思いやりの抱卵期
ラストに希望があるから、頑張って読むんだぞ
彼と出会って2度目でようやく、私は気付いた。
私は、自分の頭の出来方を、複雑に思う。
いま、初めての要件で市役所に来ている私と、ここに通い続けている彼の違いは、くっきりと際立つ。
ーー私と、彼はこんなに違うんだ。でも、私だって辛かった……、苦しい人生だった。
「オリーブでできたしょうひん、いかがですかー!」
彼は、それはもう、大声で。
市役所の中で、固い受け付けカウンターの斜め前で、そう叫んでいる。
ウロウロと、カウンターの前の通路を歩きながら。
そこに商店など、今は開かれていないのに。
「オリーブでできた、しょうひんいかがですかー!!」
邪気なく、楽しそうに、二十代後半ぐらいの、小太りで低身長、幼い顔つきの彼は、叫び続ける。
市役所の障害者支援受け付けのカウンターの、側で。
*****
ーー初めて彼と出会ったのは、私が市役所に些事な申し込みをするための書式を取りに行った時だった。
奥の方にある、障害者支援受け付けのカウンターの場所を、私は入り口の受け付けの人に聞いて目指していた。
その通路の横に、小さな雑貨類を扱う商店が出ていて、私は一瞬『何でこんな所に変な店が有るのか』と訝しく、ちょっと厄介に思った。
けれど、商店の前まで来ると、私はようやく、その店の存在意義が解った。
そして同時に、厄介に思ってしまった自分の考え方に、嫌気がさした。
商店ののぼりには『発達障がい者支援』と書いてあり、数人いる店員は一人の監督者を除き、皆、神経発達症患者ーー発達障害者ーーであることに、私は気付いたからだった。
ーーわたし、いま、差別したんだ。狭量で浅はか過ぎる、ふつう察するよね……。
商店の中で、男性店員の一人がマスクを付けてスマートフォンの画面に釘付けになり、何か夢中にゲームをしているようだった。
接客中だというのに。
私が書式を貰い、来た通路を引き返そうとしたとき、ゲームをしていた男性店員が急に立ち上がり、突然大声で叫びはじめた。
「オリーブでできたしょうひん、いかがですかー!!」
私は思わず、耳を覆って下を向いて早足で通路をやりすごそうとしてしまった。
ーー解ってる、解ってるよ、でも私には無理ーー
市役所の中のその商店の品物は、全部彼ら神経発達症の方々の手作りなんだ。生きにくいなか、皆がんばって働いて、接客の場にもちゃんと出ていて。
彼らは偉い、偉いんだ、だから、私の方が酷い奴で、彼らはずっと、うんと、しっかりしている、私なんかより優れている、社会性を育んで市役所にいるんだもの。
ーー解ってる、けどさ……!
「私だって辛いんだよ」
市役所を出ると、私は思わず独り言ちた。
私の手には、自ら準備したファイルにきっちり入れられた『精神障害者手帳申請書』と『自立支援申し込み書』の二つの書類が入っていた。
わたし、私も。
「知的障害がないと、障害者手帳も違っちゃうんだね、私はーー」
私は、重度の抑うつと不眠症を発症してしまって五年がたつ、現在無職の。
「大人の発達障害……自閉スペクトラム症……」
知的障害のない、神経発達症の当事者なのだった。
*****
私は、対人関係が酷く苦手だった。
穏やかで自由な校風の進学特化の高校に通うまで、公立の義務教育の学校では、とにかく対人関係でトラブルを起こし、私は虐め抜かれてきた。
テストの点数だけは高かったけれど、体育でグループに別れて他者と一緒に何かを行わなければいけないような場面では、それはもう生徒にも教師にも嫌な顔をされ、常に罵声を浴びせられていた。
体罰紛いの扱いも、しょっちゅうあった。
勉強だけやって、スポーツで手を抜く最低な、高慢ちきな女ーー、そんな風に私は誰からも思われていた。
ーー違うのに。
私は、正直中学までの勉強は絵本をパラパラするみたいに、簡単に、努力も要らず自然と出来てしまう、そんな可愛げのない、鼻持ちならない学童だった。
そのかわりなのか、なんなのか。
対人関係、グループ活動、体育の運動が絶望的に、出来なかった。
皆が私に怒っていた。
『テストだけでなく、社会的な事も努力してちゃんと頑張れ、いい気になるな、対人関係の重要さを何故理解しようとしない、ふざけるな!』等と言われ、完全に孤立していた。
生徒たちは、私で憂さ晴らしをするようになっていき、教師は『それで当たり前』だと言うように、私への虐めをむしろ先導していった。
私は、自分の殻に完全に閉じ籠った。人間なんか、皆みんな、だいっきらい。
初潮が訪れた時、私は私の卵の素を製造する部分に強く言い聞かせるように、自身の下腹部を殴り付けた。
ーー出てこようと思ったら、だめ。出てきたら地獄しかないんだから、あなたはずっと、孵ろうとしては、駄目、ぜったいに、だめ……!
