第一章:京に火が灯るー序の刃ー 第二話「布教の刃」
拍子木が鳴った。
乾いた二つの木片が、雲にふさがれた空の下で、ひとつ、ふたつ――間を置き、またひとつ。
音は空に抜けず、低い雲に押し返され、町外れの路地や屋根と屋根の隙間に沈殿していく。拍子木の響きが層をなし、遠くの犬の遠吠えと重なって、薄く震えた地鳴りのように広場の地面を這った。
蓮華宗の布教座――酒屋の前に据えられた粗末な説法台。
白布をかけた板机の上に経巻と数珠、側には拍子木。説法僧は背を反らさず、呼吸の奥から響く声で言葉を送る。
「聞け、聞け、仏の道を――」
その声は切っ先のように細く尖っているが、刃の根元には湿りがある。誰かを断ち切るよりも、結び直そうとする響き。だが、結び目は他者の意志や怯えと絡みあい、容易にはほどけない。
輪になって集まる町人たちの足元で、子供が石を指で弾いた。
石は地面の小石とぶつかって転がり、茶碗の欠けの白をかすめ、止まる。どこかの露店で割れた茶碗だ。欠片の白は歯のように明るく、やがてそこに赤が差した。まだ血ではない。焼き栗の皮の滲んだ色だ。
老人の咳が乾いた木魚のように響き、若者の笑い声が泡立ち、女たちのひそひそ声が風の継ぎ目を縫う。
軒下の影に、白が立っていた。
白装束の剣士、沖田静。
白布の裾が地に触れても汚れないのは、彼が地面から指一本ぶん浮いているからではなく、歩みの角度が泥のはねを自分に許さないからだ。
彼は柱に肩を預け、片足を壁に置き、上体はわずかに前傾。眼だけが輪の内側の光を拾う。拍子木が鳴るたび、瞳孔の開きが呼吸に合わせてわずかに変わる。
――拍、一。
胸のなかで、心臓と別の拍が刻まれる。
――拍、二。
刃を握っていない手の指先に、麻糸の端が触れる心地。
――拍、三。
「もうすぐ、うるさくなる」
声は、ほんの独白。
誰にも届かない。届く必要がない。うるさくなる音は、すぐに彼を呼ぶ。
※
輪の端に、異なる色が立った。
妙道院派の若僧。刈りたての頭皮の艶は、油の膜のように薄く光り、顎の骨がむき出しの意志を見せている。
若僧は人垣を押し分け、白布の台の前に立った。
「お主らの説は虚妄だ!」
声の端に、微かに恐れの乾きが混じる。恐れはしばしば正義の装束を着る。
説法僧は眉を動かさない。だが拍子木を打つ手が、ほんの半拍ぶれる。
若僧はすかさず続ける。
「仏はそこにはいない! 己らの腹を肥やすために名を使うな!」
輪が重く揺れた。
町人たちは論そのものより、眼の前でいま動いている「勝ち負け」に敏感だ。言葉は刀の前口上にすぎない。
「法の道は一つだ」
説法僧の声は低い。
「その道は、おのれ一人が指すものではない」
拍子木が、再び、一定に戻る――はずだった。
だが、木と木の合わさった一打は高く跳ね、板机の脚に細かな震えを残した。跳ねは小さな波紋となって輪を伝い、誰かの指を、誰かの眼を、誰かの舌を、わずかに押し出した。
静は軒下から見つめ続ける。
彼の視界は、言葉の輪郭を持たない。
拾っているのは、竹槍の節のざらつきに反射する朝の光、棍棒の節目の乾いた色、腰の短刀の鞘金に非日常の微かな艶、割れた茶碗の白の不安定。
「刃の気配は、音より先に来る」
胸の内の声が言う。
「音は、終わりを告げるだけ」
※
破裂は、拍子木の高い一打で起きた。
若僧の腕が閃き、竹槍の穂先が説法僧の袖を裂いた。
袖の糸が切れる音は、驚くほどよく通った。次の瞬間には、怒号と悲鳴と走る足音と、土の上に倒れる土台の鈍い響きが混ざっていた。
棍棒が空気を引き裂き、陶片が砕けて、白い欠片が跳ね――そこに、今度は本当の赤が飛んだ。茶碗の白に、血の赤が、花のようにゆっくり吸いこまれていく。
静は影から出た。
