5 もこもこの後に残るもの
お湯に少しつけて柔らかくしたチョコペンで、あたしは、電子レンジの中でもこもこと膨らんでくるのを見たときからずっと心に描いていた絵を、蒸しパンの上に描いた。
ビー玉みたいな真ん丸な目。いつもひんやりしていた、横長四角の鼻。にっこりしているみたいだった大きな口。
「コットン?」
陽ねえがそっと聞いてくれた。
「うん。そう」
「かわいい子だったんだね」
「うん」
あたしはスプーンを二つ持ってきた。
「陽ねえ、食べよう」
コットンの耳の辺りから、スプーンを差し込んで大きくすくった。口に入れた生地は、しゅわっと口の中の水分を吸い込みながらほどけていく。卵の香り、小麦粉の味。甘い砂糖の味。コットンの耳だったところの、チョコレートの味。いろんな味が溶けあって、口の中を通り過ぎていく。かすかに、ほんのりした苦みもあった。これが、陽ねえの言っていた炭酸ナトリウムの味だろうか。
陽ねえがちょっと心配そうに見ているのを承知で、あたしはもりもりと蒸しパンを食べた。コットンの目も、鼻も、あたしの口の中に消えていく。
ほかほかと温かい蒸しパンは、今まで食べたどんな蒸しパンよりもおいしかった。
あっという間に食べ終わったあたしを見て、陽ねえは聞いた。
「トモ、もう一個食べる? 作ろうか」
「うん、食べたい」
食べ終わったカップをもう一度使うために洗い始めた陽ねえに、蒸しパンを任せて、あたしは自分の部屋から一番大事にしているノートを持ってきた。
陽ねえが書いてくれた式や図を、一つずつ丁寧に、ノートに書き写していく。
「トモ、生地できたよ」
ちょうどノートが完成した頃、陽ねえが呼んだ。
「二個目はアレンジにしよう。トモ、何入れる?」
「何があるの?」
「甘党なら、あるものでいうとレーズン、板チョコの割ったの、甘納豆とかもいいね。しょっぱいのが食べたければ、ソーセージ、ミックスベジタブル」
「えー、そんなの、このケーキみたいな蒸しパンに合うの?」
「合うよ」
陽ねえは笑った。
「トモ、アメリカンドッグって食べたことない? ソーセージに、ドーナツの生地つけて揚げたみたいなやつ。組み合わせとしては絶対おいしい。ビールに合うはず」
「昼間からお酒は飲まないでしょ」
「トモの前ではね」
陽ねえは腕を組んだ。
「私は、しょっぱいほうにする。ハラペーニョもさっき見かけたよ。あれもちょっとだけ入れようっと」
パパがピザにのせるために買った、すっごく辛い唐辛子のピクルスだ。
「あたしもしょっぱいのにする。ハラペーニョは抜きで」
マグカップに入れた生地に、陽ねえが手際よく細かく切ってくれた具材を混ぜながら、あたしは陽ねえに聞いてみた。
「ねえ、お酒っておいしいの?」
「誰と何の話をしながら飲むかによるね」
陽ねえは笑った。それから、ちょっと真面目な顔になって言った。
「トモ、あんたの二十歳の誕生日は、パパとママとお祝いするでしょ、きっと。その次の日は、私が予約してもいい? 一緒に、お酒、飲もう。その時までには、私もさっき言ってた大失敗、ちゃんと緩めてほぐしてみせるからさ。そしたら、その大失敗を酒の肴にして飲もう。トモはこんな失敗するんじゃないよって、話してあげる」
「その話って、お酒、おいしくなるの?」
陽ねえは一瞬言葉に詰まった。
「ならないか」
陽ねえが大笑いしたので、つられてあたしも笑った。
「それでもさ、トモが二十歳になったら、お酒飲もう。もし体質が合わなかったら、お酒飲めなくてもいいから、ジンジャーエールとかで酔っぱらって、お菓子いっぱい並べて、女子会しよう。で、飲み物がおいしくなるおしゃべり、沢山しよう」
「いいね!」
あたしは嬉しくなった。
「大人になるの、楽しみになってきた」
