表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/6

3 水の中で、重曹は油と出会う

本パートでは、手書き文字・模式図の表現を使用するため、画像表示機能を利用しています。

画像を表示できない環境の方のために文字情報でも補完しますが、見づらいので、画像表示機能ONを推奨します。(イラストなどは表示されませんのでご安心ください)

 冷蔵庫の棚板を元に戻して、クーラーボックスの中身をしまいながら、あたしはぼそっと言った。


「犬、かわいいな、いつか飼いたいなって思ってたけど、わからなくなった。絶対あたしより先に死ぬじゃん。週に一度会うだけでも、こんなに好きになって、こんなに別れるのが悲しいのに、一緒に暮らしてかわいがって、それでも先に死んじゃうんだよ。絶対にお別れがくるんだよ」


「うん、そうだねえ」


 陽ねえはちょっと考え込んでいたけれど、穏やかにあたしに尋ねた。


「後藤さんはどうかなあ。コットン、飼わなきゃよかったって思ってたのかなあ」


「わかんない。でも、コットンの写真、いっぱい持ってた。見たら悲しくなりそうな気もするけど、でも、コットンはおじいちゃんのところに行っただけだから、とも言ってた」


「おじいちゃん?」


「コットンは、後藤さんのダンナさんが飼い始めたんだって。もう、十八歳だったって」


「そりゃ、ずいぶんなご長寿だ」


「後藤さんのダンナさんは、六年前に、病気で亡くなったんだって」


 ダンナさんが、子犬のころのコットンを抱えている写真も見せてくれた。


「じゃあ、後藤さんは、ダンナさんともお別れしたんだ」


「きっとすごく悲しかったよね」


「だろうね。じゃあ、トモ、後藤さんは結婚しなかった方がよかったと思う?」


「それはないんじゃない?」


 あたしはびっくりした。二組のおじいちゃんとおばあちゃんも、パパとママも、とっても仲良しだ。お互いに一緒にいないところなんて想像もできない。後藤さんも、ダンナさんのお話をするとき、すごく優しい顔をしていた。大好きだったんだろうなって思う。だから、一緒にいるほうが当たり前のことで、結婚しないほうがよかったなんて思えない。


「なんで? 犬を飼わない方がいいかも、っていうのと同じ理屈じゃない?」


「うーん」


 そう言われると、考え込んでしまう。


「陽ねえは? どう思う?」


「私は……よくわかんないな。そういう人がいたら、後でお別れが待っていると分かっても、一緒にいたいものなのかもしれない。でも、わかんない」


 陽ねえは立ち上がった。


「さっきの重曹ペースト、こすってみよう」


 ◇



 陽ねえはお財布から取り出した、要らないポイントカードで、コンロの鍋を載せる台の部分をごしごしとこすっていた。ゴトク、という名前なんだそうだ。今日一日で、ずいぶんたくさんのことを覚えた気がする。


「まあ、大体でいいよね」


「さっきよりずいぶんきれいになったよ」


「見て、ここの角のところ」


 陽ねえはゴトクの隅を指さした。どうしても抵抗している焦げが、貼りついている。


「あー、残ってる」


「でも、これを何とかしようと思うと、大がかりなんだ。重曹水をいれた鍋でこれ煮ないと」


「だって、これ入れちゃったら、コンロに鍋置けないじゃん」


「そう。だから、一個ずつやらなきゃいけないんだよ。大仕事になっちゃうから、午後一杯で終わらなくなる。これはまた次の時にさせてもらうよ」


「いいの?」


「一番大事なお掃除のコツ、教えてあげようか。完璧にきれいにしようと思わないこと」


「なにそれ」


 あたしは笑ってしまった。きれいにしなきゃいけないお掃除で、きれいにしようと思わないってどういうことなんだろう。陽ねえジョークかな。


 けれど、陽ねえは真面目な顔のままだった。


「このちっちゃな汚れが気になる! って気合入れすぎると、掃除に三倍時間がかかる。それで嫌になって、次、やる気がなかなかでなくて溜めちゃうんだ。ほどほどでいいけど、汚れをため込まないのが大事。敦子姉、苦手なりにちょこちょこ拭いてるみたいで、頑固な汚れはなかったから、助かったよ」


