忘れたいほどの愛おしさ
【Side;菜緒】
智士くんの元を去って、一週間が経った。
あれからずっと、誰にも会っていない。職場には体調不良で有休扱いにしてもらっていた。幸い有休は売るほど余ってたから。職場、自宅、智士くんの家、3つとは全く違う路線沿いの街。名前も覚えていないようなビジネスホテルに身を寄せていた。
ただ、じっと、息を潜めるようにして。
拓実からも何度か連絡が来たけれど、「大丈夫」とだけ返して、あとは既読もつけていない。拓実は智士くんと繋がっている。私の居場所は知られちゃいけない。会えば、絶対に泣いてしまう。声を聞いただけで、想いが溢れて、崩れてしまう。
荷物は、ペンギンのキーホルダーがぶら下がっているボストンバッグが一つだけ。バッグの中には、最低限の着替えとタブレット、そして、彼から贈られたチンチラのぬいぐるみ——これだけは、どうしても置いてこれなかった。
最後の夜、智士くんからもらった、首元の跡。見るたびに嬉しくて、でも思い出すたびに苦しくて。その跡もだいぶ薄くなった。目を凝らさなければわからないくらい。この跡と一緒に私の気持ちも薄くなって溶けてしまえば、もうこんなに胸が痛くなることはないのに。
智士くんやGG4の配信を開けば、アンチコメントはもう嘘のように消えていた。まるで最初から、何もなかったかのように。
彼はまた、羊として配信を再開していた。
あの騒ぎも、あの黒い圧力も、私が手放したものも、全て、夢だったら。
目が覚めたら、隣には彼がいて、「怖い夢を見た」と泣きついたら、彼はきっと私を抱きしめて、「もう大丈夫だから」って子どもみたいに甘やかして、笑ってくれたんだろう。
そんな夢を、何度も見ていた。起きた瞬間、それが夢だとわかるたび、胸の奥が軋んだ。
智士くんへ最後のメッセージを送ってから、通知音もバナーも切っていた。
でもアプリのバッジは日を追うごとに数を増やしていく。
きっと今も、彼は私に何かを伝えようとしてくれている。
でももう、読めない。読んだら、戻りたくなってしまう。返事を、してしまう。そしたら彼はきっとすぐに私を迎えに来てしまう。
私は……もう、戻ってはいけない。
だから——どうか、私のことは、忘れて。
私がいなくたって、あなたなら夢を掴める。誰よりも努力して、誰よりも愛されて、誰よりも真っ直ぐで、優しい人だから。素晴らしい仲間もいる。
あなたは、きっと幸せになれる。その隣にいるのが、私じゃなくても、大丈夫。
今夜も、画面越しに彼の声を、私はまだこうして聞いてしまう。
ベッドしかない小さな部屋で、タブレットの音量を最小にして、そっとあなたの声に耳を傾けている。それだけで、胸の奥がぎゅっと締め付けられる。
大好きな声。でも、どこかで少しだけ、声が震えている気がして——勝手に涙が溢れてくる。
きっと、私は間違ってる。
誰かに聞きたかった。
「私はこれでよかったの?」って。
「“誰か”の夢を守るために、大切な“誰か”を手放すことは、本当に正しいことなの?」って。
でも、それを口に出すことはできない。否定されても肯定されても、きっと私の救いにはならない。だから、誰にも聞けない。
来週には公開実況がある。
一般席でよかった。招待席だと彼に見つかってしまうから。
彼の姿を最後に見届けたら、全部、終わりにするつもり。彼に見つからずに、姿だけをこの目に焼き付けられたら、それでいい。
仲間たちと光の中で、笑って、声を届けるあなたを見られたら——。
……でも
まだ心の奥に、最後のひとかけらが、残ってて。
あの人の声が恋しくて、笑顔が見たくて、名前を呼んでほしくて。
首元の跡が消えかけても、そんな感情がまだ、しぶとく、この胸に残っている。
だから——誰か、お願いします。
この気持ちを、忘れさせてください。
誰よりも好きで、大切で、愛おしくて仕方ない、彼への気持ちを。
出なければ、私は……
私は、どこへも動けない。
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