16. 救いの歌声
マイヨール家から帰宅する馬車の中で、マグリットは一人考えていた。先程ロクサーヌに言われたことを。
彼女の兄、ヴィクトール・ノルモンドから明らかなアプローチを受けている事は事実であったし、そしてそれが恋慕の情などでは無い事も分かっていた。
それからヴィクトールは、何か政治的な思惑の為に彼は動いていて、どうやら妹のロクサーヌはそれを邪魔したいようだった。
さらに言うならば、お父様はこのヴィクトールからのアプローチを格上の公爵家と繋がりが持てると喜んでいるのだ。
様々な思惑が渦巻いていてマグリットは正直言って参っていたが、侯爵家の娘として何が最善なのかしっかりと考えなければならなかった。
そこに自分の気持ちは全くの置いてけぼりだったとしても。
考えがまとまらず憂鬱な気持ちで馬車の中から窓の外を眺めると、夕暮の刻で街は赤く染まっていた。何気なくぼんやりと外の様子を眺めていると、マグリットは行き交う人々の流れの奥に、人だかりを見つけたのだった。
「ねぇ、ここで止めて!家に帰る前に寄りたい所があるの。」
マグリットは急いで馬車を停めさせると、人だかりに向かって歩き出した。
あの人だかり、あの場所には、彼が居る。
そう確信して、マグリットはお付きの侍女も置き去りにして、一人でどんどん進んでいった。
そして程なくして夕方の鐘が鳴ると、それを合図にして噴水の前で彼の公演が始まったのだった。
ローランとのいざこざ直後に聴いた一回。
ガーデンパーティーで聴いた一回。
そして今、マグリットは三回目の彼の歌を聴いている。
一回目の時はマグリットに涙を流させて、二回目の時は彼女に笑顔を与えた。だからきっと今回も、彼の歌を聴いたら自分の中の何かが変わるような気がしていたのだ。
マグリットはこの吟遊詩人の不思議な歌声にすっかり魅了されていて、馬車の中から彼の姿を見かけただけで、思わず足を運んでいたのだった。
彼の歌に、無意識に救い求めていた。
半刻程の彼の演奏が終わり、聴衆の人々が散り散りに去っていく中で、マグリットだけはその場に止まっていた。
何故だか分からないが、その場から動けなかったのだ。
暫く真っ直ぐに彼のことを見つめていると、マグリットに気づいた詩人は彼女に歩み寄って来たのだった。
「こんな所に一人で来たのですか?御令嬢の貴女が。」
「近くに侍女が居るわ。それに王都は治安が良いから平気よ。」
「もう夕暮れです、すぐに暗くなる。一人で出歩くのは危険ですよ。」
詩人はマグリットが一人で居ることに驚いていた。マグリットは身分の高い侯爵家の令嬢なのに、それが供の者も付けずにこんな場所に居るなんて信じられないし、心配にもなるのだ。
一般的な正論で諭されてマグリットは少しバツが悪そうにしゅんと頭を下げたが、直ぐに顔を上げて、それでもここに来たかった理由を口にしたのだった。
「貴方の歌が、どうしてももう一度聞きたかったのよ。」
マグリットは真っ直ぐに詩人の目を見てそう伝えた。
「どうしてですか?」
「それは多分……私が迷っているから。」
「迷っている?何にです?」
「ごめんなさい、それは言えないわ。」
自分が何を迷っているかはハッキリと分かっている。ノルモンド公爵家のヴィクトールの企みに乗るかどうか、政略結婚の道を進めるかどうかだ。
でもそれを良くも知らない吟遊詩人に打ち明ける事は流石に出来なかった。
変わりにマグリットは、自分の胸の内を、もう少しだけ吟遊詩人に打ち明けたのだった。
「貴方の歌を初めて聞いた時、私は気持ちが救われたのよ。だから今も、私は貴方の歌を聴けば、何か救われるんじゃ無いかと思ったのよ。」
少しはにかみながら、マグリットはそう答えた。
そんな彼女の話を、吟遊詩人は何も言わずにマグリットの事をじっと見つめて黙って聞いていた。
そして彼女が伝えたい事を全て吐き出したのを見届けると、彼はマグリットに優しく問いかけたのだった。
「それで、私の歌はどうでしたか?」
「そうね、問題は解決しなかったけれども、でも、やはり貴方の歌を聞けて良かったわ。」
歌を聴いたからといってこの悩んでいる事に対して妙案が浮かんだ訳では無いが、けれどもマグリットはどこかすっきりとした笑顔でそう答えた。
それからマグリットは自分の胸の前に両手を当てると、凄く優しい表情で自分の気持ちを続けたのだった。
「心を揺さぶられる貴方の歌を聴くと、その事で頭の中が一杯になるの。だからその間は余計なこと何も考えないで居られるし、胸が暖かくなるのよ。私やっぱり、貴方の歌が好きだわ。」
真っ直ぐに慈しむ目を詩人に向けて、それから「あの日私を泣かせてから貴方の歌は私にとって特別なのよ」と付け加えて、マグリットはとても美しく笑った。
そして更に言葉を続けようとしたのだが、彼女は言葉を続けられなかった。マグリットは、この吟遊詩人の名前を知らなくて、彼にどう呼びかけたら良いのかが、咄嗟に分からなかったのだ。
「ところで貴方、名前はなんて仰るの?」
「……ミステリアスな雰囲気を保ちたいのでなるだけ名乗らないようにしてるんですが……。そうですね、ウィルとお呼び下さい。」
「ウィルって言うのね。中々良い名前ね。」
そしてマグリットは彼から名前を教えてもらうと、改めて彼に向き合って先程言いかけた言葉を続けた。
「有難う、ウィル。貴方の歌に、私はどうやらまた励まされたわ。」
マグリットはとても晴れ晴れとした顔でニッコリと笑って、ウィルに感謝の気持ちを伝えたのだった。
するとウィルはマグリットからの言葉に少し口元を綻ばせると、彼も嬉しそうにマグリットに言葉を返した。
「私の歌で、貴女の心を救えたのなら、それはとても光栄です。お望みならば、いつでも歌いますよ。」
自分の歌で誰かを救えたのなら彼にとってそんな素晴らしい事は他になかった。
歌を歌えば聴衆が集まるし、賞賛の声も沢山寄せられる。けれどもこのように、自分の歌がその人の心情に影響を与えてそれが良い方に作用したと、面と向かってお礼を言われたのは初めてで、ウィルはマグリットからの言葉が、心底嬉しかった。
「いつでも歌うのね?本当ね?約束よ?」
「はい、約束しましょう。」
それから彼はニッコリと微笑みかけると「自分の歌を必要としてくれる人が居るならば、私はどこへでも行って、なんでも歌いますよ」とマグリットに伝えたのだった。