抜けない棘(2)
「……何か、あった?」
その夜。智士くん特製のカレーを食べて、部屋でくつろいでいた私に、彼がそっと声をかけてきた。
きっと私が上の空だったから。
「ううん、なんでもないよ」
笑ってみせる。でも、声がわずかに震えていたのが自分でもわかった。
智士くんは優しく私の髪を撫でて、ため息まじりに言った。
「……菜緒さんが“なんでもない”って言うときは、だいたい、なんでも“ある”んだよ。今日ずっと、心ここにあらず、だったじゃん」
「……私、そんなにわかりやすい?」
「そりゃあ。いつも見てますから」
「俺のこと、もっと頼ってください。見た目以上に、頼りになりますよ?」
冗談めかして言う彼のその言葉に胸がじんと熱くなる。どうしてこの人は、こんなにも優しくて、甘いんだろう。
そしてその優しさが、逆に苦しくなる。あの男の言葉が、心に棘みたいに刺さったまま、消えてくれない。
「……最近ちょっと考えちゃってたの。智士くん、どんどん有名になっていくでしょ? あのスポンサーの話もすごくて……。隣にいるのが、私で…いいのかなって」
嘘は言ってない。彼の隣に立つには、私はあまりに“普通”すぎる。ただの、普通の看護師。
それでも彼はいつも、手を伸ばしてくれた。
智士くんは小さく息を吐いた。呆れたように、でも愛おしそうに言った。
「……もう。いつも言ってるでしょ。菜緒さんじゃなきゃダメなんだって」
そして、私の耳元にそっと囁く。
「俺は——菜緒さんが、いい。菜緒さんしか、いらない」
その声が、鼓膜から胸に、全身に染み込んでいく。
智士くんの羊ボイス。配信で聞くより、ずっと甘くて、やさしくて、ずるい。
「……だから、いきなりそれは反則だってば……」
そう呟く間もなく、彼の腕が私をぎゅっと抱きしめてくる。
彼のぬくもりに包まれていると、涙がこぼれそうになるくらい幸せで。
「……ねぇ、智士くん」
「ん?」
「もしも、私と一緒にいることで、智士くんが誰かに何か言われたり、傷つくことがあったら……。そうなったら、どうする?」
自分でも、言ってしまったことに後悔した。それでも、聞かずにはいられなかった。
智士くんは、きょとんとしたあと、少しだけ眉をひそめた。
「……それ、さっき言ってたことと、関係ある?」
図星だった。私はうつむいて、答えを濁す。
でも彼は私の手を握って、きっぱりと言った。
「誰に何を言われたって、俺の気持ちは変わらない。変えられないよ。俺は、菜緒さんと一緒にいたい。それだけ」
そんなふうに、真っ直ぐに言ってくれる彼が、やっぱり好きで——
その分、怖くもなった。
彼は本気で私のために、何かを“選択”してしまうかもしれない。
彼の未来を、私が曇らせてしまうかもしれない。
そんな不安が、心のどこかにずっと残っていた。
そして、あの男の言葉も。
「彼のことを思うなら、その熱病を覚ましてあげないと——」
私は、彼の“熱病”なんだろうか。
彼からの優しいキスに応えながらも、心の奥にある小さな棘は、まだ抜けなかった。
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