3 水の中で、重曹は油と出会う
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冷蔵庫の棚板を元に戻して、クーラーボックスの中身をしまいながら、あたしはぼそっと言った。
「犬、かわいいな、いつか飼いたいなって思ってたけど、わからなくなった。絶対あたしより先に死ぬじゃん。週に一度会うだけでも、こんなに好きになって、こんなに別れるのが悲しいのに、一緒に暮らしてかわいがって、それでも先に死んじゃうんだよ。絶対にお別れがくるんだよ」
「うん、そうだねえ」
陽ねえはちょっと考え込んでいたけれど、穏やかにあたしに尋ねた。
「後藤さんはどうかなあ。コットン、飼わなきゃよかったって思ってたのかなあ」
「わかんない。でも、コットンの写真、いっぱい持ってた。見たら悲しくなりそうな気もするけど、でも、コットンはおじいちゃんのところに行っただけだから、とも言ってた」
「おじいちゃん?」
「コットンは、後藤さんのダンナさんが飼い始めたんだって。もう、十八歳だったって」
「そりゃ、ずいぶんなご長寿だ」
「後藤さんのダンナさんは、六年前に、病気で亡くなったんだって」
ダンナさんが、子犬のころのコットンを抱えている写真も見せてくれた。
「じゃあ、後藤さんは、ダンナさんともお別れしたんだ」
「きっとすごく悲しかったよね」
「だろうね。じゃあ、トモ、後藤さんは結婚しなかった方がよかったと思う?」
「それはないんじゃない?」
あたしはびっくりした。二組のおじいちゃんとおばあちゃんも、パパとママも、とっても仲良しだ。お互いに一緒にいないところなんて想像もできない。後藤さんも、ダンナさんのお話をするとき、すごく優しい顔をしていた。大好きだったんだろうなって思う。だから、一緒にいるほうが当たり前のことで、結婚しないほうがよかったなんて思えない。
「なんで? 犬を飼わない方がいいかも、っていうのと同じ理屈じゃない?」
「うーん」
そう言われると、考え込んでしまう。
「陽ねえは? どう思う?」
「私は……よくわかんないな。そういう人がいたら、後でお別れが待っていると分かっても、一緒にいたいものなのかもしれない。でも、わかんない」
陽ねえは立ち上がった。
「さっきの重曹ペースト、こすってみよう」
◇
陽ねえはお財布から取り出した、要らないポイントカードで、コンロの鍋を載せる台の部分をごしごしとこすっていた。ゴトク、という名前なんだそうだ。今日一日で、ずいぶんたくさんのことを覚えた気がする。
「まあ、大体でいいよね」
「さっきよりずいぶんきれいになったよ」
「見て、ここの角のところ」
陽ねえはゴトクの隅を指さした。どうしても抵抗している焦げが、貼りついている。
「あー、残ってる」
「でも、これを何とかしようと思うと、大がかりなんだ。重曹水をいれた鍋でこれ煮ないと」
「だって、これ入れちゃったら、コンロに鍋置けないじゃん」
「そう。だから、一個ずつやらなきゃいけないんだよ。大仕事になっちゃうから、午後一杯で終わらなくなる。これはまた次の時にさせてもらうよ」
「いいの?」
「一番大事なお掃除のコツ、教えてあげようか。完璧にきれいにしようと思わないこと」
「なにそれ」
あたしは笑ってしまった。きれいにしなきゃいけないお掃除で、きれいにしようと思わないってどういうことなんだろう。陽ねえジョークかな。
けれど、陽ねえは真面目な顔のままだった。
「このちっちゃな汚れが気になる! って気合入れすぎると、掃除に三倍時間がかかる。それで嫌になって、次、やる気がなかなかでなくて溜めちゃうんだ。ほどほどでいいけど、汚れをため込まないのが大事。敦子姉、苦手なりにちょこちょこ拭いてるみたいで、頑固な汚れはなかったから、助かったよ」
「そんなものなんだ」
「結局、生きてる限り、毎日汚れは溜まるからね。どこかで、上手く付き合っていかないと。ほったらかしもダメ。でも、完璧にしようとするなら、突き詰めればここで住まなきゃいいってことになっちゃう」
「それは困る」
あたしが眉を下げると、今度は陽ねえが笑った。
道具を片付けながら、あたしは気になっていたことを陽ねえに聞いた。
「ねえ、どうして、重曹やセスキ炭酸ソーダで、油汚れが落ちるの?」
「重曹やセスキ炭酸ソーダが水に溶けて、アルカリ性になるから」
「余計わかんないよ」
「本気で聞いてる? 中学理科以上の内容だよ」
「それでもいい」
「全部は理解できなくてもいいから聞きたいってこと?」
あたしが、首がちぎれそうな勢いで縦にぶんぶん振ると、陽ねえはちょっと困った顔になった。
でも、あたしがじっと待っているのを見ると、ため息をついた。
パパと陽ねえは、あたしのこういうおねだりに弱い。ママが横で、それは絶対子ども向きじゃない、って呆れるくらい詳しくちゃんと話してくれる。その全部が理解できなくても、頭のどこかに残っていたりして、いつか別の話と繋がって、あーっ、それか! ってわかることもあるから、あたしは大人がしてくれる限り、こういう話をせがむようになっていた。
「アルカリ性っていうのは、水の中に水酸化イオン、つまりOH-が多い状態のことなんだけど、このOH-が油分とくっついて、それ自体が石鹸になるんだよ。うーん。ちょっとむずかしいんだけど、重曹で説明するとね」
陽ねえは、ママが伝言を書くのに使うホワイトボードに、次の字を書いた。
『NaHCO3 → Na⁺+HCO3-』
「左が重曹、右が水に溶けたとき。重曹の分子は、イオンっていうもっと細かい要素に分かれる。そうすると、このHCO3-っていうイオンに反応して、水の中にOH-っていうイオンが残っちゃうんだ。水がH2Oなのは知ってる?」
「うん。パパに聞いたことある」
「液体の水の中では、その一部分がH⁺とOH-に分かれてるんだ。そのH⁺がHCO3-に持っていかれちゃう」
『H2O+HCO3- → H2CO3+OH-』
「このOH-が、油の分子に結びつくんだ。そうすると、脂肪酸っていう、片方の端っこは水によく溶けるOH-の性質、もう片方の端っこは油とよく混ざる脂肪の性質をもった物質ができる。石鹸の主な成分だよ」
『OH-+脂肪 → 脂肪酸ナトリウム+グリセリン』
『脂肪酸ナトリウム→(脂肪の成分とOH-)+Na⁺』
陽ねえは続けて図を描いてみせた。
『油汚れと脂肪酸が反応する模式図』
「こうなると、油汚れが、脂肪酸に取り囲まれるようになって、水になじんで、浮き上がってくるんだ」
「うーん。むずかしい。重曹が水に溶けたものが油と反応して、新しい何かができるんだね。それが、油とも水とも仲が良くて、油汚れを水に浮かせてくれる、っていうこと?」
「そうそう。トモ、よくわかってるじゃん」
「へえ!」
陽ねえの書いた難しい式はほとんどわからなかったけれど、あたしはちょっと感動してうなずいた。
「出会うことに意味があるんだね。水と、重曹と、油」
「出会った瞬間に、流れて行っちゃうけどね」
陽ねえもうなずいた。
「流れて行っちゃうとしても、というか、流れて行っちゃうことが大事なわけだ」
「掃除だからね」
陽ねえはまた、あたしの頭をわしゃわしゃっと撫でた。