第二章:京燃ゆ、狂騒の鐘 第四話「同胞の背中」
北の堀端は、夜の名残をまだ喉に引っかけていた。柳の枝が細く鳴り、霜柱が足音のたびにさらさらと折れ、連なる小さな破壊音が、夜更けの祈りの残響みたいに道を満たしていく。息は白くなりきらず、胸の内側でだけ薄い音を立てて縮む。堀の水は黒く、浅い氷を額に載せたまま、音を持たないで流れた。
その細い音の縁から、今村春一が現れた。小隊を率い、背に回した短盾を革の匂いとともに揺らしながら、歩幅を崩さない。額に汗の玉が乗っていたが、声は落ち着いている。
「ここから先は狭い、盾を前」
目配せは短い。余計な合図を増やさない指揮だ。静は返事をせず、一歩だけ前に出る。白装束の裾が霜を撫で、折れた霜柱が靴の裏で粉になった。
堀沿いの柳がまた鳴り、小隊の並びが路地の角に沿って薄く曲がる。春一は三人の盾持ちを指で呼び、肩と肩の間に息の通り道をつくる。短盾の革は夜露を吸って柔らかく、紐の結び目が濡れて黒くなっていた。
「入るぞ」
春一の声は低い。雪の前触れの匂いが、風の角度を変える。
裏門は、眠っているように見えた。眠っているものほど、起こすと暴れる。門扉の節目に指先が触れ、木の冷たさが骨まで届く。春一が短く合図をし、盾持ちが前に出る。矢が来た。数えるより早い。盾の革が乾いた息を吐き、矢羽の焦げた端が丸くなって、足もとに転がった。
「吸わせろ」
春一の声が盾の背を這う。矢は盾へ、音は周囲へ、空気は狭間へ。狭間の陰で静は半歩、半身。敵は長巻を振る型。肘の返しに遅れが出るのを、目の端で拾う。遅れは、刃より正直だ。
切っ先を肘の内側へ滑らせる。皮膚の温度が切っ先の冷たさを嫌い、筋の跳ねが刃を自分から迎えにくる。苦鳴が漏れる。その声に重ねるように、春一が柄で側頭部を打ち抜いた。乾いた音。意識はすぐに落ちる。倒れる体がまだ地面に届かないうちに、静はすでに次の角度に指を置いていた。
音が薄くなる瞬間は、いつだって短い。短いからこそ、甘い。舌にのせて味わう前に、次の音が来る。矢の尾が盾の縁で跳ね、短盾の革の匂いが強くなる。春一は呼吸で隊を動かす。
「一歩、右。――止まれ」
止まると同時に、左から長巻。刃の影だけで形が分かる。影の根元は遅い。遅い根元に、柄をあわせる。音は大きくない。大きくしない。静はわざと頬を動かさない。動けば、上がる。上がれば、誰かが見てしまう。
裏門を抜けた先の路地は、風の向きが複雑に交差していた。焼け跡の煤が鼻腔の奥を薄く刺す。霜柱の折れる音が、足音の合いの手みたいに響く。その拍に、静の指先は勝手に合わせてしまう。合わせると、刃は短くなる。短い刃は、楽だ。楽は、きけんだ。
小さな空地で、春一が彼を見た。目だけで、問いを投げる。
「斬るたびに笑うな」
声は低く、穏やかだ。怒鳴り声よりよく刺さる温度で、静の耳に入る。
静は瞬きをひとつ。
「笑ってるつもりはありません」
春一は短くうなずいた。
「なら、癖を直せ。仲間の背で見るもんじゃない」
言葉の刃は、彼の喉の骨を正確に撫でた。驚くほど痛くはないが、深く入る。静は返す言葉を探し、見つからない。代わりに、肺の奥でひとつ息を折って、黙った。
「狭い」春一が言う。「盾、詰める。――次、屋根だ」
目線だけで屋根を示したとき、瓦の裏土の冷たさが、すでに静の爪先に触れていた気がした。先回りする感覚は、戦の中でだけ彼の味方をする。味方は少ないほうがよい。多いと長くなる。長くなると鈍る。
