縁の石は、日が落ちてから冷たさを増した。丸いものは素直に冷え、角のあるものは遅れて冷える。遅れてくる冷たさの上に、沖田静は小さな焚き火を起こした。丸石を三つ、三角に置き、湿りの少ない小枝から組む。火打石が二度、三度。藁の毛羽がぱちりと縮んで、火は音を食い始める。

 春一が向かいに腰を下ろした。距離は二歩。二歩というのは、互いが立てば届く距離で、立たなければ届かない距離だった。彼は手甲を外し、指の節の皮を眺める。掌の皮は硬く、甲の皮は薄い。薄い場所ほど、傷の跡が長く残る。

「斬ることしかできないなら、斬らなくなったとき、おまえは何になる?」

 火の粉がひとつ跳ねた。春一の声は、その粉より低く、火より乾いていた。

 静は返さなかった。返せば、長くなる。長くなれば、鈍る。鈍れば、ずれる。ずれた死は長く残る。彼は火箸をひと呼吸分だけ握りなおし、燃え残った小枝の向きを変えた。火箸は煤で黒く、握った指先に冷たい粉が移る。

 沈黙のはじまりは、いつも短い。短いものだけが、互いの中へうまく入る。春一はそれを知っていて、急がない。焚き火の赤は、風の来方で色を変える。川上からの細い風が火を吸い、吐かせ、吸い、また吐かせる。火は呼吸を覚えてから、ようやく温度を持つ。

 橋の下から風が上がった。川面を走った風は橋脚にぶつかり、低い唸りになって戻ってくる。苔の匂いが混じった湿った冷気が、火の上に薄く膜を置いた。静は風のリズムに呼吸を合わせる。合わせ、ずらし、また合わせる。いつもの薄い笑いの癖が出ない。頬は動かない。胸の奥が重い石のように沈み、沈んだまま音を立てない。

「俺は戦いが終わっても、生きていく。生きていける」

 春一は膝に短刀を置いた。鞘の口は欠け、縁が白く乾いている。欠けは、刃の形をわずかに狂わせる。狂った形を正しく使えるのは、指をよく使ってきた手だけだ。春一は欠けを眺め、親指の腹でそっと撫でた。

 静は焚き火の影のほうに視線を落とし、火の食べ残した音だけ拾う。答えは出ない。出さないことで形を保つ夜もある。保たれた形は、朝に渡しやすい。朝は刃の外だ。外に出すまで崩さないことが、この夜の役目だった。

 干し餅を湯で戻す。春一は塩袋の口を指先で開こうとして、固さに眉を寄せた。紐の結び目が乾きの中で固まり、ほどけにくい。歯で軽く引っ張り、塩をひとつまみ。湯気が塩を抱えて独特の匂いを立ち上らせる。静は口に入れた。味がない。焚き火の匂いが血の匂いを押し出し、鼻全体が鈍くなる。犬が遠くで吠えた。答える犬はいない。応えのない声は、長く響かない。

 春一は餅を噛み、火の上で湯を揺らした。湯の表面に、川の風が小さな皺を刻む。皺はすぐに消える。消えるものは信頼できる。残るものは、誓いに似る。静は、残ってしまうものを増やしたくない。

 火箸を置き、春一が薪を組み直した。風を通すために、抜け道をひとつ増やす。彼は同じ問いを繰り返さない。繰り返せば、問いは刃を鈍らせる。鈍る前に形を変えるのが、春一の優しさだった。

「笑わないおまえを、初めて見た」

 静は火を見たまま、ゆっくりと言った。

「そうしたのはあなたでしょうに」

 春一は首を縦に振る。振り方は短く、ためらいはない。

「そうだな。おまえは笑っていた。斬るたびに、ほんの少し」

 骨を越える瞬間――頬が上がる。上がってしまう。その交点を、春一は背で見てきたのだ。背で見るものは、正確に刺さる。静は目を閉じた。まつ毛が触れる間だけ、笑いの芽は潰れる。潰したところで答えは出ない。出ないまま、火は形を保つ。