「大人って、一晩でなるんじゃないんだよね。節目はあるけど、トモはもう、大人になる準備を沢山してる。こりゃあ、いい女になるぞお。私もうかうかしてらんないな」
陽ねえはふざけて言った。
その時、玄関でチャイムが鳴った。ぱっとインターホンに目をやる。ママだった。
「おかえり!」
あたしがすっ飛んで行って玄関を開けると、ママはびっくりしたように目を大きくした。
「ただいま。トモ、なんだか……なんか、いいにおいする。これ何?」
あたしはママの手をひっぱってキッチンへ連れて行った。
「陽ねえ特製のもこもこ蒸しパン! ママも食べる? 今作ってるんだ」
「あんたたち二人、本当に気が合うわよね。……陽世、急に頼んだのに、ありがとう」
「こっちこそ」
姉妹にしかわからない目くばせを交わしあってにっこりする二人に、あたしは腰に手を当てて言った。
「あたしは二個目の蒸しパン、早く食べたいな」
「あーあ、トモのそういうとこ、ほんとお子様だよね」
わざと呆れたように、大げさな口調で陽ねえがいう。こちらは、叔母と姪にしかわからない目くばせが飛んできて、あたしもにやっとした。
しょっぱい具の入った甘い蒸しパンは、陽ねえの予想通り、かなりおいしかった。いっぱい泣いて、身体の塩分が減っていたからだろうか。
食べながら、考えた。
あたしとコットンと後藤さん。出会ったとき、公園では、何かが起きていたんだろうか。あたしからイオンみたいに少しずつ分かれていった何かと、コットンから分かれ出てきた何か、後藤さんから分かれ出てきた何か。それが、公園でくっついて、新しい何かができていたのだろうか。
コットンはいなくなった。
だけど、あたしがコットンと会っていた時にできた新しい何かを、あたしは、公園から自分の心にしっかり持ってきていたのだろうか。
だから、こんなに悲しいのかもしれない。
コットンのことを考えると、また、悲しい気持ちがもこもこと盛り上がってくる。でも、こうやってあたしの心をもこもこと持ち上げた悲しみは、いつか薄くなって、消えてしまうってことも、あたしにはわかっていた。
どんなに嬉しくても、悲しくても、その気持ちをずっととっておくことはできない。友達と話して楽しい気持ちになったら、コットンのための悲しみが消えていって、あたしはまた薄情な人間ってことになるのかな、と思ったらつらくて、あたしはどうしていいかわからなくて、行きたくないって気持ちになっていたのかもしれない。
でも、重曹から出た水蒸気も二酸化炭素も、空気にのって消えていくけど、後にふかふかの蒸しパンが残る。あたしの心にも、嬉しいことも悲しいこともいつか消えていっても、ふかふかのパンみたいに後に残るものがあるんだろうか。それがなければこうはならなかった、という、新しいあたしが、ちゃんとそこに残るんだろうか。
不思議な気分だった。
中学生か高校生になって、陽ねえが書いてくれた難しい式が、何を言っているのかちゃんとわかるようになるころには、あたしは、自分の気持ちももう少しわかるようになっているだろうか。
それも通りすぎて大人になる頃には、自分なりの美味しい蒸しパンのレシピもたくさん見つけられているだろうか。
陽ねえみたいに、ハラペーニョ並みに辛い思い出もじっくり抱えて、いつか自分のレシピにちゃんと組み込めるようになっているだろうか。
コットンにありがとうの手紙を書こう、と思った。それから、後藤さんに公園で会えたら、これからもここで会ったら、よかったら時々一緒にお話ししてください、と頼んでみよう、と思った。
陽ねえとあたしも、陽ねえとママも、ママとあたしも、一緒にいたら何か新しいものができて、それが流れて、また変わっていく。
あと十年。
二十歳のあたしは、どんな顔をしているだろうか。