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同じ未来をみよう(2)

【Side;智士】


 笑い声とグラスの音が重なる打ち上げ会場。

 誰もが、今日という日を“成功”と呼び、思い思いの乾杯を交わしている。


 菜緒さんが隣にいるだけで、胸の奥がぽかぽかしてた。夢みたいだった。けれど、現実だ。ちゃんと手が届くところにいてくれている。俺の大切な人が。


 打ち上げがお開きとなり、「二次会行く人ー!」と賑やかに騒ぐ四宮の声を聞きながら、菜緒さんの姿を探した。

 人混みから少し離れて、スマホで何かを検索している。そっと近づいて尋ねた。


「……どうしたの?」


 少し肩をすくませて振り返った菜緒さんが、小さく笑った。


「うん……泊まってたホテルに荷物、取りに行こうと思って」


「ホテル?」


「今日、チェックアウトしておかないと……今夜はちゃんと家に帰って、週明けには仕事に戻りたいな、と思って」


 一瞬、言葉が出なかった。

 彼女には彼女の生活があるのはわかってる。でも、やっと会えた彼女と今夜だけでも離れたくなかった。そっと、彼女の指を絡めて言う。


「……今夜は、ずっと一緒にいたい。……帰したくないって言ったら、困る?」


 言いながら、指先がかすかに震えた。もう一度失うかもしれないって思ってしまう自分がいた。


 だけど彼女は、笑顔になって、すぐに答えてくれた。


「……ううん、困らない。むしろ、嬉しい」



「疲れてるだろうし、先に帰ってていいよ。後から家、行くから」と言われても、頷けなかった。

 一緒にホテルまで行って、部屋から荷物を持ってくるのをロビーで待っていた。

 彼女の自宅とも、職場とも、俺の部屋とも、まったく無縁の場所。彼女が俺の元から去ろうとした覚悟が垣間見えて、胸がざわめいた。


 現れた彼女が持っていたのはボストンバッグ一つだけ。

「これだけで大丈夫?」そう聞くと


「うん、着替えと、簡単な化粧品と、タブレット。

 あと……チンチラさんだけだから」


 と朗らかに応える彼女。


「チンチラ……連れてきてたんだ」


 独り言のように呟いた。


「……どうしても、置いて来れなくて」


 そう笑って答える彼女に、たまらなく愛おしさが込み上げた。



 玄関を開けた瞬間、無意識に言葉が出た。


「……おかえり」

「……ただいま」


 たったその一言のやりとりに、何度も夢見た光景が重なって、胸がいっぱいになった。


 入浴を終えて、ソファに並んで座って。

 2人寄り添ってぼんやり、つけっぱなしのテレビを眺めていた。彼女の体温を感じられることが幸せだった。


 菜緒さんがぽつんと言う。


「……智士くん、本当にごめんなさい」


「……もういいよ。これ以上謝らないで」


「私ね……あなたの足枷にだけは、なりたくなかったの」


「……むしろ、菜緒さんがいないと俺は何一つ、届けられないから。だからもう、どこにも行かないで」


 彼女の手を、そっと握る。細くて、小さな手。

 けれど俺の世界を支えてくれていた、大切な手。


 頬から首筋をゆっくりと撫でる。彼女は目を閉じて俺に身を任せてくれていた。撫でられてる猫みたいだ。


「菜緒さん……あの時の“証”ってさ、もう、消えちゃった?」


「え?……うん。きれいに、何も残ってないよ」


 彼女はちょっと寂しそうに笑った。


「じゃあ、また……残させて」


 俺はそっと彼女の首元に唇を寄せる。

 甘く、やわらかく。そこにまた、新しい証を刻むために。



 ベッドで、名前を呼んで、想いを伝えて、彼女のすべてを抱きしめた。離れていた時間を埋めるようにキスをして、体温を分け合った。触れ合うたびに、想いが重なって、心の奥の隙間が、ひとつずつ、優しく満たされていった。


「菜緒さん」


 呼ぶ声は自然と“羊”になっていた。

 低く、甘く、少し囁くように。

 この声でしか届けられない想いがあるから。


「……寂しかった。菜緒さんがいない日々が、ほんとに辛かった」


「私も……寂しかった……」


 そう言う彼女の声が、胸にじんわりと沁み込んでくる。


「智士くん……、好き…大好き……」


 彼女の細い腕が俺の背中を撫でたとき、胸の奥に積もっていた孤独が、溶けていくのを感じた。



 夜が更けても、なんとなく眠れなくて、2人でこれまでのことをぽつりぽつりと話す。


 彼女が呟いた。


「……ありがとう。見つけてくれて」


 クスッと笑って応える。


「……見つけられるよ。どこにいても、わかる」


「……ねえ」


「うん?」


「今日ね、ステージの上のあなたを見て思ったの。あなたが、あなたの居場所に戻れて……本当によかったなって」


 俺は目を閉じて、その言葉を噛み締めた。


「それでね、今日で全部終わりにしようと思ってたの。仕事も辞めて、引っ越して……どこか知らない街で、新しく生きようって」


 その言葉に、心がざわついた。もしかしたらあったかもしれない未来。想像したくもない未来だった。


 だから、俺はすぐに言葉を返した。


「じゃあ、俺も引っ越すわ」


「え……?」


 真っ直ぐに彼女の瞳を覗き込んで言った。


「おんなじ街に。菜緒さんのいる場所に、俺も行く。動画も編集も、全部ネットがあればできるし。配信だって、どこででもできるから」


 目を丸くした彼女の顔。俺の胸に顔を埋めて、少し涙声で、小さくつぶやいた。


「……バカ」


「うん。バカだけど、言ったでしょ。菜緒さんがいないと、俺、羊にもなれないの。だから、どこにでもついてくよ。足枷なんかじゃない。俺が勝手に菜緒さんの手、掴んでるだけ。菜緒さんが笑ってくれるなら、どこでもいい」


「ずるいんだから……ほんと」


「ずるくても、もう離さないよ。これからはずっと、そばにいる」


 そう言ってまた唇を重ねた。


 明日のことも、未来のことも、すぐに全部分かるわけじゃないけど。


 それでも、今日、これだけははっきり言える。


 ——もう、どこにも行かないで。

 ——どこにでも一緒に行くから。


 抱きしめた菜緒さんの温もりが、彼女の存在を確かに教えてくれていた。

読んでいただき、ありがとうございました。

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