「そんなものなんだ」


「結局、生きてる限り、毎日汚れは溜まるからね。どこかで、上手く付き合っていかないと。ほったらかしもダメ。でも、完璧にしようとするなら、突き詰めればここで住まなきゃいいってことになっちゃう」


「それは困る」


 あたしが眉を下げると、今度は陽ねえが笑った。


 道具を片付けながら、あたしは気になっていたことを陽ねえに聞いた。


「ねえ、どうして、重曹やセスキ炭酸ソーダで、油汚れが落ちるの?」


「重曹やセスキ炭酸ソーダが水に溶けて、アルカリ性になるから」


「余計わかんないよ」


「本気で聞いてる? 中学理科以上の内容だよ」


「それでもいい」


「全部は理解できなくてもいいから聞きたいってこと?」


 あたしが、首がちぎれそうな勢いで縦にぶんぶん振ると、陽ねえはちょっと困った顔になった。

 でも、あたしがじっと待っているのを見ると、ため息をついた。


 パパと陽ねえは、あたしのこういうおねだりに弱い。ママが横で、それは絶対子ども向きじゃない、って呆れるくらい詳しくちゃんと話してくれる。その全部が理解できなくても、頭のどこかに残っていたりして、いつか別の話と繋がって、あーっ、それか! ってわかることもあるから、あたしは大人がしてくれる限り、こういう話をせがむようになっていた。


「アルカリ性っていうのは、水の中に水酸化イオン、つまりOH-が多い状態のことなんだけど、このOH-が油分とくっついて、それ自体が石鹸になるんだよ。うーん。ちょっとむずかしいんだけど、重曹で説明するとね」


 陽ねえは、ママが伝言を書くのに使うホワイトボードに、次の字を書いた。


『NaHCO3 → Na⁺+HCO3-』

挿絵(By みてみん)



「左が重曹、右が水に溶けたとき。重曹の分子は、イオンっていうもっと細かい要素に分かれる。そうすると、このHCO3-っていうイオンに反応して、水の中にOH-っていうイオンが残っちゃうんだ。水がH2Oなのは知ってる?」


「うん。パパに聞いたことある」


「液体の水の中では、その一部分がH⁺とOH-に分かれてるんだ。そのH⁺がHCO3-に持っていかれちゃう」


『H2O+HCO3- → H2CO3+OH-』

挿絵(By みてみん)



「このOH-が、油の分子に結びつくんだ。そうすると、脂肪酸っていう、片方の端っこは水によく溶けるOH-の性質、もう片方の端っこは油とよく混ざる脂肪の性質をもった物質ができる。石鹸の主な成分だよ」


『OH-+脂肪 → 脂肪酸ナトリウム+グリセリン』

挿絵(By みてみん)


『脂肪酸ナトリウム→(脂肪の成分とOH-)+Na⁺』

挿絵(By みてみん)


 陽ねえは続けて図を描いてみせた。


『油汚れと脂肪酸が反応する模式図』

挿絵(By みてみん)


「こうなると、油汚れが、脂肪酸に取り囲まれるようになって、水になじんで、浮き上がってくるんだ」


「うーん。むずかしい。重曹が水に溶けたものが油と反応して、新しい何かができるんだね。それが、油とも水とも仲が良くて、油汚れを水に浮かせてくれる、っていうこと?」


「そうそう。トモ、よくわかってるじゃん」


「へえ!」


 陽ねえの書いた難しい式はほとんどわからなかったけれど、あたしはちょっと感動してうなずいた。


「出会うことに意味があるんだね。水と、重曹と、油」


「出会った瞬間に、流れて行っちゃうけどね」


 陽ねえもうなずいた。


「流れて行っちゃうとしても、というか、流れて行っちゃうことが大事なわけだ」


「掃除だからね」


 陽ねえはまた、あたしの頭をわしゃわしゃっと撫でた。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ひだまり童話館参加作品
《開館6周年記念祭》

色々なジャンルの作品を書いています。
よろしかったら、他の作品もお手に取ってみてください!
ヘッダ
新着順 総合評価順 レビュー順 ブクマ順 異世界 現実 長編 短編
フッタ

― 新着の感想 ―
[気になる点] Na⁺は表示できているので、H₂O、HCO₃⁻、OH⁻、H₂CO₃も表示できそうですが、いかがですか? [一言] 手書きの表示は、いいですね。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