古代魔法研究所
古代魔法研究所はオルフォード村の外れ、丘の上にひっそりと佇んでいた。
優美な曲線の瓦屋根をいただく筒形の建物で、外壁にはびっしりと緑の蔦が絡みついている。
石造りの扉の上には古の文様が刻まれていた。
建物の周囲には石灯篭や、数えきれないほどの道祖神が飾られている。
そのせいだろうか。建物全体から、古代の気配と同時に異国の美を感じさせられた。
ブラッドとヴァルブルガが扉の前に立つと、室内から悪態をつく声が漏れ聞こえてきた。
『ったくなんでこの研究所は無駄に広いんだよ……! だいたい棚が多すぎ!! わけのわからないガラクタを溜め込みやがって。毎日埃を払う人間の身にもなれってんだよ! クソが!』
声音からして、かなり若い男のようだ。
ニムーゲン博士は七十代のはずなので、声の主は研究助手だろうか。
(随分と口の悪い人間を雇っているんだな)
だからといってなんということもない。
ブラッドは気にせず呼び鈴を鳴らした。
その瞬間、罵詈雑言はぴたりと止んだ。
ところが数秒待っても扉はいっこうに開かなかった。
(どうなっている?)
再び呼び鈴を鳴らす。
それでも反応が返ってこない。
中に人がいることはわかっているので、今度はノックをしてみた。
『んだよ、毎日毎日うるせーな! 居留守使ってんだから、大人しく帰りやがれ! こっちは今忙しいっての!!』
先ほどの人物の怒鳴り声が、より近くから聞こえてきた。
どうやら扉の向こう側に立っているらしい。
人嫌いの相手なのかもしれないが、ここまで何日もかけて旅をしてきたのだ。
情報を得ることなく、門前払いにされるわけにはいかない。
「古代魔法に関してニムーゲン博士に訊きたい質問がある。とりあえず開けてくれないか?」
『てんめぇ……ニムーゲン博士がどういう状態か知ってるくせに。ぶっ飛ばすぞ……!!」
勢いよく扉が開くのと同時に、激高した銀髪の青年が姿を現した。
年はおそらく十代後半。
生意気そうな顔を怒りに歪めたまま、こちらに向かって勢いよく腕を伸ばしてくる。
感情のまま突き飛ばすつもりなのだろう。
ひょろひょろの体型を見れば、押されたところでなんのダメージも受けなさそうだが、敢えて喰らってやる義理もない。
ブラッドは風魔法を発動させると、青年の体を室内に吹き飛ばした。
「うわっ!? ……痛っう……」
床に激突した青年の口から、掠れた悲鳴が零れる。
これから交渉する相手なので、もちろん加減はした。
それを証明するように、痛がりながらも青年はすぐに上半身を起こした。
「今の一瞬で魔法を放つとか……信じらんねえ……。いつもの奴らとレベチじゃん……」
ぶつぶつ呟きながら、青年が顔を上げる。
(いつもの奴ら?)
どうやら何か誤解があるようだ。
「俺はブラッド・レスター。個人的にニムーゲン博士の知識を借りたくて、訪ねさせてもらった」
「ヴァルはヴァルブルガ!」
便乗して名乗ったヴァルブルガを後ろに押しやる。
青年は怪訝そうな顔で、ブラッドとヴァルブルガを見比べてから、気まずげに俯いた。
「……んだよ。王立アカデミーの職員じゃねえのか。……たしかに子連れだもんな」
ブラッドの後ろにいるヴァルブルガを見ながら、青年が呟く。
「てことは、俺、関係ない奴に向かっていって、返り討ちにあったのか? うわ、最悪……。ださすぎじゃん……」
勘違いが気まずかったらしく、床で胡坐をかいたままの青年が、がしがしと頭を掻き回す。
反省しているのは伝わってきたので、ブラッドは青年に向かって手を差し伸べた。
「相手を確認せず、喧嘩を吹っ掛けるのはやめておいたほうがいいな。いつかひどい目に遭うぞ」
「ふん。偉そうに」
文句を言いながらも、青年はブラッドの手を取った。
それから捲し立てるように名乗った。
「俺はレイブン・ドッツ。ニムーゲン博士の助手、ってか世話係だ」