次の角は、弓だ。瓦屋根の上に、弓手が陣取っている。瓦の面は薄い霜で滑り、足場は嘘をつく。弓手は嘘を好む。嘘の上で、正確な弦を鳴らす。春一が指で合図をし、二人は反対方向の路地へ別れて走る。
静は塀を蹴る。蹴る前に、地面に残る霜柱の高さを足の皮膚で測る。高い霜は踏み崩しやすい。低い霜は、石だ。石のほうへ、足を置く。塀に掌をつけ、肩で押し、身体を上げる。屋根の縁に指をかける。瓦の裏土。爪の間に冷たさが入る。重さは瓦一枚で十分、彼の手首を引き下ろそうとする。
弓手の眼がこちらを見つける前に、瓦の一枚を外し、投げる。視界に瓦の裏の土と、欠けた縁の白が大きく入り、弓手が目を細めた瞬間――下から、春一の槍が足もとを突く。弓手は崩れ落ち、屋根の斜面を滑り、地面でぐにゃりと止まる。
「今だ!」春一の声が、瓦の縁で短く跳ねた。
瓦の下の冷たさがまだ爪に残っている。爪の間の感覚は、刃の角度に影響する。影響を、いまは利用する。屋根から身を滑らせ、路地へ降りる。革の短盾が背にあたり、革の匂いが鼻の奥で重くなる。春一の手甲の紐が頬に掠れた。ひとところ、ほつれている。ほどけはしないが、いつかの夜に急いで結び直した痕。そこに人の時間がある。人の時間は刃を短くし、時に鈍らせる。鈍らせぬように、見て、忘れる。
裏門から市壁へ抜ける筋で、また短い小競り合い。敵の長巻は、柄の中ほどで持ち替えようとして遅れる。遅れは、息が教える。自分の息をひとつ吐き、遅れの隙間に切っ先を置く。置くだけで足る。足りないときだけ、押す。押すと長くなるから、押さない。
春一の声が背に落ちる。
「息」
静は吐く。血の匂いが肺に入りかけ、喉が勝手に閉まる。閉めてから、開く。
「斬る前に息を吐け。血の匂いを吸うな」
忠告は短い。短いものは、よく届く。届いた忠告は、刃の背中に貼りついて、しばらく離れない。
路地の角で、春一が彼の肩を軽く叩いた。叩き方は粗いが、指先は優しい。
「おまえが背中に居るなら、俺は盾になる。だが、背で笑うな。士気が死ぬ」
静は視線を落とし、爪の間の裏土を見た。笑いは骨の際でしか上がらない。上がる。だから、誰かが見る。見せるつもりがなくても、見える。
「……どうすればいい」
出た声は自分のものに聞こえなかった。
「さっき言った。斬る前に息を吐け。血の匂いを吸うな。――それでも上がるなら、目を閉じろ」
「戦で」
「瞬きより短くでいい」
笑いと瞬き。骨のきわとまつ毛。やってみる価値はある、と静は思う。
井戸のある小さな辻に出た。井戸の蓋は半ば凍っている。春一が柄で蓋をずらす。滑車が軋み、古い木の音が喉で鳴るみたいに響いた。桶が水を掬い上げる。
「飲め」
水は冷たく、鉄と煤の味がした。静は一口含んで吐き捨て、舌を軽く噛んだ。舌の血は生きている味がして、さっきの鉄と煤を薄めた。
「立つぞ」
春一は言い切って立つ。手甲の紐はやはりほつれている。直す時間はない。直さずに勝つ方法を、彼は選び続けている。
堀端へ戻る道で、柳がまた鳴った。鳴り方が朝に近い。夜の鳴りではない。鳥の影がわずかに増え、人の影が長くなる準備をしている。準備は長いが、変化は短い。その短さに間に合う者だけが、ここを通り抜ける。
小隊の背に雪の匂いが落ちた。まだ降らない。降る前の白は、刃とよく似る。何でもないふりをして、世界の上に薄く降り積もる。積もれば、足が遅くなる。遅くなる足は、呼吸を変える。呼吸の変わり目に、静は自分の癖をつかまえた。上がる。頬。
