さよならの夜明け
【Side;菜緒】
「今夜、会いにいっていい?」
メッセージを送った指先は少し震えていた。
それでも、迷いはなかった。決めたことだから。これが、私の出す答えだから。
ほんの数秒後に返ってきた。
《もちろん! むしろ、会いたすぎて限界》の文字にぐったりした羊のスタンプ。
それを見ると胸が痛んだ。
智士くんの部屋。
いつもの柔らかい光とふわっとした空気が私を包む。彼の笑顔が迎えてくれた。
疲れているはずなのに、私の姿を見た瞬間に、ぱっと表情が緩んで。
「菜緒さん……やば、めっちゃ嬉しい。今日は会えないかと思ってた」
そう言ってくれるその声に、胸がツキンと痛くなった。
「ごめんね、急に」
「何言ってんの。来てくれてありがとう。あ、何飲む? カフェオレ? それとも——」
智士くんがキッチンに向かおうとしたその背中に、私は無意識に手を伸ばしていた。
「待って」
背中から、ぎゅっと抱きついた。
驚いて振り向く彼の顔に、そっと唇を重ねる。私からキスをするのは、これが初めてだった。心臓が壊れそうなくらい鼓動が早い。
「……ど、どうしたの?」
ぽかんと目を丸くして、頬を染める彼。その表情が、愛しくて仕方なかった。
「ごめん、変…だった?」
「ううん、全然。むしろ……やばい、可愛すぎて死にそう……」
笑いながらそう言って、智士くんが私を力強くと抱きしめてくれた。
あったかくて、心地よくて、このままずっとこうしていたいって思った。
私は彼の胸に額をあずけたまま、そっと囁いた。
「智士くん、ベッド……行っていい?」
その声は、自分でも驚くほど熱を帯びていた。
「……え、え? …うん、っていうか……」
智士くんは困惑しながらも私を抱き寄せる手に力が入った。
「こういうの、嫌い?」
彼を見つめる私の顔が、彼の瞳に映っている。
彼はふっと微笑んで言った。
「嫌いなわけ、ない。むしろ……最高」
シーツの感触。交わす吐息。重なる心音。
ただただ、優しくて、あたたかくて、泣きたくなるほど幸せだった。
「智…士、くんっ、名前、呼んで……」
「菜緒さん……どうしたの? 今日ほんとに……めちゃくちゃ、可愛い…」
大切にされてるってわかる。
だからこそ、決めていた。今日で終わりにしようって。
——好きだから、抱かれたかった。
——でも、好きだから、ここで終わらせたかった。
——最後に、彼のことを身体に刻み込みたかった。
肌が重なるたびに、温度が染み込んでいくようで。
抱きしめられるたびに、心が崩れていきそうで。
この夜が、永遠ならいいのにって、思った。
この人の夢を守るために。彼の大切な仲間たちの未来を、壊さないために。
私が、いなくなればいい。
幾度も重なる唇に、別れの言葉を忍ばせて。
その背中を抱きしめながら、胸の奥でこっそり謝った。
ごめんね。本当に、ごめんね、智士くん。
夜が明けて、そっとベッドを出た。
「……そっか、もう出勤だよね」
智士くんは名残惜しそうに言った。
「無理、しないでね。俺も、もう少しで片付くと思うから……終わったら、またいっぱい甘やかしてもらうし」
「うん」
笑って答えながら、私はそっと服を整える。
彼の証が首元に残っていることが、嬉しくて、でも少し苦しかった。
玄関で靴を履いて、見送ってくれた彼に最後にもう一度、キスをした。
唇を離して、なんとか笑顔を貼り付けて言う。
「じゃあね。身体に気をつけてね」
「うん、菜緒さんも」
ドアを閉める直前。彼の顔を見ないようにして、ひとりごとのように小さく、小さく呟いた。
「……さよなら」
ドアを閉めた瞬間、世界の音が一気に静かになった。
その静けさは、まるで私の中から何かが抜け落ちたようで。
靴音を響かせながら歩き出す。
気がついたら、走っていた。
足が勝手に動いて、速く、速く、と急かしていた。
そうじゃないと、彼への気持ちが後ろから追いついてきて、私をまた、動けなくしてしまいそうだったから。
——大好き。大好きだよ、智士くん。
それでも私は、彼の手を離す。
彼の未来を、守るために。
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