「よろしくな。それでニムーゲン博士は?」
「あー……。この研究所にいるっちゃいるけど……。会ったって意味ないと思うぜ」
「どういうことだ?」
レイブンが軽く肩を竦める。
レイブンの表情に暗い影が落ちるのを、ブラッドは見逃さなかった。
(わけありのようだな)
腹を探ろうとするブラッドの視線に気づき、レイブンはふいっと横を向いた。
「……ニムーゲン博士は中庭だ。行ってみれば? 俺の言葉の意味が、一瞬でわかるだろうから」
脇にどきながら、レイブンがガラス張りの扉を示す。
「そうさせてもらう」
研究所に入ると、まずは円形の広間があった。
弧を描いた壁には等間隔で扉が設置されていて、それ以外のスペースには備え付けの棚が設けられていた。
棚の中は本や古びた魔道具、魔獣の化石などが、雑多に詰め込まれている。
そのため室内には、古い物が放つノスタルジックな香りがうっすらと漂っていた。
決して嫌な匂いではない。
(にしても研究所というよりは、博物館のようだな)
そんな感想を抱きながら、ブラッドは遠慮なく研究所の中に踏み込み、教えられた扉の前まで向かった。
ぽかんと口を開けて、物珍しそうに棚を眺めていたヴァルブルガが、慌てて後をついてくる。
ガラス製の扉からは、中庭の様子を伺えた。
日差しに包まれた小さな中庭は、春の野花で溢れている。
デイジーにタンポポ、それからポピー。
古びた水鉢の周りには、ネモフィラが群生している。
何匹かの野鳥が中庭に設置された石灯篭の飾りを巣にしているらしく、風に乗ってさえずる声が響いてくる。
春の息吹と自然の調和に満ちた癒しの空間、その中央には安楽椅子に座る老人の後ろ姿があった。
薄くなった頭と丸い背中、茶色いベストを身に纏った体は子供のように小さい。その体型からも、老人がかなり高齢である事実が見て取れた。
(あれがニムーゲン博士か)
扉を開け、中庭に降り立ったブラッドは、草を踏みしめながらニムーゲン博士のもとへ向かった。
「ニムーゲン博士」
呼びかけてみるが、老人は振り返らない。
(耳が遠いのか?)
ニムーゲン博士の視界に入るため回り込む。
改めて声をかけようとしたブラッドは、ニムーゲン博士の顔を見た瞬間口を噤んだ。
遠くを見つめるニムーゲン博士の目に焦点はなく、表情からは時と場所を見失っているような迷いが感じられた。
膝の上には古代魔法に関する書物が置かれているが、ページはずっと動かないまま……。
かつて数々の学術論文を執筆したであろう皺だらけの手は、今はただ静かに書物の端を撫でるのみだ。
彼が我に返ってくれることはあまり期待できないが、それでも再び呼びかけてみる。
「ニムーゲン博士」
「……」
ニムーゲン博士は宙を見つめたまま。
その視線は一切動かない。
「話しかけても無駄だ。会話はもう一年以上かわせてないから」
扉の前でやり取りを眺めていたらしいレイブンが、諦めきった口調でそう伝えてくる。
ニムーゲン博士の前で、彼の症状について話すのは避けたい。
たとえニムーゲン博士の耳や脳が、現実で行われる会話を一切感知しないとしても……。
ニムーゲン博士を中庭に残して室内に戻ると、ブラッドが尋ねるより先に、レイブンは事情を説明してきた。
「二年前、ニムーゲン博士の奥さんが流行り病で亡くなったんだ。それからニムーゲン博士の様子が、少しずつ変わっていってさ……。奥さんが大事にしていた中庭でぼんやり過ごす日が増えて、今じゃあの有様だ。二階にあるニムーゲン博士の自室は、未だに奥さんの遺品で溢れ返ってるし、奥さんの死を受け入れたくなくておかしくなっちゃったんだよ。偏屈なニムーゲン博士にとって、奥さんは唯一の理解者だったから、相当応えたんだろうな」
同じように娘の遺品整理を一切できなかったブラッドは、思い出の中で暮らし続ける者の痛みをよく知っていた。
「ニムーゲン博士の面倒は、君が一人で見続けているのか?」
