愛娘とよく似た少女
世界平和推進結社本部の最上階である六階は、立ち入り禁止区域とされている。
出入りできるのは、代表であるヴァルブルガと限られた幹部だけだ。
ただしブラッドはヴァルブルガに呼び出されて、何度かこの階を訪れた経験があった。
そんな扱いは特例中の特例だ。
ヴァルブルガはとにかくブラッドを特別扱いしていた。
ブラッドは抜きん出て能力が高いため、難易度の高い任務でも難なくこなしてみせるし、どんなにえげつない命令でも、決して嫌がったりはせず、ヴァルブルガの求めに応じた。
ヴァルブルガにとっては、とにかく頼りになる男だったのだ。
だからヴァルブルガは、どうしてもブラッドを手放したくなかった。
しかしブラッドのほうは、ヴァルブルガに対してなんの思い入れも抱いていなかった。
そのせいで事故の後、世界平和推進結社やヴァルブルガとの繋がりをあっさりと捨てた。
「ここを出て行く時、二度と戻らないつもりだったのにな」
長い廊下をじっと見つめながら、ブラッドは独り言を呟いた。
靴音を吸収するほど厚い絨毯の敷かれた廊下の先、突き当たりがヴァルブルガの私室だ。
ブラッドは真っ直ぐにヴァルブルガのもとを目指した。
阻む者はもう誰もいない。
部屋の入口に立ったブラッドは、静かに扉を見上げた。
重厚な作りをした観音開きの扉には、組織の象徴である蛇と獅子が彫り込まれている。
手を掲げると、痺れるような魔力が扉から伝わってきた。
この扉は強力な魔法によって、常に施錠されているのだ。
普段はノックをして呼びかけ、内側から鍵を解除してもらう決まりになっている。
もちろん、もうそんな許可など取る必要はない。
「【滅砕】」
ブラッドは掲げた掌から爆発魔法を発動させ、扉を勢いよく吹き飛ばした。
沸き起こった風に包まれたまま、室内に入っていく。
ヴァルブルガはいつもの席にはいなかった。
(あの女……。この期に及んで、見苦しく逃げ出したのか?)
眉間に皺を寄せ、室内を見回すと、執務机の裏から微かな物音がした。
目を細めて視線を向ける。
再び衣擦れのような音が聞こえてきた。
ブラッドは間合いをある程度取ったまま、執務机の後ろに回り込んだ。
そこで目にしたものは――。
「……は?」
思わず間の抜けた声が漏れてしまった。
執務机の裏には、予想もしなかった光景が広がっていたからだ。
床に散らばった何枚もの布。
その中央には、布に埋もれるようにしてぺたりと座り込んだ幼い少女がいる。
ブラッドは呆然としながら、少女の姿を眺めた。
そのすべてに、ブラッドが捜していた人物の面影が滲んでいた。
ふわふわとした腰までの長い髪、頭の上の二つのお団子。
世界を冷ややかな心で監視しているような瞳。
皮肉ばかりを口にしそうな唇。
完璧に整った容姿はどこか人形っぽくもあり、生きた人間というよりは無機物のような気配を放っている。
間違いなく特徴はヴァルブルガのものだ。
だが本来のヴァルブルガは二十代前半の成人女性である。
それに対して、目の前の少女は四歳かそこらにしか見えない。
真っ先に頭に浮かんだのは、ヴァルブルガが自分とよく似た少女を身代わりに残し、逃走を図ったという可能性だ。
そんな小細工をしても大した時間稼ぎにはならないし、だいたい身代わりにするのなら同じ年頃の影武者を用意するはずだ。
それでもブラッドは念のため、少女に向かって『スキャン』の魔法を発動させ、彼女の魔力オーラを読み取ってみた。
少女から溢れ出ている魔力は、間違いなくヴァルブルガのものだった。
魔力オーラは千差万別で、他者と被ることは絶対にない。
この事実から、目の前の少女はヴァルブルガ本人だと断言できたわけだ。
しかしヴァルブルガはなぜ、少女の姿になったのか。
それにどうやって?
(まさか……若返りの魔法を使ったのか?)
