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第一章:京に火が灯るー序の刃ー 第一話「白装束の者」

 冬がまだ尾を引いている。

 京の町は、薄く曇った空の下で煤けた瓦と灰色の路地を曝していた。春の芽吹きは、まだ遠い。

 その人は、いつも白い衣をまとっていた。着古した麻布を丁寧に洗い、乾かすときは必ず裏返してから陽に当てる。陽光が乏しい日には、煙の立つ囲炉裏の脇に、静かに干す。

 彼の名を知る者は、ほとんどいなかった。知っていても、口に出す者はさらに少ない。

 噂は京のあちこちに流れていた。

「白装束の者が動いた夜には、必ず誰かが死ぬ」

 それは、町衆が怯えをこめて吐く言葉だった。怯えと同時に、どこか安堵にも似た響きがあった。彼が斬るのは、決して己らのような市井の者ではない――そう信じたがる気配が、その言葉の端に残っていた。

 沖田静は、長い髪を一つに束ねている。

 その黒は、夜よりも濃く、湿った墨を思わせた。目元は涼やかで、声は常に穏やかだった。誰かを脅すような笑みも、媚びるような仕草もない。ただ、必要以上に人と距離を詰めることもなかった。

 何を好むのか、何を嫌うのか、それを知る者はいなかった。彼の食卓を共にした者でさえ、腹の底までは覗けない。

 依頼は、いつも密やかに届く。

 寺社の回廊の影で、あるいは焼け跡の路地裏で、細い紙片を受け取る。それを懐に収め、静はただうなずく。

 金の多寡には頓着しない。条件はひとつ――仕事のあと、己の名を記録に残さぬこと。それを破る者には、報いがある。

 その夜も、風は冷たかった。

 京の北、瓦の隙間から月の光が漏れる町筋を、白い影が音もなく歩いていく。手にはまだ鞘に収められた刀。抜く気配はない。

 角を曲がった先に、ひとりの男が立っていた。

 浅黒い顔に刻まれた皺は、夜目にも深い。男は静を見ると、わずかに肩を震わせたが、逃げることはなかった。

「……あんたが、“白”か」

「ええ」

 声は驚くほど柔らかかった。

 次の瞬間、月明かりが刃に反射した。

 音はなかった。ただ、男が膝を折り、そのまま土に沈むまでの間に、空気が一度だけ揺れた。

 静は刀を拭い、鞘に納めた。吐く息は白く、夜気にすぐ溶けた。

 戦の匂いが、遠くから近づいていた。

 蓮宗一向派と町衆の争いは、すでに町外れを越え、寺の鐘楼にまで及んでいるという。火の手は、風次第でいつ京の中心に届いてもおかしくなかった。

 静は、次の依頼を受ける前に、空を仰いだ。

 雲は低く、月は半分欠けている。

 ――近いうちに、京全体が戦になる。

 それは、予感ではなく、確信だった。

 彼は踵を返し、路地を抜けた。

 その先に、戦場が待っていることを、迷いもせずに。

     ※

 町外れに出ると、空気が変わった。

 土の湿りに混じって、焦げた木の匂いが鼻を刺す。遠くで火柱が上がり、夜空に赤い煙が渦を巻く。

 行き交う人影はほとんどなく、残るのは駆ける足音と、遠くから響く怒号だけだった。

 瓦礫と化した町筋を抜け、静は足を止めた。

 そこは、寺の門前――だが本堂はすでに崩れ落ち、境内は黒く焦げている。

 門前に立ち並ぶ男たちは、槍や薙刀を構え、互いに牽制しあっていた。片方は蓮宗一向派の僧兵、もう片方は町衆と雇われの浪人たち。どちらも、瞳に敵意と焦りを宿している。

 静は、白装束の裾を揺らしながら、門をくぐった。

 視線が一斉に向く。誰もが息を呑む。

「……来やがったか」

 低く呟いた浪人のひとりが、柄を握りしめる音が響く。

 剣を抜くことなく、静は僧兵の列に向かって歩み寄った。

 夜の光が、長い髪の束の先を淡く照らす。その背筋は揺るがず、足音は石畳に吸い込まれていく。

「退け」

 ただ、それだけ。

 その一言が、戦場のざわめきを裂いた。

 次の瞬間、僧兵のひとりが怒声と共に槍を突き出した。

 白布が翻り、刃は槍の穂先を払っていた。金属の短い悲鳴が夜に走り、槍を握る手が力を失う。

 静は踏み込み、一太刀で相手の戦意を断ち切った。血の飛沫はなかった。だが、その場の空気が変わる。

「……あれが、“白”」

 浪人たちの間に、囁きが走る。怯えと敬意が混ざった声色だった。

 そのとき、崩れた本堂の影から、ひとりの若者が現れた。

 肩で息をし、片手に刀を握っている。衣の裾は焦げ、袖には泥がついていた。

 彼は、白装束の男を一瞥し、その目を逸らさずに立ち止まった。

 視線が交わる。

 静は、その瞳の奥に、無闇な敵意も恐怖も見なかった。

 あるのは、研ぎ澄まされた問い――「お前は、何者だ」。

 若者の名は、矢野蓮。

 この夜、この一瞬の邂逅が、ふたりの行く末を変えていくことを、まだ誰も知らない。

 火の粉が舞う空の下、白と黒の影は、互いの存在を確かめるように、静かに立っていた。


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