「仕方なくね。辞めたくたって、まともな仕事に就くにはニムーゲン博士の推薦状が必要だし。しかもこの研究所には、王立アカデミーのクソ職員たちが毎日押しかけてくるからな。あの頭でっかちのカボチャ頭共、『研究所を閉鎖して資料を渡せ』だとかぬかしやがるんだぜ。あんたらを追い返そうとしたのは、そのクソ職員と間違えたからだ」
取り付く島もなく、門前払いにしようとしたレイブンの態度を思い返す。
「王立アカデミーの職員を相当嫌っているらしいな」
「当たり前だろ。あいつらは自分たちの都合しか考えてねえゴミだ。ニムーゲン博士がどうなろうが知ったこっちゃないけど、俺が出て行ったらあのクソ職員共が好き勝手するだろ。それは気に入らねえから、嫌がらせのためにも居座ってやってるってわけ。……ニムーゲン博士も閉鎖や引退は希望してなかったし?」
最後の一言は、聞き取れないぐらい早口でぼそぼそと付け足された。
口も態度も悪いが、レイブンはニムーゲン博士を気遣っている。ブラッドはその事実を感じ取った。
「この研究所とニムーゲン博士の両方を、君が一人で守っているんだな」
「はあッ!? そ、そんなつもりじゃねえから!!」
捻くれ者らしいレイブンは認められたことに反発し、顔を真っ赤にさせた。
「俺は! まじで! 嫌々ここにいるんだから!! 一年もこんな退屈な場所に縛られて、ぼけた爺の面倒を看させられてるんだぞ!?」
レイブンが悪ぶったところで、ブラッドからしたらキャンキャン吠える子犬にしか見えない。
平然とした態度で聞き流していると、居心地が悪くなったのか、レイブンはぷりぷりしたままそっぽを向いた。
「くそっ、ニムーゲン博士が一瞬でもしっかりしてくれれば、紹介状を持って出ていけるのに……。なあ、あんた相当な魔法の使い手だったけど、魔法でニムーゲン博士の意識をしっかりさせることってできねえの?」
ブラッドとしてもニムーゲン博士には会話がかわせる状態に戻って欲しかったが、レイブンの思い付きを採用するのは難しいだろうと感じた。
「できなくはない。だが勧めはしない」
「なんでだよ? どんな魔法を使うっての?」
「幻惑魔法を用いて、ニムーゲン博士の奥さんの幻を出現させるんだ」
奥さんの死によって壊れた心だ。
「奥さんが蘇ったと錯覚させれば、ニムーゲン博士は正気を取り戻す可能性が高い」
「……! それは……」
どこか茶化したような態度が消え失せ、レイブンは無表情になった。
「……それはさすがに鬼畜すぎるだろ」
「まあな」
幻惑魔法の発動時間は限られている。
つまり奥さんの幻は、必ず消える。
ニムーゲン博士にとっては、最愛の人を二度失うのと変わらない。
その悲劇がどれほどニムーゲン博士を苦しめるか。
年が年だ。
場合によっては、ショックのあまり心臓に過剰な負担がかかる可能性だって、十分考えられた。
要するに幻惑魔法を用いる方法は、『会話がかわせさえすれば、ニムーゲン博士がどうなっても構わない』という割り切りがなければ使えない手段なのだ。
さすがにブラッドだって、自分の復讐のために、関係のないニムーゲン博士を犠牲にするつもりはなかった。
あと一つ、高度な【精神侵入魔法】を使ってニムーゲン博士の心に入り、直接対話を図って協力を求めるという手もなくはない。
しかし他者の心に入った側は、相手の精神状態の影響をもろに受けるというリスクがある。
妻を亡くして絶望するニムーゲン博士の悲しみに引きずられた場合、自分の心に何が起こるのか。
ブラッド自身にも予想がつかない。
だからこそ精神侵入魔法を用いるのは避けたかった。
そうなると、古代魔法について情報を得るには、ニムーゲン博士を頼る以外の方法を考えなければいけない。
(王立アカデミーの職員が毎日押しかけてくると言っていたな。となると、そいつらはこの村に留まっているのか?)