ブラッドは我が目を疑いながら少女を眺めた。
古代魔法の一つである若返りの魔法は、百年前、禁忌扱いとなって使用が禁止され、滅びたとされている。
それでも禁断の古代魔法に興味を示すものは、後を絶たない。
ヴァルブルガもその一人だった。
(ヴァルブルガが密かに古代魔法に関する情報を集めているのは知っていたが、実際に、発動させられるほどの知識を得ていたとはな……)
にわかには信じがたいが、状況から考えて、若返りの古代魔法を習得した確率が最も高かった。
ヴァルブルガは、強力な魔法の使い手だ。
本人が実戦の場に出ていくことは皆無だったため、真の実力を知る者はいないが、相当な能力者であるのは間違いない。
知識さえあれば古代魔法を扱うことも可能なはずだが、禁忌の魔法を使用した事実が発覚すれば、逮捕は免れない。
場合によっては、処刑される可能性も十分にある。
それでもヴァルブルガならやりかねないと思えた。
ヴァルブルガは、目的のためには手段を選ばない類の人間なのだ。
問題なのはなんの目的があって、禁忌魔法に手を出し、若返りをはかったのか。
「……」
嫌な予感がブラッドの脳裏に浮かぶ。
「貴様……」
掠れた声で呼びかける。
それに反応して、ヴァルブルガがゆっくりとこちらを振り返る。
幼く無垢な瞳と目が合ったその瞬間――。
事故死した自分の娘とヴァルブルガの姿が重なり、ブラッドは目眩を覚えた。
慌ててかぶりを振り、幻影を払う。
(やはりこいつの狙いは……!)
先ほど浮かんだ予感が、確信に変わる。
同時にブラッドの内面には、これまでで最も激しい怒りが沸き起こった。
ブラッドは衝動的に、小さなヴァルブルガの首を掴むと宙づりにした。
ヴァルブルガの体にまとわりついている布が、肩に引っかかった状態でぶら下がる。
そこではじめて、布に見覚えがあると気づいた。
ブラッドが布だと思っていたのは、世界平和推進結社代表であるヴァルブルガが、職務中、いつも身に纏っていた制服だった。
大人用の衣服を着たまま、子供の体になったから、ぶかぶかの布の海に沈むことになったわけだ。
この状況は、ヴァルブルガが直前まで大人だった事実を証明してもいた。
恐らくヴァルブルガは、ブラッドが現れるのを見越して、急いで魔法を発動させたのだろう。
「ふざけた真似を……」
ヴァルブルガは、ブラッドの亡き娘と同じ年頃になることで、ブラッドの良心を利用しようと目論んだのではないか。
ブラッドはそう疑っていた。
――愛娘の面影と重なる少女を、ブラッドは殺せない――
咄嗟にそんな期待を抱いたのかもしれないが、浅はかなのもいいところだ。
娘への愛を利用され、ブラッドが許すはずもない。
「おまえは俺の逆鱗に触れた」
見開かれた瞳から、ヴァルブルガの恐怖が伝わってくる。
こんな表情を晒すヴァルブルガを見たのは初めてだ。
ブラッドはわずかに驚いたあと、嫌悪感を顕にした。
「この期に及んで同情心でも引こうと思ったのか? 見苦しい」
「……! ううっ……」
震える声を零したヴァルブルガの目に、涙が浮び上がった。
そして――。
「……びっエエエエエンンッ……!!」
信じられないことに、ヴァルブルガは赤ん坊のように泣きはじめた。
「なっ……」
さすがにブラッドも呆気にとられた。
拘束したままのヴァルブルガを呆然と眺める。
わんわんと泣き叫ぶ姿は、完全に幼児そのものだ。
「わーん!! 怒らないで……ごめんなさいするからっ……あーんあーん……!」
「お、おい、やめろ。おまえ、なんのつもり……」
「だれかわかんないけど、ごめんなさいいいいいい!!」
「誰かわからない、だと? ふざけるな。だいたいなんだ、その幼児のような口調は」
「なになに、わかんないよおおお! おぼえてないんだもん!!」
「覚えていない……? よくもそんな嘘をつけるな」
「ほんとだよおおおお!! あなただれ! ここどこ! 全部わかんない! うわあああん!」
「いい加減に……!」
「ごめんなさい!! ごめんなさい!! 許して!! うええんんんっっ!!」
「そんな言い逃れが通用すると思っているのか?」
「やだやだ食べないでええええっっ!!」
「食べ……? は? お、おい、何を言っている」
「ぴぎゃああんんっ!!」
ヴァルブルガは泣きながら首を振るばかり。
まともな会話が成り立たない。
「ちっ……」
頭痛を覚えながら、舌打ちをする。
相変わらずヴァルブルガは、えっぐえっぐと肩を揺らして泣いている。
その顔は涙とよだれでひどい有様だ。
(……にしても、さすがに妙だな)
ヴァルブルガは死にたくないからといって、ここまでの醜態を俺に晒すような人間ではない。
一抹の不安が過ぎる。
何もわからないという主張。幼児のような言動。
(まさか若返る際に、古代魔法の不具合でも起きたか……?)