――いま、吐け。
春一の声が背骨に沿って滑る。静は吐いた。吐いて、刃を置いた。置いて、瞬きをひとつだけした。まつ毛が触れた瞬間、笑いの芽が、目の裏で小さくほどけた。
裏門の二ノ曲で、敵が二筋に分かれて待っていた。片方は長巻、片方は槍。長巻の返しの遅れに、槍の突きの直線が重なる狙いだ。春一は盾を二に割り、わずかに角度をずらす。
「盾、上げろ。――一つ、二つ、止める。三つで入る」
数え声は低く、短い。静は三つ目の「間」に身体を差し入れた。矢が遅れて盾に吸われ、槍の穂が遅れて空を切り、長巻の影が遅れて地面に落ちる。遅れに重なって、彼は終わらせる。肘の内側――次は手首の小骨。そこを押すだけで十分、柄が言うことを聞く。
「噂の白だな」
誰かが言い、誰かが後ずさった。噂は戦の外側にある。外にあるものは、刃を鈍らせる。鈍らせないように、静は耳の内側の蓋を閉じる。閉じて、また開く。
「終わりたいほうから、どうぞ」
言って、笑いそうになる。吐く。瞬く。頬は上がらない。春一が斜め後ろで、ほんのわずかに息をゆるめたのが分かった。ゆるめた息は、隊全体を軽くする。軽くなった隊は、短く強く進む。
屋根の上の弓手は、もう少し残っていた。別の屋根、別の角度。春一が指を二度、三度。静は反対側の塀を蹴り、身を上げる。瓦の裏土の冷たさが、爪に戻る。瓦を一枚、いま度も外して投げる。弓手が短く叫んだ。
「う、上(屋根)だ!」
その叫びにかぶせるように、春一が下から言う。
「今だ!」
槍の穂が屋根の縁を叩き、弓手の足首を痛みが刺す。足が甘く外に流れ、そのまま瓦の上で無様に取られた。静は屋根の縁に残った足の気配を、掌で押して地面に渡す。落ちる音が、また短い。
戦が続くあいだ、春一は何度も同じことを言った。
「息」
「吐け」
呼吸は命令しやすい。命令のうちでいちばん反発が少ない。反発しない命令は、戦の中で唯一の礼儀になる。礼儀があると、刃は短いままでいられる。
路地の向こうに井戸がもう一つあった。蓋は半ば外れ、滑車の軋みがさっきより高い音で鳴る。春一が柄で蓋をずらし、桶を落とす。縄は水を吸い、手の皮にひんやり絡みついた。
「飲め」
水はたしかに鉄と煤の味がした。静はまた一口含んで吐き、喉の奥で小さく笑いを殺す。笑いは骨のきわでしか上がらない。上がらせない。
「おまえが背中に居るなら、俺は盾になる。だが、背で笑うな。士気が死ぬ」
春一はもう一度、同じ言葉を置く。繰り返しは、刃の角度を身体に刻む。刻まれた角度は、疲れても崩れない。
静は頷いた。頷くしかない。頷きは返答ではなく、受け取りだ。
「……わかった」
短い返事が自分の口から落ちるのを、彼は少し遠くから眺めた。遠くから眺める自分は、飄々としている。そこにいる自分は、冷たい。両方とも、彼だ。どちらも、刃を短くするための工夫でしかない。
堀端の柳が風を変える。東の空の灰が少しだけ明るくなる。明るさは、戦の終わりではない。終わりの予告でもない。ただ色の変化だ。色が変わるだけで、人は終わりを信じたくなる。信じてもいい。信じたまま、斬ればいい。
春一の小隊は裏門を離れ、北の細い筋へと進んだ。霜柱は足音の下で潰れ続け、潰れる音はだんだん小さくなった。地面が柔らかくなっているのだ。柔らかい地面は、血の色を早く飲む。飲む速度が上がると、匂いが薄くなる。薄い匂いは、肺を騙す。騙されぬように、静は吐いた。吐いて、刃を置いた。置く角度が、さっきよりも静かに決まる。