古代魔法研究所の資料を欲しがっている連中なら、専門家のニムーゲン博士ほどではなくとも、古代魔法に関する知識を有しているかもしれない。
レイブンが毛嫌いしている相手だが、情報を引き出すだけなら善人だろうが悪人だろうがどうだっていい。
(ひとまず王立アカデミーの職員を当たってみるか)
◇◇◇
宿までは、レイブンが案内してくれるという。
彼も夕飯の食材を買うため、村の中心地で開かれている市場へ行くつもりだったらしい。
ブラッドとヴァルブルガ、それにレイブンの三人は、古代魔法研究所から市場へ続く坂道をのんびり下っていった。
レイブンは食材を入れるためのカゴを、ぶらぶらと揺らしている。
カゴは明らかに女性物だ。おそらく生前はニムーゲン博士の奥さんが愛用していたのだろう。
「食事の支度も君が一人でやっているのか?」
なんとなくそう尋ねると、当たり前の質問を投げつけるなよとでも言いたげな視線が返ってきた。
「あの研究所で動けるのは俺だけなんだから。炊事、家事、洗濯、全部一人でやるしかねえじゃん」
「大変だろう」
「まあね。一日中、時間に追われてる感じ。でも暇があったところで、ニムーゲン博士があの調子じゃ話し相手さえいねえし」
苛立ちをぶつけるように小石を蹴ったレイブンは、むっつりとした顔のまま坂の上を振り返った。
ヴァルブルガはレイブンを真似て、小石を蹴ろうとしては失敗している。
「……ニムーゲン博士の奴、あんな腑抜けた爺になりやがって……。本当のニムーゲン博士はめちゃくちゃ毒舌家で、ああ言えばこう言う糞爺だったんだぜ。ニムーゲン博士の悪態に、倍返ししてやるのが俺の楽しみだったのに。毎日張り合いがなくてクソむかつく……」
そう毒づくレイブン本人も相当口が悪いが、愛情の裏返しなのはわかりきっている。
レイブンはきっとこうやって、ニムーゲン博士と意思疎通が図れなくなった寂しさを、なんとか紛らわせてきたのだろう。
しばらく無言で歩いていると、坂が終わり、その先に賑わった通りが姿を現した。
舗装もされていないでこぼこ道だが、市が立っているからか、小さな村にしては驚くほどの活気がある。
とくに数軒の屋台が立ち並ぶマーケットの辺りは、夕食を買い求める客で賑わっていた。
それぞれの屋台からは香ばしい匂いが漂い、食欲をそそられた人々が歩みを止めて覗き込んでいる。
そんな客に声をかける商人の声が、夜の空に響き渡る。
「田舎の村らしくないって思ってんだろ? 顔に出てるぜ、おっさん。この村では夕方から夜にかけた三時間しか市が立たないから、村人が総出で殺到するんだ」
珍しいシステムだが、理にかなっている。
三時間だけ店番をすればいいのなら、日中は別の仕事に精を出せる。
「ニムーゲン博士がこの営業方法を村長に提案したって話。ま、どうでもいいけど」
そんなふうに言いながらも、レイブンはどこか誇らしげだ。
「そこの路地を入って、突き当りを右に曲がれば宿屋の前に出る。村に一軒しかないから間違えねえだろ」
「案内助かった」
「ふん」
照れ臭そうに鼻を鳴らしたレイブンが向かいの屋台に向かっていく。
ブラッドとヴァルブルガはそのまま教えられた路地を曲がろうとした。
レイブンの怒鳴り声が聞こえたのは、その直後だった。
「うっせえな、オバさん! 何年前の話してんだよ、タコが! 今は俺だって客なんだから、グチグチ言わないで黙って接客しろってんだよ!!」
「わあ。レイブンおにいちゃん、ぷんぷんだよ!」
あんぐりと口を開けたヴァルブルガが、ブラッドの裾を引っ張ってくる。
どうやらレイブンは屋台の商人と揉めているらしい。
「ね、ね! だいじょうぶかな! 見に行こうよ、ブラッド!」
「わかったから引っ張るな」
あまり首は突っ込みたくないが、レイブンにはここまで案内してもらった借りがある。
ブラッドはヴァルブルガにせっつかれながらも様子見に戻った。
ブラッドたちが引き返したときには、すでにレイブンは買い物を終えて立ち去るところだった。
マーケットから離れていく後ろ姿を見ただけでも、レイブンが憤慨しているのがわかる。
「ね! ね! レイブンおにいちゃんとケンカしてた?」