あれは、中学一年の時だったか。
私は、母親という存在そのものを気持ち悪く思い、母親である人間、母親になろうとする人間を心の底から、完全に否定しきった。
我が子に生き地獄を味わわせるため子を産み育てる『親』なんて存在は、いてはいけない。
本当に、真剣に、私はそう思ってしまった。
進学校では、虐めは一切なかったが、やっぱり友人らしい友人は出来なかった。人と喋らなければいけない、と考えると、それだけで頭がガンガン痛んだのだ。
ーー私は。独りがいい。
独りでいると、どうしようも無いほど、楽なのだった。正直、独りでいることが、独りでいても良い環境が、私を救ってくれていた。
私は、そのまま、偏差値の高い大学へと進学し、研究の日々に胸を踊らせながら地元の成人式や同窓会に欠席し、充実した学生生活を送った。
私の論文は、多くの分野でその着想と文章の巧みさで褒められた。的確で、かつ、鋭利な切り口の参考文献を収集出来る能力も、評価された。
私に問題が起きたのは、就職活動の時だった。単位もとってあり、卒業論文にも十分な文量で臨んでいて、あとは何処かから内定を受けるだけ、という状態で挑んだ就職活動。
筆記試験など、勉強しなくとも少しそれ用の本をめくれば、私なら出来てしまう。
ーーの、だが。
何故だか、私は、面接になかなか進めなかった。
違和感が私を襲った。おかしい。
筆記試験をクリアしても、集団面接で私は何故かその場の反感を買った。
他の就職活動生の発言内容を批判し、正しく論を展開させた筈なのに、面接官はギロリと私を睨み付け、他の就職活動生の方を庇い、その場の色調を変えようとしてくる。
私には話題が振られなくなる。
ーーおかしい。おかしい!
私はきちんと論を展開している筈なのに、不採用通知書ばかりが届く。
……奮闘するも、私は遂にどこの会社からも内定を貰う事が出来なかったのだった。
ーーそして、派遣会社になんとか仕事を貰い、しかし、複数派遣された先でやはり対人関係で直ぐにトラブルが起き、そんな事を続けているとーー
私は25才で、重度の抑うつと不眠症を発症してしまった。
そこから、精神科へ通う日々がはじまり。両親から責め立てられて。
どうして自分が上手くやれないのか、インターネットで初めて調べてみると『神経発達症(発達障害)』、が出てきた。
その中の、ASD(自閉スペクトラム症)の症状に自分が完全に当てはまり、私は大人の発達障害を看てくれる医院を探し出し、ASDの診断を受け取る事になったのだった。
*****
私は医師に診断書を書いて貰った書式をバッグに入れ、再び市役所を訪れていた。
これから『障害者手帳を貰う』という要件の為に、初めて私はこの場所を見る事になる。
今日は例の小さな商店は、市役所の通路に無かった。
ーーけれども。
「オリーブでできたしょうひん、いかがですかー!」
大声で叫ぶ男性店員の彼は、今日も市役所にいた。
ーーここに通い続けること、その事自体が、彼のルーティンになっちゃってるんだーー
店があろうと、無かろうと。
彼は、毎日ここに、決まった時間に出勤し、退勤していくのだろう。
「オリーブでできたしょうひん、いかがですかー!」
私が障害者手帳の申請をするためには、彼の前を横切らねばならない。
ーーわたしには、知的障害は無い、ADHDの症状もないーー
そして。なにより。
彼の持つ明るさが。私には、欠片もない……。
ASDとADHD。
療育手帳か精神障害者手帳か。
精神疾患があるのか、ないのか。
幼少期から神経発達症と判っていたか否か。
……私は、覚悟を決め、申請受付カウンターの方へのびる通路を歩きだす。
「オリーブでできたしょうひん」
「あの!」
私は、彼に話しかけた。
「ステキな商品なんですよね、私、知りたいです」
商店は、今日は市役所に開かれていない。けれども。
彼は、にっこり笑うと、卵の形の石鹸をズボンのポケットから出して私に向かって突きだし、私の手を無理やり開かせ、私の空いた掌の中に、それを握らせてきた。
「オリーブでできたしょうひん、いかがですかー!」
私の手に石鹸を渡してしまってからも、彼は市役所の通路を大声で叫びながら歩きだす。
ーーわたし。わたしは。
私は、初めて、今。『ひと』と接した。
ひとを思いやる心を、はじめて抱いた。
私は、周囲を気にせず泣き出した。
たまごの形をした石鹸を、握り締めながら。