 橋脚の苔が風に揺れ、暗い緑の影が川面に落ちる。影はときどき、刃に似た輪郭を作る。刃に似ているものを見ると、呼吸が整う。整った呼吸の隙間に、春一の声が落ちた。

「剣の時代が終わったとき、おまえは何になる?」

 先ほどの言葉をなぞりはしない。形は同じだが、置かれた場所が違う。静は指先を火の縁に近づけ、熱をつまむ仕草をした。熱は現実だ。現実を少しだけ指に移して、言った。

「今は、何にも」

 春一は頷いた。頷き方はさっきと同じで、受け取る側の動きだった。

「それでいい。今は、それで」

 今は、という言葉が、焚き火の赤に溶けた。溶けた赤は石の影に落ち、石の冷たさに触れて静かになった。静かさは、鈍さとは違う。鈍さは長く、静かさは短い。短いものは、刃に似る。

 しばらくのあいだ、二人は火の音だけを聞いた。火の音は、小さく繰り返される終わりの音だ。枝が燃え、形を失い、灰になる。灰は軽く、軽いものは跡を隠しやすい。土の湿り気がほんの少し残っているのが見える。湿った土は、灰をよく飲む。飲むものの側にいると、言葉は短くなる。

 橋の下の風が、ふと向きを変えた。風のリズムがずれる。ずれた呼吸に、静の胸の重さが反応した。重さは沈黙の根だ。根は切れない。切れないものは抱えて歩くしかない。抱えたままでも、刃は持てる。持つ角度だけ、間違えなければ。

 春一は短刀の鞘を指で弾いた。乾いた音が一度だけ、川面の黒へ落ちていく。

「剣を捨てても俺は生きていけるって言ったろ」

「はい」

「俺はそんときはおまえも連れて行くぞ。お前がどうしても戦いたいってんなら、そうする理由があるところまで連れて行くさ。お前が剣を捨てるなら……」

 少しだけ言葉が止まった。止まった隙に、火の粉がひとつ跳ねて、春一の膝に落ちた。彼は指先で払う。払う所作は丁寧で、乱暴ではない。

「そのときは、俺が戦いのない場所まで連れていく」

 静は火の奥を見た。見て、見ないことにした。火の奥には、終わったものと終わらないものが交互に揺れている。揺れるものは、選べる。選べるうちは、大丈夫だ。

「春一さん」

「何だ」

「さっきの問いの答えは、たぶん明日には変わります」

「変わっていい。変わるのは生きている証拠だ」

 短刀の欠けた鞘が、火の赤を受けて少しだけやわらかく見えた。欠けのあるものは長持ちしやすい。完璧なものは、すぐ壊れる。

 夜が半分ほど削れたころ、野営の匂いが濃くなった。焚き火は安定し、湯は小さく息をする。塩は結び目を元に戻して袋の口を硬く閉じ、干し餅の皺に舞っていた白い粉は湯に溶けて消えた。消えるものだけを、彼らは胃に落とした。残るものは、指先に乗せるだけだ。指先の黒――煤は、爪の隙間に入り、なかなか落ちない。

 春一は薪を二本追加して、火の抜け道を開け直した。風の角度が変わっても呼吸が乱れないよう、火に先回りして道を用意する。彼の戦いはいつもこうだ。正面から斬らず、先に通り道をつくる。道ができれば、刃は短くなる。短い刃は、世界を汚さない。

「笑わないおまえも、いるのか。俺に言われたからじゃなく、本当に笑わないおまえが」

 春一の声は、焚き火の縁に置かれた。置かれた声は、熱を帯びていない。冬の石のように、ただそこにある。

「いますよ、今は」

 静は、火の明かりで見えない自分の頬に指を軽く当てた。上がらない。上がらないことに、痛みはない。痛みがないことに、少しの物足りなさがある。物足りなさは、遊びに似ている。遊びに似たものは、危ない。危ないから今は、置いておく。

「それでいい。今は、それでいい」

 春一の言葉は、灰に降り積もる雪のように静かだった。雪はまだ降らない。降る前の白は、刃のかたちをよく映す。映った刃は、動かなくても堅い音を持っている。音のない場所でだけ、彼らは休む。