レイブンと揉めていた商人に、ヴァルブルガがストレートな質問をぶつける。
商人は、尖った鷲鼻と尖った顎が特徴的な四十代の女性だった。
「なんだい、あんたら。見ない顔だね。レイブンの知り合いかい?」
商人は細い眉を持ち上げると、ブラッドたちを不躾な視線で観察してきた。
かなり警戒心の強いタイプのようだ。
「俺たちは古代魔法研究所に用事があって村を訪れた旅の者だ。レイブンと口論していたみたいだが?」
屋台に並んだ商品をそれとなく眺めながら尋ねる。
岩魚や、鮭、鱒など、どれも新鮮でイキがいい。
村の近くには水の綺麗な川があるのだろう。
「うわあ、おさかな、ぴちぴち!」
魚の並ぶ棚を覗き込んだヴァルブルガは、完全に気を取られている。
「お嬢ちゃん、触ったりしないでおくれよ」
「うん! 見てるだけ!」
「やれやれ、大丈夫かねえ……。子供は何しでかすかわからなくて、ほんと苦手だよ……」
「だからレイブンとも揉めたのか?」
「別に揉めてたってほどじゃ……。ほら、あの子はニムーゲン博士に拾われる前、かなり手癖が悪かっただろ? うちも散々被害に遭ったからさ。ついポロッと『今日は買い物する金を持ってるんだろうね』って言っちゃったのさ」
女商人はばつが悪かったのか、言いわけをするような口調で続けた。
「本気で疑ってたわけじゃないよ。挨拶代わりの厭味みたいなもんでね」
「ニムーゲン博士に拾われた?」
「なんだい、知らないのかい? レイブンは通りがかりの旅団から脱走して村に居座るようになった孤児なんだよ。しばらく橋の下で暮らしてたんだけど、盗みを働くは、襲い掛かるは、とにかく問題ばかり起こす子供でねえ……。ニムーゲン博士夫婦もよくあんな子を拾ったもんだ。夫婦が引き取らなけりゃ、強制的に救貧院送りになっていたはずさ」
救貧院はかなり劣悪な環境にあり、幼い子供が生き延びるのはかなり難しいとされている。
レイブンにとって、ニムーゲン博士夫婦は命の恩人だったわけだ。
今のレイブンが悪態で本音を隠しながらも、誠心誠意ニムーゲン博士の面倒を見ているのは、そんな恩を感じているからなのかもしれない。
「むっ? クンクン……。……なんか……おいしそうなにおいする……。……! パン屋さんだぁ!」
気づけば魚を眺めていたはずのヴァルブルガが、パンの並ぶ屋台に向かって駆け出そうとしていた。
「おい、こら。勝手に動き回るな」
マーケットには子供の目を引くものが山ほどある。
ブラッドは物欲しそうにしているヴァルブルガの首根っこを掴むと、そのまま宿屋へと急いだ。
◇◇◇
宿屋『時忘れ亭』は、マーケットの立つ本通りから二本路地を隔てた場所にあった。
レイブンによると村には一軒しか宿屋がないらしいので、王立アカデミーの職員もこの宿に滞在しているはずだ。
宿の亭主は、ブラッドとヴァルブルガを一目見るなり、当然のように親子だと勘違いしたが、乗合馬車の時とは違い、ブラッドも素知らぬ顔でやり過ごした。
意味もなく赤の他人に真実を知らせる必要はない。
親子でないならどういう関係かと尋ねられるに決まっているし、人攫いだと勘違いされて厄介事に巻き込まれれば、復讐の時はますます遠のく。
ヴァルブルガと親子扱いされるのは不愉快極まりないが、我慢してやり過ごすべきだろう。
もちろん気持ちの面まで割りきれているわけではない。
ブラッドにとって、『父親』という言葉は特別な意味を持つ。
これまでその言葉のおかげで、数えきれないほどの幸せを感じさせてもらった。
だからどうしようもないぐらいやるせなくなる。
ヴァルブルガの父親のふりをするほど、とても大切にしてきた尊いものを、自らの手で汚しているような気にさせられるのだ。
それでも内心を態度に出さないぐらいには、ブラッドは十分年を取っていた。
「亭主、この宿には、王立アカデミーの職員も滞在しているんだろう?」
差し出された台帳に記名しながら、さりげない口調で訊ねる。
喋り好きらしい亭主は、職員について知っている内容を、ペラペラと話してくれた。