歩幅は大きくも小さくもない。人の肩と肩の隙間を測るようでもなく、ただ最短距離で刃のいる場所へ向かう。
ひとり目――竹槍の柄にしがみつく男の右手首。
刺す。出す。
感触は、濡れた縄を細い針で通すみたいに軽い。
ふたり目――喉仏のわずかな膨らみ。
横。
空気が短く鳴いて、声が途切れる。
みっつ目――腋下の柔らかな隙間。
突く。抜く。
血は温い。冷え切った内側に、遅れて届く火のように広がる。
――ここだ。
胸のなかに、灯がともる。「ここ」がどこなのか、彼はいつも知っている。
「斬る」という行為には居場所がある。誰とどこで、どの音のすぐ脇で、それは行われるべきか。
「僕に必要なのは、斬る場所だけです」
昨夜の独白が、いま骨の内側でうなずく。
「言葉で勝てぬ者が、刃で勝つのか!」
乱戦の端から飛んできた怒声は、彼にとって「風向きが変わる」ほどの重みはない。
「どちらでも。終わる方で」
声に笑いが混じったのは、愉快だからではなく、正確だからだ。
終わるものは美しい。形が際立つ。斬るべき場所がひかり、刃がそこに吸い寄せられる。
棍棒が振り下ろされる。
静は半歩後ろへ引くのではなく、半歩内側へ入る。
頬の際を木が掠め、相手の肘の裏に切先が触れる。骨と骨の間の湿りへ、針のように通す。
――よし。
相手の手が開く。棍棒が落ち、土を打つ。土の匂いに、すでに鉄の値が混じっている。
倒れた男の背中を踏まないように、静は足の角度を変えた。
踏めば早いのに、踏まないのは癖だ。踏まないことで膝の角度が保たれ、次の突きに無駄がない。
効率は冷たく、優しさに似る。
※
乱戦から、ひとりの僧が逃げた。
若い。まだ目の奥に子供じみた青さが残る。
僧衣の裾を掴み上げ、露店の破れ障子を突き抜け、裏庭へ。
静は追う。
足音は土の上で吸い込まれ、人の叫びは障子に弱められ、かわりに軒から落ちる雨水の規則正しい音が増幅された。滴が一つ、二つ、三つ。
石畳に足を置く角度は、濡れの幅で決まる。滑る石には、滑らない足の形がある。
蜘蛛の糸が剣先に絡んだ。
走りながら、静は親指と人差し指でそれをやわらかく払う。
糸は震えながら指に移り、空気へ溶ける。
――この仕草は、誰に見せているのだろう。
自分に、だ。
彼は思う。刃を通すために、刃は美しくあるほうがいい。美しさは正確さと仲が良い。
突き当たりで、僧が振り返る。
数珠が手から散り、黒豆みたいな玉が石畳の上を跳ね、乾いたリズムを刻む。
カツン、カラン、コト、とどまる。
ひと粒が静の足元で止まる。
僧の眼に映っているのは、刃の明滅ではない。自分がいま「終わり」に乗ってしまったという理解だ。
静は一歩、間合いの外へ踏み込み、そして――踏み込まない。
「……行きなさい」
声は細い。命乞いにではなく、刃の疲れに向けられている。
僧は転げるように脇の抜けへ走る。
静は追わない。
逃がすことは殺すことよりも難しい。逃げる者を残した場所が、次に斬るべき場所を呼ぶことがある。
それを彼は、経験だけでなく、嫌というほど骨で覚えている。
※
納屋は薄暗く、馬草の匂いで満ちていた。
梁から吊るされた古蓮の灯籠――蓮弁の切り抜きが、薄い光の輪郭を壁に落としている。
静は刀を膝に渡し、呼吸を深く、深く、浅く、また深く。
戸の隙間から射す光が刃に一本の線を引く。
血は薄く、すでに冷え始めている。
「ここも、悪くない」
膝に置いた刀の重さが、骨盤の皿に心地よく沈む。骨が刃を歓迎するような感覚。
――斬っていない時にしか、刃は重さを語らない。
斬っている最中、刃は重さを失う。重さは場所へ移る。場所が重く、刃は軽い。
斬るのが好きなのではない。
斬っている刹那に、世界が正しい重さで整うのが好きなのだ。
その正しさが終わると、彼はまたどこにも居られなくなる。
