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第二章:京燃ゆ、狂騒の鐘 第五話「火中の誓い」

 夕暮れの色が町家の格子に宿るころ、最初の爆ぜる音が屋根の上で生まれた。乾いた瓦が火の中で膨らみ、ぱんと割れて赤い破片が夜の手前に散る。格子の目から炎が舌を伸ばし、紙障子の白は一瞬で朱になって、次の瞬間には黒へ。泣き叫ぶ声が幾筋も交差し、道ゆく人の足が止まる。止まった足下で、霜はまだ硬く、割れた瓦の鋭い縁が小さく光った。焦げた畳の匂いは油とも土ともつかず、肺の奥にゆっくり貼りつく。

 沖田静は、火の吸い込みを読むために一度だけ目を細める。炎は吐くだけではなく、ときどき深く吸う。吸うたび、家がほんのわずかに沈む。沈む拍に身体を合わせ、彼は低姿勢のまま敷居を跨いだ。濡れ手拭いが口と鼻を覆う。井戸水の冷たさは、布を通ってなお骨に触れ、意識を短く澄ませる。敷居の内側は黒煙で視界が数歩。柱の節目に走るひびから、細い火が「今から早くなる」とでも言うように走り出す。天井板が一枚、遅い雪のように落ちた。落ちる音の手前で、静は半歩だけ退く。

「右だ」

 誰にともなく言って、彼は右の壁を指で叩く。叩いた木の返事が乾いている。乾いたところは、まだ持つ。湿ったところは、先に落ちる。湿りの音は、彼にとって鐘や拍子木と同じ意味を持っている。曲がり廊下の角、火の舌が吸い込むと同時に、畳の縁がほの白い煙を溜めはじめた。白はゆっくり黒に変わる。変わる間は短い。短い間が、居場所だ。

 奥の間は、布団の山のように盛り上がった陰で形を保っていた。陰は、火の中でも生を隠しやすい。静は膝で進み、背で煙の流れを受けながら、布団の裾をめくる。煤に塗れた小さな顔があった。目に涙が、煤と混じって濃い灰色になっている。肩は、咳のたびに跳ねた。片足に草履。もう片方の草履は、見当たらない。

「こっちだ」

 少年の耳は、まだ言葉を受け取る形をしていない。静は半身で抱き上げ、濡れ手拭いの片端で少年の口鼻を覆う。布は彼の分には足りない。足りなさを承知で、彼は自分の布を半分ほど外した。肺がすぐに抗議する。抗議は無視できる種類のものから順に薄くなる。薄くなったものから捨てる。

 床板のきしみは、誰より正確に家の寿命を告げる。足の裏で読む。節の上は高く鳴り、節のないところは低く鳴る。低い音のほうが、長く持つ。長く持つところを選べば、短く出られる。短い経路は、いつだって正しい。

「つぎ」

 静は自分にだけ聞こえる声で数える。廊下が曲がる。吸い込みが深くなる。炎の音は、子供の泣き声を一瞬黙らせるほどの背丈を得た。天井の梁が「いやだ」と言うみたいに軋み、しかし軋んだあとでふっと力を抜く気配がある。抜ける前に抜ける。彼は少年を肩に回し、視線を低くしたまま土間へ。

 外へ出る一歩前、梁が悲鳴を上げて落ちた。声は木の声ではなく、内部に閉じ込められていた長い季節の声だ。静はそれを肩で受けた。白装束が焦げ、皮膚が焼ける匂いが立ちのぼる。痛みは遅れてやって来る。遅れて来るものは、いま相手にしなくてよい。歯を食いしばって体を捻り、少年を庇う。転がり出る。外気は肺に刺さるように冷たい。冷たさが血の匂いを押しのけ、咳が喉の奥で破裂した。吐き出す煙は、もう黒くない。

 雪の上に、火の粉が朱を点々と打つ。打たれた朱は、すぐに水に溶け、痕跡だけ残した。背後で家が崩れ落ちる。崩れる音は大きいが、彼の耳には短くしか届かない。その短さを確かめるように、静は少年を雪の上に座らせた。

「立てますか?」

 少年の膝がうまく言うことを聞かず、重心が浅く揺れる。

「お侍さん、ありがとう」

 小さな声だった。謝意は軽い石のように口から滑り出て、彼の足元で止まった。静は顔をわずかに歪める。礼を言われる場面に身体が馴染まない。返す言葉が見つからない。

「……行きなさい」

 短く言い、少年の肩を押す。押された肩は、ゆっくり前へ動き出した。片方だけの草履が雪をはじき、裸足の足裏が冷たさを記憶する。記憶は生を長くする。長い生は、今日には関係ない。今日の終わりだけが、ここにいる。