 風がわずかに強くなった。橋脚の苔が揺れ、川の唸りが低くなる。低い音は眠りを誘う。眠りの縁で、静は数え始めた。ひとつ、ふたつ、みっつ。指の骨の数。肋骨の数。息の数。火の拍。数えれば、形は崩れない。崩れない形は、朝へ渡せる。

 春一は背中に短盾をあてがって横になり、空を見ずに目を閉じた。空を見ない眠りは、浅くて、途切れにくい。途切れない眠りは、戦場の隅でのみ可能だ。静も目を閉じる。まつ毛が触れ合う一瞬を、ふたつ、三つ。笑いの芽は動かず、骨のきわは静かだった。

 夜の後半、犬がもう一度吠えた。やはり答えはなかった。答えのない問いは、朝になっても問いのままだ。問いのままでも、生きていける。答えにしてしまうと、長くなる。長いものは鈍る。

 東が薄く白む。川の黒に、うすい銀が混じる。春一が起き上がり、火箸で炭を崩した。灰を寄せ、土をかぶせる。湿り気のある土は、灰をよく隠す。隠れた跡に、石を二つ置く。置いた理由は、あとで自分たちが忘れないためだ。忘れないでいられる目印は、少なければ少ないほどよい。

 静は白装束の膝に灰が移っているのを見た。拭わない。拭えば長くなる。長くなれば、鈍る。彼は柄に指を置いただけだった。木の鳴きは今朝はない。鳴かないものの側に、彼は立つ。

「行くか」

 春一が言った。声は低く、いつもどおりだ。

「行きます」

 返事も短い。短い返事は、足を動かす。

 火の跡は、土の湿りに飲まれて見えなくなった。橋脚の苔は朝の光を受けて、昨夜より柔らかい緑を見せる。風は川上から吹き、頬の筋肉に触れて何も起こさない。笑いは戻らない。戻らないままでも、歩ける。歩くことと斬ることは、似ている。どちらも、短く、正確に、終わるほうへ向かう。

 春一は短刀の欠けを指で撫で、鞘を腰に戻した。

「――静」

「はい」

「今日も多分、誰かが散る」

「はい」

「おまえは、斬る」

 静は頷いた。頷いた拍に、胸の重さがわずかに移動する。移動するだけで、軽くはならない。軽くはならないが、居場所が変わる。居場所が変われば、角度が変わる。角度さえ間違えなければ、今日も終わる。

 土手を上がると、街の屋根が遠くで小さく光っていた。光は弱い。弱い光は、強い影を作る。影の中にこそ、彼の通路はある。通路を見つけるのは、笑いではない。笑いは骨のきわで上がるだけの、短い癖だ。癖に頼らずとも、刃は持てる。持てるうちは、斬らない夜も選べる。

「春一さん」

「うん」

「剣の時代が終わったとき、僕は何にもならないと言いました」

「言った」

「あれから考えましたが……今も……わかりません、まだ」

「それでいい。今は、それでいい」

 同じ言葉が、今度は朝の空気のほうに溶けた。朝は受け取るのがうまい。受け取って、すぐに忘れる。忘れるのが、朝の役目だ。

 二人は足跡を残さない歩き方で土手を降りた。降りるたび、霜の名残が音を立て、すぐ消える。消える音だけを背に受け、彼らは橋をくぐる。橋の下の唸りはもう弱い。弱い音は、問いの残響に似ていた。

 笑わない夜は、長くなかった。長くはないのに、深さだけはあった。深さは、刃の背とよく似る。鈍く、確かで、触れれば熱が移る。移った熱で、彼は今日も歩く。歩いて、斬る。斬って、運ぶ。運ばれて、斬らない夜をまたひとつ選ぶ――そうやって、彼の物語は薄く続く。

「行ってきます」

 誰にも向けず、いつもの言葉。春一は振り返らない。振り返らない背中が、彼にとっての道しるべだった。道しるべの前で、沖田静は頬を上げなかった。笑いは骨のきわでだけ上がる。上がらない夜があることを、彼は確かめた。確かめたまま、刃の角度をほんのわずか変え、終わる方へと歩み出した。


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