第九章:残響のなかで
慎は、灯りを消した教室に静かに立っていた。
窓の外に月がのぼり、淡く青い光が床を照らしている。
そこに、着ぐるみたちが黙って佇んでいた。
まるで、語る順番を静かに待っているかのように。
彼はゆっくりと、もう一度一体一体に近づいた。
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ひとつめ。
熊の着ぐるみ――ずっしりとした体躯に、丸い目。
頭に手を置いた瞬間、柔らかな声が流れ込む。
――「毎日、職場から帰るのがつらかった。でも、この中に入れば誰かが笑ってくれた。
せめて誰かの役に立ちたいって、ずっと……願ってたんだ」
ふいに、誰かの肩に寄り添う温かさが心を包んだ。
誰にも届かなかった“優しさ”が、そこにはあった。
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ふたつめ。
パンダの着ぐるみ――よく見ると耳が片方だけ補修されている。
指でなぞると、小さな子どもの声が。
――「おかあさん、これ直して!ぼく、この子とずっといっしょにいるから!」
誰かの大切な相棒だった。
子どもの世界を守る盾であり、そっと隣にいる存在。
パンダはもう空っぽなのに、あの声だけが胸の奥で跳ねた。
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みっつめ。
細身のキツネの着ぐるみ。片方の目元にはほんの少し、涙の跡のような染み。
――「いつも、演じてた。明るいふりして。でも、誰も気づかない。
この中なら……本音で笑えた。……ほんとは、寂しかったんだ」
慎は言葉を失った。
誰かの孤独の、最後の隠れ場所。
それが、このきぐるみだったのだ。
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彼は一体、また一体と向き合いながら、静かに座り込んだ。
そのたびに、かすかに“想いのかけら”が心に溶けていく。
まるで、色のない世界に少しずつ絵の具が落ちていくように。
「……俺、ただ絵を描きたかったんじゃない。
この想いたちを、“消えないもの”にしたかったんだ……」
呟いた瞬間、涙が一粒、膝に落ちた。
それが自分のものだと気づくのに、少し時間がかかった。
教室の隅にある、あの埃をかぶった着ぐるみにもう一度目を向ける。
今なら分かる。この子だけは、まだ“語っていない”。
それは、慎の手を離れていない“物語の余白”。
彼はそっとその着ぐるみに手を重ねた。
そのとき、微かに音がした――まるで、胸の奥に小さな鈴が鳴るような音。
誰かの気配が近づいていた。
まだ遠く、名前も顔もない存在――けれど、確かに“呼ばれた者”。
慎の中に、はっきりとした言葉が浮かんだ。
「この物語の続きを、君に託したい」