抜けない棘(1)
【Side;菜緒】
「日辻智士さんと、別れてください」
その言葉はあまりに唐突で、現実感がなかった。
仕事帰り、駅へ向かういつもの道で。声をかけられた。
「月平菜緒さん、ですよね」
名前を呼ばれて、思わず足が止まった。
きちんと整えられた前髪。その奥から私を見る冷たい目の男性。細身のスーツ。胸元で光る星形の社章は私でも知ってる。Asteria Visionのマークだ。
「日辻智士さん。配信者“羊”さんの件でお話があります」
名前を聞いた途端、心臓が跳ねた。彼の名前が、知らない人の口から出た。それだけで、胸の奥がざわつく。
「——なんの、ご用ですか?」
私の問いに、その男性は一歩近づいて、静かに言った。
「彼は、非常に将来有望な配信者です。……いえ、それだけでなく、今後、業界の象徴的存在にもなり得る人材だと、弊社では判断しています」
「別れてください。彼のために」
一瞬、耳を疑った。何を言っているのか理解できず、ただ立ち尽くす。
「……いきなり、何を言ってるんですか」
「彼のように才能ある人間には、その才能に見合った生活があります。普通の看護師との交際が、彼のキャリアにどう影響するか、少しはお考えになったほうがいい。詳細は伏せますが、社として——そして“個人”としても、日辻さんには大きな期待を寄せています」
その“個人”という言い回しに、引っかかりを覚えた。
「でも、それは、彼自身が決めることじゃないですか? 彼は私を選んでくれました。私は、その言葉を信じています」
「——だからこそ、です」
静かに、けれど確信を突くように彼は言う。
「信じているからこそ、お伝えするんです。日辻さんのような方には、もっと“ふさわしい”相手がいる。例えば、同じ世界に身を置き、理解を示し、将来的にも支え合えるような……。あなたのような一般人では、いずれ負担になる」
そして、さらに冷たく畳みかける。
「今の彼は、一時的な熱病にかかっている状態です。彼の未来のためにも、その熱病のような関係は覚ましてあげるべきです」
熱病のような関係。
その言葉が胸に突き刺さる。
「——詳しい話はまた。今日はただの忠告です。それでは」
彼はそれだけ言って、踵を返して去っていった。
と、男性が去っていく道の向こう側から、見覚えのある顔が歩いて来た。
「…あ……」
拓実だった。私の弟であり、同じ病院に勤める研修医。たまたま帰りが重なったらしい。
拓実はあの男性とすれ違うと、一瞬目をやってから、私に声をかけた。
「姉ちゃん? どうしたの? 今の人、誰?」
道端で困惑した顔の私を心配してくれたらしい。
すぐに笑顔を作って答えた。
「ん? ただ、道聞かれただけだよ。知らない人」
「あ……でも、智士くんに“知らない男に声かけられた”なんて知られたら、絶対機嫌悪くなるから。内緒にしてくれる?お願い」
そう言って、拝むように手を合わせ、悪戯っぽく笑う。
拓実は苦笑しながら首をすくめた。
「……あぁ。羊さん、独占欲強いもんな。んじゃ、コーヒー、奢って」
「抜け目ないなぁ。了解、コーヒーね」
近くのコンビニで拓実のコーヒーと自分のカフェオレを買った。
「この後、羊さんとこ、行くの?」
「そう。今夜はね、智士くんがカレー作ってくれてるんだ」
「そういうのって、普通、彼女の方が作るんじゃ……」
「いいの。智士くんのカレー、美味しいんだから。じゃ、また明日病院でね」
そうして軽く手を振って別れた。
彼の部屋へ向かう電車の中でぼんやりと考える。Asteria Vision──業界最大手のスポンサー。GG4がスポンサードされることになって、智士くんも、GG4の皆もすごく喜んでいた。
一方で、あの男性の冷たい眼差しを思い出すと、ぞくりと身体が震えた。何か得体の知れない大きな力が私たちの周りに渦巻いているような気がした。
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