だから、また斬る。
梁の古蓮が、風もないのに微かに揺れた。
あれを揺らしているのは、風ではない。
――呼吸だ。
自分の、ではない。納屋の外、路地を駆け抜ける人々の呼吸が、壁の板を震わせて、梁の端を伝い、蓮の紙片を撫でた。
世界と自分の境目は、いつだって曖昧だ。
曖昧さの中で、刃だけが一本線を引いてくれる。
※
戸を押し開けると、路地の光は夕方へ傾き始めていた。
蓮華宗の下っ端が駆け寄ってくる。
「兄さん、何人?」
静は指で三を作り、頷く。
下っ端は喉の奥で笑い、小さく震える声で言う。
「ありがてぇ、白の兄さん」
静は返さない。
返してしまえば、この場に自分の名が落ちる気がした。名は刃にとって長すぎる。短いまま、ここを通り抜けたい。
足裏に、砕けた茶碗の白い欠片が当たり、ころりと転がる。欠片の白には、もうじわりと赤が広がっていた。
――花だ。
足を払って進む。茶碗の花は踏まない。踏めば早いのに、踏まないのは癖だ。
癖は、長持ちのための工夫になる。
長く斬るには、短く握れ。
短く握るには、余計なものを踏むな。
彼はその順序を、誰に教わらずとも、いつの間にか身体に刻んでいた。
※
その頃――広場の隅では、数人がひそやかに囁き合っていた。
「見たか、白だ」
「人の形はしているが、あれは人か?」
「いや、人だ。人でなくては、あんなふうに衣の裾の皺を気にしない」
誰かが言う。
「狂っている。だが、丁寧だ」
丁寧さは、恐怖を呼ぶ。
雑に殺す者より、丁寧に殺す者のほうが、ずっと怖い。
丁寧さは「選んでいる」ことの証明だからだ。
――と、耳の遠い老婆が呟いた。
「白いのは、白いまま死に場所へ行く」
誰も老婆の言葉を聞かない。だが言葉は、彼らの靴の裏に薄く付着して、夕暮れの道に運ばれていく。
※
妙道院派の若僧の胸は、まだ上下していた。
彼は裏庭の隅で膝を抱え、指の腹で石畳の目地の砂をこすっている。
「なぜ、斬らなかった」
小さな声で、誰にともなく問う。
返事はない。蜘蛛が糸を張り直し、雨樋の滴が一定の間隔で落ちるだけだ。
若僧は、さっきの数珠の一粒を拾い上げた。玉の表面には、誰かの汗の塩が乾いて白く残っている。
彼はその塩を舌で舐めた。
しょっぱい。生きている味がした。
――生きている。
斬られなかったことは、負けではない。
次に会うまでの猶予だ。
彼はそう言い聞かせ、顔を拭って立ち上がる。
次がある、ということが、彼をいちばん震わせた。
※
夕刻、酒屋の裏口で、説法僧は袖の裂け目を縫っていた。
指は太く、縫い目は不器用だが、糸はまっすぐ通っている。
「白は、祈らぬ」
隣の僧が言った。
「祈りは要らぬ。刃で足りる」
別の僧が笑った。
説法僧は針を止め、布の端を見つめる。
「刃も、どこかで祈っている」
小さく、誰にも聞こえぬように。
「斬る場所が正しいように、と。祈っている」
※
静は、橋の袂まで戻ってきていた。
昼の戦いの熱が町のあちこちにとどまり、夕風に冷やされながら他所へ移っていく。
欄干に手を置き、川面を見る。
烏帽子が一つ、黒い腹を上にして揺れ、やがて下流へ流れる。
朝に見たのと同じ烏帽子かもしれないし、別のものかもしれない。
世界は似た顔をして、別のものを運ぶ。
「長さは、要りません」
欄干の木目を指でなでる。
木は長い。刃は短い。
短いほうが、よく響く。
自分の骨が、短い刃を好む音を立てる。
骨の音は誰にも聞こえない。
だが、その音が彼の笑いを呼ぶ。
飄々と、しかし孤独に。
誰とも分かち合えない種類の喜びを、彼はもうずっと長く抱えている。
※
夜の手前――
広場の掃除をしていた少年が、砕けた茶碗の白い欠片を拾い上げた。
欠片の縁には、乾いた血が薄くこびりついている。