「もう二十日ほど連泊されてるね。なんでも古代魔法研究所関係の仕事でお越しとか。今日もだけど、日中はだいたい出かけてるよ。十八時には必ず帰ってくるがね。いつもあの隅の席で、食事をとりながら愚痴っててねえ。なんでも目的を達成しないと、アカデミーに帰れないんだとかなんとか。まあ、宿代はしっかり払ってくれるんで、うちとしては文句はないけどね」
ブラッドは頷きながら、時計を確認した。
現在十七時。
職員たちが戻ってくるまで、まだ一時間ほど余裕がある。
◇◇◇
宿屋の二階、ブラッドたちに提供された部屋の窓からは、夜の村が一望できた。
ぽつりぽつりと点在する家々の明かりの先、遠くの丘は月明かりによって銀色に染まっている。
微かに聞こえるのはフクロウの鳴き声だろう。
風が穏やかに吹き、葉がささやくように揺れている。
村全体が、穏やかな夜の一時を静かに楽しんでいるようだ。
窓際に立って景色を眺めていたブラッドは、平和な世界から目を逸らすように室内を振り返った。
ありふれた宿屋の一室だ。
家具は最低限しか揃えられていない。
薄手のキルトがかけられた寝台と、中央に設置された木製のテーブル。
それから素朴なデザインの二脚の椅子。
扉脇には頑丈な木製の箪笥があり、野花の活けた花瓶が飾られていた。
他に装飾品は見られない。
清潔だがどことなく素っ気ない印象を与える部屋だ。
この無駄のない雰囲気は、ブラッドにとって好ましいものだった。
そんな部屋の中、丸テーブルについたヴァルブルガは、夢中で夕食を食べている。
「もぐもぐ……おいしい……もぐもぐ」
ブラッドの立っている場所からはヴァルブルガの後ろ姿しか見えないが、声や動作からヴァルブルガが食事を楽しんでいるのが伝わってきた。
テーブルの上に載っているのは、ヴァルブルガの分の夕食だけだ。
ブラッドはこの後、階下の食堂で一人、食事を摂るつもりでいた。
ヴァルブルガと同行するようになってから数日経つが、ブラッドは一度もヴァルブルガと食事をともにしていない。
物を食べるというのは非常にプライベートな行為だし、気を許していない者と、そんな瞬間を分かち合いたくなどなかった。
ヴァルブルガとはできる限り距離を置いておきたいし、関わる時間も最低限にしたいのだ。
そんなふうに考えていると、不意にヴァルブルガが静かになった。
食べ終わるにしては早すぎる。
視線を向けると、フォークを握ったままのヴァルブルガがこちらを振り返っていた。
「ね、ね! どうして食べない?」
上目遣いで訊ねてくる。
「ごはんおいしいよ? これ半分こしよ?」
子供のくせにどうやら気を遣っているらしい。
ヴァルブルガは小柄なわりに食い意地が張っている。
本当だったら全部自分一人で食べたいに決まっている。
「無駄口を叩くな。さっさと食べろ」
「うう……」
突っぱねられたヴァルブルガは、しょんぼりと肩を落として食事に戻った。
さきほどまでと比べて明らかに静かだし、元気もない。
これではまるでいい大人が、子供を虐めているみたいではないか。
罪悪感を抱きかけたブラッドは、大きく息を吐きながら頭を振った。
(くだらない同情などするな。こいつは子供に擬態した化け物のような存在だ)
必死で自分に言い聞かせる。
それからしばらくの間、息が詰まるような時間が続き、ようやくヴァルブルガの食事が終わった。
室内の柱時計を確認すると、十九時過ぎ。
亭主の話によると、そろそろアカデミーの職員たちが戻ってくる頃だ。
宿の出入り口は、到着後すぐに確認しておいた。
外に出る方法は、一階にある表扉を使うか、裏戸を潜るかの二通りだ。
どちらを使うにしても、一階へ続く階段を降りなければならない。
階段から目を離さなければ、万が一ヴァルブルガが脱走しようとしても阻める。
「階下で情報を集めてくる。おまえはここでおとなしくしていろ」
そう伝えたブラッドは、ヴァルブルガが答えるより先に部屋を抜け出した。
少しの時間でもヴァルブルガと離れられるのはありがたい。
そう思うぐらい、ブラッドはヴァルブルガの存在を持て余していたのだ。
本日、まだまだ更新します。
「続きが気になる」「早く更新しろ」などと思ってくださいましたら、
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