春一が前を見たまま言う。
「――静」
「はい」
「まだ笑ってない」
「はい」
「それでいい」
言葉はそこまでだった。彼は彼の背中で、必要以上のものを語らない。語らない背中は、信頼されやすい。信頼は、刃を短くし、長く持たせる。持たせるあいだに、ひとつふたつの終わりが整う。
路地の端で、また弓。屋根の影に張りついた弓手はもう疲れている。疲れの弓は、高く鳴る。高く鳴る音に、春一が軽く眉を動かす。
「同じだ」
合図。静は塀へ。瓦の裏土。重さ。指。
今度の瓦は、少し重かった。土の湿りが増えている。湿りは夜の名残。名残は、長くなる原因だ。長くなる前に、投げる。弓手が目を細める。
「う、上だ!」
「今だ!」
槍が縁を打ち、足が滑る。落ちる音は短く、周囲の空気がそれをすぐ忘れる。忘れてくれれば、よい。記憶は角度を鈍らせる。鈍らせないために、彼は忘れる。忘れるために、終わらせる。
短い水休憩のたびに、井戸の滑車は別の音で鳴いた。油のない軋み。古い木の舌打ち。手甲の紐のざらつき。背の短盾の革の匂い。瓦の裏土の冷たさ。霜柱の崩れる乾いた快感。そういう小さなものが、彼の戦を組み立てる。大きな声や旗印より、ずっと確かに。
春一はたまに笑った。歯を見せず、声にもしない笑いだ。誰かが救われるときではなく、誰かがまだ死んでいないと気づいたときに、彼は笑う。その笑いは白の背に届き、背の筋肉をほんの少しだけ緩める。緩んだ筋に、刃は正確に乗る。正確さは、彼の唯一の居場所だ。
最後の角を抜けると、堀端の風が変わっていた。柳はあいさつみたいに枝を下げ、堀の氷は薄く鳴っている。鳴る音は、鐘ではない。鐘の代わりに、春一が短く言う。
「今日のここまでだ」
小隊の呼吸がそろって、解ける。解ける呼吸は、夜を明けに渡す。渡される明けは、刃の外だ。外に出る前に、春一はもう一度だけ、静の肩を叩いた。
「な、静」
「はい」
「その顔、いまは大丈夫だ」
「……気をつけます」
「癖は消えなくていい。薄くしろ。仲間の背で見えないくらいに」
静は、頷いた。頷きながら、頬の中の筋肉が、どこでどう動くのかをもう一度思い出す。骨のきわ。上がる前に、吐く。吐いて、閉じる。まつ毛が触れる一瞬に、笑いを殺す。殺すと、もうひとつ何かが死ぬ気がして、少しだけ可笑しくなる。可笑しさは、危ない。危ないから、今村春一の背を見る。背は、まっすぐだ。
堀沿いの柳がまた鳴った。霜柱はもう足音で崩れず、地面はしっとりと滑らかな顔に戻っている。そこを歩くと、音がしない。音がしないと、心臓のほうがうるさくなる。うるささにあわせて、静は呼吸を整えた。
「行ってきます」
誰にでもなく、やはりいつものように。春一が振り返り、目だけで笑った。
「行ってこい」
背中で受けたその言葉が、革の匂いと一緒に、彼の身体のどこか深いところに沈んでいく。沈んだ重みは、刃の角度を一度だけ微調整した。微調整は、今日の終わりを一つ短くしてくれるだろう。
堀は黙り、柳は覚えている。白い背は、闇に混じらない。闇が白を覚えている。覚えられた白は、またどこかの路地で、誰かの背の正面に立つ。
春一の背は、そのときも、きっとまっすぐだ。
その背中の前で、静は笑わない。笑いは、骨のきわでだけ、上がる。上がる場所は自分で選ぶ。選べることが、戦の中で彼に残された、わずかな自由だ。自由は短い。短いからこそ、彼は好きになる。好きになってしまう。戦と、終わりと、そして――同胞の背中を。