 路地の端から、今村春一が駆け寄った。息は乱れていない。乱れを乱れのまま運ぶことは、彼の癖だ。彼は静の肩の焦げを見て、濡れ布で叩く。叩くたび、布から井戸の冷たさが移る。焦げに冷たさはよく効く。

「遅れるな、まだ人がいる」

「ああ、次に行く」

 言葉は短く、意志は長い。長い意志は、刃を鈍らせる。鈍らせないために、彼は視線をすこしだけ下げた。少年の指先に残る煤が見える。自分の手の甲の隙間とおなじ汚れだ。似ている。似てしまう。肺が、ひとつ息を止めた。止めて見えるものがある。火の向こうに、言葉にならない誓いが薄く立ちのぼる。言葉にすれば長くなる。長くなれば鈍る。鈍れば、ずれる。ずれた死は長く残る。残さないために、誓いは薄いままでよい。

「息を整えろ」

 春一の声が戻る。

「はい」

 静は短く吐き、短く吸う。血の匂いを吸わないように、舌の位置を変える。舌が血の金気を避け、肺が空気の軽いところだけ受け取る。濡れ手拭いを絞り直す。布から零れた井戸水が、焼け落ちた梁の黒い粉を流す。粉は雪に薄い線を引き、すぐに消えた。消えるものは、信じられる。

 町家の裏手へ回ると、格子の奥でまた火が吸い、吐き、吸う。吸う拍に合わせ、静はまた低く入る。さっきよりも煙は濃く、床のきしみは高く、柱の節目は湿っている。湿りに触れると、皮膚の下の水が燃える気がした。燃える前に動く。

 奥の間は、今度は二つに分かれていた。布団の陰はなく、箪笥の黒い塊が壁へ寄っている。箪笥の裏で、咳が二度。低い咳と高い咳。高い咳は子供。低いほうは冴えない。冴えない咳は、体力の無い合図だ。

「こっちだ」

 彼は箪笥の角を背で押し、隙間をつくる。煤にまみれた女が、子供を抱きしめていた。女の手は震えていない。震えない手は、終わりが近い。

「出ます」

 静は女に向けて言い、子供に濡れ手拭いを押し当てる。女の口には自分の袖を当てた。袖は焦げている。焦げた布は肺を傷めるが、何もないよりはいい。床板の低い音を選ぶ。低い音のほうへ、手を置く。手を置く位置がひとつずれ、天井板がまた落ちた。髪に火の粉が触れ、油の匂いが一瞬立つ。

「急げ」

 自分に言い、女に言い、火に言う。急がせるべきは、いつだって混ざっている。

 土間の手前で、梁が今度は「まだだ」と言うように持ちこたえた。持ちこたえが長いと、騙される。騙されないうちに、彼らは外へ出た。外気はまた肺を刺し、女が崩れ、子供が声を取り戻す。

「ありがとう……」

 女は言い、地面の雪に額をつける。言葉の重さは地面に流れ、静の足に触れずに済んだ。

 春一がそこへ走り、女と子供を後方へ送る。

「次は左の棟だ。柱が持たない」

「行く」

 静は短く言い、また布を絞る。井戸の滑車は遠くで軋み、春一の水桶が規則正しく上下する。滑車の音は、戦場の拍子木のかわりになる。彼はその拍で呼吸を刻む。

 左の棟は、すでに屋根の端が欠け、割れた瓦が雪に半ば埋まっていた。瓦一枚の重さが、さっきより軽い。熱で中の水分が抜けたのだ。軽いもののほうが、よく飛ぶ。飛ぶものは、よく刺さる。刺さる前に進む。

 敷居をまたぐと、畳の焦げ目はさっきよりも広い。畳縁の布が溶け、黒い帯のように床に貼りついている。帯の端に足袋が触れ、糸が熱で縮れる。縮れた音は、髪の焼ける音に似る。似ている音は、だいたい危ない。

「いるか」

 呼びかけは短く、声は低い。返事はない。返事のないところから、返事の気配がする。静は奥へ進み、押入の戸を半ば外す。中から、老いた男が転がり出た。咳をし、胸を押さえる。骨の間で空気が迷う音がする。迷う音は、助かる音だ。

「肩に」

 男の腕を自分の背へ回すと、皮膚の熱がそこへ移った。熱は重い。重いものは、現実だ。彼は現実を背負い、いま一度だけ天井を見上げた。板の影が揺れる。揺れは、終わりの予告ではない。ただ揺れている。揺れに騙されない。騙されるのは、外の人間に任せればいい。彼は騙されず、外へ出た。