少年は口の中で唾を集め、欠片をこする。赤は薄まらない。
彼は欠片をしばらく眺め、懐へ入れた。
「お守りにする」
誰にともなく言い、空になった籠を肩に、家路へと歩き出す。
背中には、さっき老婆がこぼした言葉が、意味も分からぬまま薄く貼りついていた。
――白いのは、白いまま死に場所へ行く。
※
蓮華宗の庫裏では、密使が上役の僧に膝を進めていた。
「白は使える」
声は簡潔で、目は湿りのない光を湛える。
「名は不要。癖は寡言。対価は場所。長く握らせねば、正確に働く」
「魂は?」
上役の問いに、密使はわずかに首を傾げる。
「魂は要らぬ。刃で足りる――と、午前に申し上げましたが」
「いまは?」
「いまは、刃に祈りが混じっている気がします。あれは、斬る場所のために祈る」
「妙なことを」
上役は笑い、香をひとつ足した。
青い煙が、ほとんど見えないほど薄く立ち上がる。
「明日も使う。短く、正確に」
※
妙道院派の小屋では、若僧が巻物に筆を置いていた。
筆の先は震え、墨は細く、意思は太い。
《白装束の者、追走の末に刃を収める》
《蜘蛛の糸を払うのに、やけに丁寧》
《狂っている。だが、礼を知る狂だ》
書きながら、若僧は唇の内側を噛む。血の味は鉄の匂いを呼び、鉄の匂いは昼の感覚を呼ぶ。
――次こそ。
祈りに似た誓いが、彼自身の骨に沈む。
誓いは祈りとよく似ているが、刃は誓いのほうを好む。
そう思いながら、彼は筆を置いた。
※
静は、古祠の前でまた刃を拭っていた。
紙垂が湿りを帯びて重く、風がないのに肩で息をするみたいに小刻みに揺れる。
祠の奥の木彫りの蓮は煤けて艶を保ち、誰かが昨日も今日も布で撫でた痕を見せている。
「良い手だ」
小さく言い、刃先を月のいない空にかざす。
欠けはない。
爪で刃の肌を静かに撫で、音の出ない音を聞く。
――まだ行ける。
まだ行けることは、まだ帰れないことだ。
帰る場所は斬る場所の向こう側にしかない。
向こう側まで行くために、刃を短く握り続ける。
※
夜が降りる。
行灯の紙は昼の湿りを放ち、火を受け入れる準備をする。
雨樋の水鏡は浅くなり、映る白は薄い影になる。
白は同じ路地を同じ歩幅で通り過ぎる。
「今夜は、どちらへ?」
暗がりが、彼の足音に合わせて問う。
静は答えない。
斬る場所のほうが、彼より先に言葉を持つ。
場所の言葉は匂いであり、温度であり、ひかりの角度であり、拍子木の乱れであり、棒の節のざらつきだ。
それらが揃ったところで、刃は初めて言葉になる。
言葉は刃の後ろに付いてくる。
だから、彼は黙っている。
※
橋の上で立ち止まると、川面に灯が漂っていた。
昼のものか、夕のものか、死のものか、生のものか分からない灯。
静は欄干に肘を置き、自分の影を片足で踏んだ。
影は薄く崩れ、また形を取り直す。
「整っているほうが、よく狂える」
笑いながら言う。
狂いは直線ではなく、円だ。
円の真ん中に、刃を立てる。
刃は回らない。世界が回る。
彼はそれを見るのが、たまらなく好きだ。
※
遠くで、拍子木がまた鳴った。
誰かがどこかで、言葉で結び、刃でほどき、また結ぼうとしている。
静は白装束の裾を整え、柄巻の麻糸の端に指先が触れるのを確かめ、わざとその感触から離れた。
癖は残すな。
癖は長さになる。
長さは重さになる。
重さは鈍りになる。
彼の独り言は、風の内側に沈んで、橋の木目に吸い込まれた。
「行ってきます」
誰にともなく言い、彼は橋を離れた。
斬る場所は、いつだって彼を先に呼ぶ。
そして、呼ばれ続ける限り、彼はどこにも帰らない。
その背を、夕闇が飲みこんだ。
白は白のまま、闇に混じらない。
闇が白を覚えている。
――明日の朝、また拍子木が鳴る。
京は、うるさい。
彼は、嬉しい。
そして、それは少しだけ、哀しい。