古代魔法は現存する資料が極めて少なく、謎に満ちた存在なのだが、強力さゆえ、発動時に様々な弊害が伴った事実は判明している。
見た目を若返えらせる代償に、記憶まで子供の頃に戻ってしまったというのは十分考えられた。
「……」
ブラッドは目の前の状況に戸惑いながら、泣きじゃくるヴァルブルガを見下ろした。
ヴァルブルガが妻の殺害を命じた主犯なのは、ターセムの証言からもわかっている。
(こいつはルクスの仇だ)
だから躊躇うことはない。
今すぐ命を奪って復讐を成し遂げるべきだ。
「【黒焔】」
ブラッドはこれまで同様、右手に火魔法を発動させた。
掌の上で、復讐の業火が激しく燃え上がる。
ヴァルブルガは泣き疲れて呆然としたまま、逃げようともしない。
その小さな体目掛けて、魔法を放とうとした瞬間――。
ブラッドの心に微かな疑問が湧き起こった。
(――ここで殺してしまって本当にいいのか?)
もし記憶障害を負っているという仮説が正しかった場合、ヴァルブルガはわけもわからず死ぬだけだ。
それでは不十分だと感じた。
どうしても、妻ルクスの命を奪った罪を後悔させ、許しを乞わせてやりたい。
そうでなければルクスの魂だって浮かばれないはずだ。
ブラッドは拳をグッと握りしめたまま考え込んだ。
高レベルの魔法鑑定士であれば、ヴァルブルガの記憶に古代魔法発動の影響が出ているかどうかを調べられる。
記憶喪失が嘘であれば、間違いなく暴かれるはずだ。
幸い手を貸してくれそうな魔法鑑定士の当てはある。
しばらく悩んだ後、ブラッドは深い息を吐いた。
(こんな奴はいつでも殺せる。事実を暴くまで、もう少しだけ生かしておくか)
そう決めたブラッドは、身に纏っている布ごとヴァルブルガを持ち上げると、荷物のような扱いで、その小さな体を肩に背負った。
突然抱えられたせいで、再び猛烈な恐怖を感じたらしく、ヴァルブルガがまたワンワンと泣きはじめる。
暴れて両手足をバタバタ動かしているが、当然なんの効果もない。
ブラッドはヴァルブルガの行動を一切無視して、窓際へと近づいた。
いつの間にか降り始めた雨が、窓に弾けて流れ落ちている。
雨粒に濡らされたニーダベルクの街は、すっかり眠りについていた。
今しがた一人の男の手で大量殺戮が行われたことなど、微塵も感じさせない静かな夜だ。
そのままヴァルブルガを連れて塔から脱出しようとしたところで、ふと背後に気配を感じた。
「……!」
ヴァルブルガを抱えたままサッと身を屈めて、飛んできた何かをかわす。
ブラッドの頭上を高速ですり抜け、持ち主のもとへ戻っていったのは、円盤型の刃だ。
「こんなもので俺が殺れると思ったのか?」
問いかけながら、振り返る。
ブラッドが視線を向けた先、部屋の中心部には光輝く魔法陣が浮き上がっていた。
その中にうっすらと人型の影が揺れている。
あれはこの本部塔に設置されている魔法転移装置だ。
魔法転移装置とは、指定された場所同士を魔法回路で結ぶ魔道具のひとつだ。
この魔法転移装置を使えば、遠い距離でも瞬時に移動ができる。
しかし魔法転移装置の使用には国の認可が必要で、現在のウィンドリア王国では、世界平和推進結社の塔に三台、王都の城に一台、そして国境の要塞に一台という計五台しか稼働していない。
魔法転移装置は非常に便利な魔道具だが、国側も扱いには慎重にならざるを得なかった。
移動距離が長いほど、転移する人体への負担が増し、移動者の寿命に影響を及ぼすとわかっているからだ。
そのため世界平和推進結社でも、緊急時以外での使用は固く禁じられていた。
今、魔法転移装置の中から現れた人物は、寿命を削ってでも、この本部塔に駆けつけなければいけないと考えたのだろう。
「――ブラッディ・ハウンド。今すぐヴァルブルガ代表を解放しろ」
魔法陣の中から現れた女が、熱を感じさせない口調で伝えてくる。
それでもブラッドにはわかった。
女は明らかに静かな怒りを胸の内に宿らせていると。
女の名前は、ムーム・ラヴィナス。
年は二十代半ば。
太ももまでの丈の灰色のワンピースと、ロングブーツ、黒のジャケットはすべて、世界平和推進結社の女性幹部用の制服だ。
ワンピースの襟元は第一ボタンまでしっかりと留めているのに、ジャケットは肩らからずり落ちている。短い銀色の髪はところどころ長さが違い、やけにアンバランスだ。
生真面目なのか堕落しているのかわからない宙ぶらりんな感じは、ムーム・ラヴィナスの本質を現していた。