 外に出るたび、火は背中を舐める。舐められた布は黒くなり、焦げは丸い斑点を増やす。斑点は今日の終わりの数だ。数を増やさないよう、彼は短く動く。短い動きは、長い火に勝てる。

 春一がまた濡れ布で彼の肩を叩いた。

「まだ中にいる!」

「わかっている。次に行く」

 彼らの会話は、いつも短い。短さは、互いの中の長いものを守る。守られた長いもの――それはたぶん、誓いに似ている。似ているが、違う。言葉にならないぶんだけ、鋭い。

 路地の向こうで、少年が振り返っていた。さっきの子だ。指先の煤はまだ落ちていない。似た汚れが、自分の手の甲にも残る。似ていることが、彼をわずかに止めた。止めた一瞬に、火が吸う。吸いに合わせ、彼はまた低く入る。

 ――終わるほうで。

 胸の内側で、いつものことばが形になる。ことばは出ない。出せば長くなるから。長くなると、鈍る。鈍れば、今日がずれる。今日をずらさないために、彼は今日の中でだけ笑わない。笑いは骨のきわでしか上がらない。上がる場所は、斬るときのために残しておく。火の中では、上がらない。火は、生の側にある。生は、戦の外にある。外を守るために、内側で短く動く。それだけが、彼の純粋さだ。純粋さは、冷淡に見える。冷淡で、よい。

 最後の棟の裏手で、梁がまた声を上げた。今度は迷いのない声だ。落ちる。落ちる前に、外から春一の声が飛ぶ。

「息を整えろ」

「はい」

 吐く。吸う。吐く。吸う。濡れ手拭いの冷たさが、額に移る。目を閉じる。まつ毛が触れる一瞬で、笑いの芽を潰す。潰して、彼は走った。黒煙の壁に身体を押し入れ、床の低い音だけを選び、梁の影を背で受け流し、寝間の隅に小さな影を見つける。ひとつ。

「行け」

 抱きかかえ、敷居を越えた。

 外気が肺に刺さる。春一の水桶がまた上下する。滑車の軋みは、雪を呼ぶ音に似ている。似ている音は、安心させる。安心は危ない。危ないから、彼はまだ笑わない。

 町家はやがてすべて崩れ、火の粉が雪に朱を点々と打ち尽くした。朱は消え、黒い粉だけが残る。粉は手の甲の隙間に入り込み、爪でこそげても完全には落ちない。落ちないものは、誓いに似ている。似ているだけで、違う。誓いは、声にならない。ならないまま、薄く立ちのぼる。火の向こうに、いまも見えている。

 春一が濡れ布を水に戻し、最後に静の肩の焦げを叩いた。

「遅れるな」

「はい」

「まだ人がいる」

「次に行く」

 会話はそこまでだった。春一は振り返り、別の路地へ走る。短盾の革の匂いが、風といっしょに通り過ぎる。匂いの後ろで、少年がもう一度だけ振り返った。

「お侍さん、ありがとう」

 言葉は雪に落ちて、しみになった。しみはすぐに消えたが、消えた場所だけ、彼の中で温かかった。

 静は濡れ手拭いをたたみ直し、白装束の裾を払った。裾の焦げは丸く、今日の数だけ増えていた。数を数えない。数えれば長くなる。長くなれば鈍る。鈍れば、ずれる。ずれた死は、長く残る。

「行ってきます」

 いつものように、誰にも向けず言う。雪は返事をしない。しないから、よい。返事のない世界のほうが、刃は短くなる。短い刃は、世界を汚さない。汚さないまま、終わるほうへ。終わるほうへ、今日もまた、彼は歩いた。

 火はようやく小さくなり、黒い粉が風に乗って漂う。粉は目に入り、舌に乗り、爪の隙間に残る。残るたび、彼はわずかに呼吸を変えた。血の匂いを吸わないよう、舌の位置を変えて。笑いが上がらないよう、まつ毛を一度触れ合わせて。

 火中の誓いは、声を持たない。持たないから、長持ちする。長持ちするものだけが、明日を持つ。明日が来れば、彼はまた斬る。斬るために笑わず、笑うために斬らない夜も選ぶ。選べることが、彼に残されたわずかな自由だ。自由は短い。短いものだけが、確かな重さを持つ。重さがある限り、彼はまだ生きている。生きているから、行ける。

 行く先は、火の向こう――終わりの手前。そこでだけ、彼の頬は上がる。上がるのは、骨のきわ。きわの上で、彼は今日も、飄々と、冷淡に、純粋に、戦い続ける。

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