そのうえ、感情の宿らない眠たげな瞳や、細く高い鼻は少年的なのに、ワンピースの胸元を膨らませている鳩胸は、邪魔なのではないかと思うぐらい大きい。
ムーム・ラヴィナスは、とにかく不安定な印象を与える奇妙な人物なのだ。
にもかかわらず、ムーム・ラヴィナスは、先ほどブラッドに殺害されたターセム・フェイン同様、ヴァルブルガ代表の右腕として信頼されていた。
掴みどころのないムーム・ラヴィナスだが、一つだけ揺るぎない一面がある。
ムーム・ラヴィナスは、世界平和推進結社とヴァルブルガを誰よりも崇拝しているのだ。
ヴァルブルガと組織のためなら、ムーム・ラヴィナスは命だってあっさり投げ出すだろう。
つまり、ムーム・ラヴィナスの特別な地位は、忠誠心への評価から与えられたようなものなのだ。
「魔法転移装置を使って移動してくるなんて、判断を誤ったな。おまえが現れたところで何ができると思った?」
「こちらの問いに答えろ。なぜこの本部塔を襲撃などしたのだ」
ムーム・ラヴィナスはすでにこの塔の中で何が起こったかを把握しているらしい。
(本部塔にいた誰か――ターセム・フェイン辺りが、緊急用の魔法通報装置を作動して、支部に助けを求めたか)
ムーム・ラヴィナスが、少女になったヴァルブルガを見ても動じなかったのは、通信装置を使って、塔内部の様子を確認していたからだろうか。
「ブラッディ・ハウンド、どうして黙っている」
「世界平和推進結社の思想に毒されているおまえには、俺の動機など理解できないと思っているからだ。おまえも、世界平和推進結社のためならば、何もかもを犠牲にして構わないと考えているのだろう?」
「愚問だな。世界平和のためには、すべてが擲たれるべきである」
相変わらず無表情だが、ムーム・ラヴィナスは明らかに苛立っている。
表に出すことが少ないムーム・ラヴィナスの感情を、ブラッドが見逃さなかったのは、結社在籍時代、長い時間を共に過ごしたからだ。
ムーム・ラヴィナスが結社に入った当初から約半年間、彼女はブラッドの直下で働いていた。
ムーム・ラヴィナスに戦闘方法を一から十まで教えたのがブラッドだ。
さらにその後の二年、二人はバディを組んでもいた。
「ブラッディ・ハウンド。我が師匠。尊敬していたのに……。貴様には失望した」
敢えてそう口にしたのは、師匠であるブラッドに対して決別宣言をしておきたかったからだろう。
ムーム・ラヴィナス崇拝する相手はヴァルブルガただ一人だったが、師匠であるブラッドも尊敬する対象ではあったらしく、仕事で絡む際はわかりやすく機嫌がよくなった。
彼女は、その他の結社関係者には決して心を開かなかったため、ヴァルブルガには及ばずとも、ブラッドもかなり特別扱いされていたといえる。
自分が育て上げた部下であり、一時は背中を預けた相手でもあるから、ブラッド自身もそれ相応の親しみを感じてはいたが、ムーム・ラヴィナスが示す極端な結社至上主義には、最初から最後まで理解を示せなかった。
今振り返れば、わかり合えない者同士だ。
こうして道が分かたれる結果になるのも、当然だったのかもしれない。
「ムーム。今回一度だけおまえを見逃す。しかしこれから先、俺の復讐を妨げるのであれば、おまえでも容赦はしない。覚えておけ」
「復讐……? なんのことだ?」
ムーム・ラヴィナスが怪訝そうに眉を寄せる。
ターセム・フェインが言い逃れをしようとした時とは様子がまるで違う。
彼女は本当に、復讐の意味を知らないのだ。
魔法転移装置を使わなければ駆けつけられなかったように、ムーム・ラヴィナスは普段、遠方の支部にいる。
ブラッドは妻ルクスの殺害に関わった人間をすべて割り出してから本部塔を襲撃したため、ムーム・ラヴィナスが事件に関与していない事実をしっかり把握していた。
「おい、ブラッディ・ハウンド。答えろ。復讐とは――」
ムーム・ラヴィナスが問いかけながら一歩踏み出した直後。
コートの裾を翻して踵を返したブラッドは、拳で窓ガラスを叩き割ると、ヴァルブルガを抱えたまま、塔の外、雨が降りしきる宵闇の中へ飛び降りた。
本部塔の部屋が視界から消える直前、ブラッドが目にしたのは、珍しく感情を剥き出しにしたムーム・ラヴィナスの泣き出しそうな顔だった――。
本日、まだまだ更新します。
「続きが気になる」「早く更新しろ」などと思ってくださいましたら、
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